東海道五十三次で紐解く広重、浮世絵の秘密

東海道五十三次で紐解く広重、浮世絵の秘密

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ひと口に日本美術といっても、金地の極彩色からモノトーンの水墨画まであり、掛軸から屏風や襖、版画までスタイルもタイプもさまざま。長谷川等伯、伊藤若冲、葛飾北斎…和樂INTOJAPANでも何度も取り上げてきた面々ですが、実はまだまだ隠されてきた秘密がいっぱいあるのです。「そうだったのか日本美術!」とひざを打つこと間違いなしの日本美術入門。今回はその中から、風景画のエンターテイナー歌川広重の秘密をご紹介します。

江戸の旅行ブームの火付け役

美人画や役者絵を得意としていた歌川派にありながら、円山応挙の影響で写生を重視していた広重は、名所絵に活路を見出します。そうして発表した「東都名所」シリーズは、同時期に発表された北斎の「冨嶽三十六景」の大人気のあおりを受け、成功にはいたりませんでした。

歌川広重歌川広重「東海道五十三次之内 日本橋 朝之景」横大判錦絵 天保4〜5(1833〜1834)年 山口県立萩美術館・浦上記念館

それから2年後、37歳の広重は有名版元・保永堂の依頼を受け、東海道の53の宿場を写生して描き上げた「東海道五十三次」シリーズを満を持して発表。当時、十返舎一九が書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」が話題になっていたことも手伝って、「東海道五十三次」は空前の大ヒットを記録。それによって、富士山信仰による参拝の旅や、伊勢へのおかげ参りなどの旅行ブームも本格化していきました。

歌川広重歌川広重「東海道五十三次之内 箱根 湖水図」横大判錦絵 天保4〜5(1833〜1834)年 山口県立萩美術館・浦上記念館

大胆な構図のインパクトがすごい!

風景をより印象的に見せる構図に心を砕いて様々な名作をものにした広重は、60歳になる前に隠居を考えていたころ、安政の大地震に遭います。江戸市中は火の海と化し、7000人を超える死者を出した大災害に直面し、生家が火消同心であった広重は落胆すると同時に、江戸の町の無残な様子に心を痛めます。そして、還暦を機に剃髪し、江戸の復興の様子を絵に残すことを決めるのです。

歌川広重歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」大判錦絵 安政3(1856)年 メトロポリタン美術館 The Metropolitan Museum of Art,The Howard Mansfield Collection,Purchase,Rogers Fund,1936

そうして発表したのが不朽の名作「名所江戸百景」!広重は各地をできるだけわかりやすく表現するために、それぞれの名物を大きく手前に配するという大胆な手法をとります。これは中国・南宋の画法にならったものとされますが、インパクトある構図は広重の地元愛の賜物でもあったのです。

あのゴッホも手本にした!?

ジャポニスムで沸き立っていたパリで、浮世絵に心を動かされた画家たちの中でも、とりわけ広重の風景画に心を動かされたのがゴッホでした。生前のゴッホは不遇をかこち、パリでゴーギャンやドガらと親交を深める中で浮世絵と出合い、その魅力に圧倒されたのです。そして、貧しい暮らしにもかかわらず、ゴッホは浮世絵を集めはじめます。広重の「名所江戸百景」のうち「大はしあたけの夕立」と「亀戸梅屋舗」を最も気にいっていたといわれています。

歌川広重歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」大判錦絵 安政4(1857)年 メトロポリタン美術館 he Metropolitan Museum of Art,The Howard Mansfield Collection,Purchase,Rogers Fund,1936

なぜなら、両作に表された遠近の対比や鮮やかな色彩は、西洋にはなかったものだから。斬新な手法を学び取るために油彩で模写も行っているのです。その作品にはゴッホの浮世絵への憧憬と、成功への願いが託されているかのようです。

歌川広重フィンセント・ファン・ゴッホ「日本趣味 雨の大橋」油彩・画布 1887年 73.0×54.0㎝ 写真提供/PPS(Album/Fine Art Images)

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