河鍋暁斎のプロフィール
河鍋暁斎は、天保2(1831)年に下総国古河(現・茨城県古河市)で生を受け、明治22(1889)年に59歳で亡くなるまで、江戸・東京を中心に活躍した絵師です。わずか7歳にして幕末の浮世絵師として名高い歌川国芳門下生となり、その後は狩野派の絵師に師事します。そして弱冠19歳の若さで絵師としての独立を許されるという、驚くべき早熟性と天賦の才を発揮しました。今で言えば”藝大卒で気鋭の漫画家”のような存在だったのです。
しかし、恐らくはその溢れる才能の落としどころを、本人自身も自覚できていなかったのかもしれない。そうとしか思えないほど、その後の彼の画風はありとあらゆるジャンルに及ぶのです。正統的な技法を完璧にマスターした狩野派的絵画から、浮世絵を踏襲した美人画や風俗画、さらには明治という時代を背景に、彼の奥底にある反骨精神を、これでもかと発揮したユーモラスな動物画や風刺画にいたるまで、「来る者は拒まず」とでも言いたげに、あらゆる画題を縦横無尽に描き続けたのです。
自然界の法則に反した、意表をつく構想があっぱれ
「動物の曲芸」一枚 紙本着色 37.6×52.9㎝ 明治4~22(1871~89)年 イスラエル・ゴールドマン コレクションIsrael Goldman Collection,London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター
卓越したテクニックを発揮した奇想の絵師・河鍋暁斎
暁斎の描写力の高さは、円山応挙や伊藤若冲に比肩するほどの的確さで、作品のバラエティの豊かさと質の高さはまさに技のデパートと言えるほど。暁斎は、とにかく「描け」と言われればなんでも描かずにはいられない破天荒な奇才だったのです。
何より興味深く面白いのが、彼の人生を取り巻くエピソード。3歳にして既に蛙の写生をこなし、9歳のときには増水した神田川に流れ着いた生首(!)を平然と模写、懇意にしていた仮名垣魯文に頼まれた長さ17m、縦4mもある歌舞伎舞台用の引き幕を描く際には、大酒を飲みながら写場に現れ、たった4時間ほどで描ききってしまったと言います。
妖怪に見立てられた役者たちがこれでもかと巨大画面を埋め尽くすこの引き幕、とても酔いに任せた状態で描ける代物ではありません。自らの画号を「狂斎」(後に暁斎と改名)とした「画鬼」は、己のテクニックを誇示するかのように鉛筆を揮っていたのです。
一皮むけば、高僧も美人もみな骸骨。同じ骨なら踊りゃなソン、ソン?
「地獄太夫と一休」一幅 絹本着色金泥 136.9×69.0㎝ 明治4〜22(1871〜89)年ごろ イスラエル・ゴールドマン コレクション
Israel Goldman Collection,London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター
其一の娘婿にして国芳門下、コンドルの師匠でもあった天才絵師・河鍋暁斎
そんな暁斎の高い才能と真価をいち早く認めていたのが、だれあろう明治という時代を象徴する御雇外国人たちでした。彼は多くの外国人たちと交流を図りますが、中でも厚い親交を結んだのが、鹿鳴館の設計者としてお馴染みのジョサイア・コンドル。コンドルは暁斎の絵師としての力量に感銘を受け、何と彼に弟子入りして「暁英」の画号まで授かっています。奇想天外にして斬新な作風で知られる暁斎ですが、彼の人となりがこんな交友関係にも表れているのではないでしょうか。
最後に暁斎の力量を静かに物語るエピソードをひとつ。彼は27歳のときに結婚を果たしますが娶った女性はなんと、こちらも今現在、人気急上昇中の江戸琳派の切れ者絵師・鈴木其一の次女・清だったのです。あの才能豊かな其一が娘の旦那として見込んだ男が暁斎だった……。この事実だけをとっても「暁斎はあっぱれ」な存在だったと言えるのではないでしょうか。
師匠・国芳もびっくり!三枚続きの浮世絵にも暁斎の大胆な発想が爆裂
「名鏡倭魂 新板」大判錦絵三枚続 明治7(1874)年 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection,London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター