思いを巡らし続けるのはやめよう
今回の禅語:自己をはこびて万法を修証(しゅしょう)するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
この禅語を読んだときに、ふと思い出したのが、南インドの聖者ラマナ・マハルシの口述をまとめた「不滅の意識』の中に記されていた言葉でした。
人びとが自分は行為者である、と考えることが問題です。これが誤りなのです。すべてのことを行うのはより高次の力であり、人びとは道具にすぎません。
「私」はエゴあるいは「私」という想念にすぎません。ひとたび「私」という想念が現われると、すべての他の想念がそれに続いて起こります。(中略)あなた自身で「私は誰か」とたずねなさい。その源を発見しなさい。そうすれば想念は消えるでしょう。
この言葉、私の中で、冒頭の禅語を解説しているかのように感じるのです。
私、つまり自己はいらない。万法すなわち全ての存在(仏法)やマハルシさんの言う「高次の力」にとにかくお任せしなさい、ということですよね。“神頼み”という言葉もあるように、自分で考えたり、思いを巡らすのはやめて、それらの存在を信じて委ねてみること。
そして、私が好きなのは、「人々は“道具”にすぎません」という表現。坐禅中も、自分自身が世界に存在するさまざまなモノの一つでしかない!と思えると気持ちが楽になるような気がします。
「迷い」と「さとり」、どちらの境地へ行くのか。自己が万法を説くのか、万法が自己を説くのか。
すべてがそんな単純な意識の違いから生じているということを、短い言葉ではっきりと教えてくださっている道元さんの『正法眼蔵』、中でも「現成公按」の巻は、本当に面白く、興味深いです!
ヨガから学ぶ「生かされている喜び」
私にとってこうした感覚を実践するのに役立っているのがヨガです。
私がいつも通っているヨガ教室は、先生がインド人の方なのですが、彼らのスタイルは日本のヨガインストラクターの方々と比べてひとつのポーズのホールド(固定時間)が本当に長いんです。
大体1分から長い時で3分くらいの時も! たとえば、お尻を床につけて座り、手足をV字にして引き上げるポーズや、膝立ちから手を真っ直ぐに伸ばして上半身をそのまま後ろに反らすポーズだったり。どちらもそのまま固定して呼吸を続けるんです!
ヨガをやったことのある人ならわかるかもしれませんが、そんな時、姿勢やポーズに意識をフォーカスさせると痛くて苦しいし、つらい! すぐに「もう無理!」と思ってしまってポーズが続かなくなります。
でも、ラマナの言葉を思い出し、今、このポーズを私にさせているのは「高次の力」で私はその道具でしかない。ポーズをただ「受け取っている」にすぎない、と意識を変えてみると、とっても不思議なんですが、体が急に軽くなって、楽になるんです。本当に冗談みたいな話で!
苦しいとかつらいと考えず、「ポーズを与えてもらっている」喜びに変えるというのでしょうか。
自分でポーズを取ろうとするとなんだか力が入って頑張ってしまうのですが、自分ではなく、誰かにポーズを与えてもらっているという感覚は、自分自身を謙虚な存在に変えてくれます。意識の持ちようで体の感覚が変わるのはとても不思議であり、同時に本当に面白いんです。
ヨガはもともとサンスクリット語で「結合する、繋がる」という意味を持つのですが、ポーズを繰り返すうちに、そんな高次の力と自身との繋がりを実感できるようにも思います。
それは、自分が特別な存在になるということではなく、個人的な自分の全てを一旦手放すということ。実践の力によって手放したときに、自分が生かされて存在していることに気づき、それを受け取る喜びを知る。そこから感謝や、今この時間の大切さ、一瞬一瞬が奇跡だという感覚を味わえるのではないかと思うんです。
全員が世界の一部であり自然の一部
私たちって人間としてそれぞれが独立して存在しているのではないですよね。一人ひとりが世界の一部であり、自然の一部なんだとハッキリと気づくことが、この禅語を理解するのを助けてくれるのかもしれません。
オフィスにいて、嫌な仕事を任され、嫌々取り組むと時間が非常に長くつらく感じるかもしれませんが、自分がこなすのではなく、何でも神や高次の力から与えられたものだと感謝して取り組むと、きっと何か気づきや喜びに出会える気がするんです。
そんなふうに受け止め方を変えると、もしかしたらプロジェクトの中の過程で運命的な出会いに恵まれるなんてこともあるかも(笑)! 余計な愚痴や悩みは手放して、どんなことも受け取る喜びに変えて毎日を過ごしていきたいですね。
監修:横山泰賢(日光山 禅昌寺住職・曹洞禅インターナショナル会長)