明治の中ごろ、日本に万年筆がもたらされました。しかし、戦後しばらくまで、あらたまったときのご挨拶は、毛筆が大人の礼儀という風習が残っていました。今回は、かつての文士たちが送った、毛筆の年賀状をご紹介。歌人の夫婦として名が知られていた与謝野寛(鉄幹)・晶子、元祖マルチタレントとして一世を風靡した徳川夢声、歌人や書家として著名であった尾上柴舟。どの年賀状からも、彼らの人柄がしのばれます。
与謝野寛・晶子の年賀状
与謝野寛・晶子が大正11(1922)年に、詩人の平戸廉吉に宛てたもの。これは、ちょうど夫婦が、建築家の西村伊作らと、東京・御茶の水の駿河台に「文化学院」を創設した翌年に当たる。創設メンバーの画家・石井柏亭による犬張り子の絵も愛らしい。日本近代文学館蔵
徳川夢声の年賀状
昭和12(1937)年、徳川夢声が、怪談物の作家、田中貢太郎(桃葉)に出したもの。「頰骨のいよいよたかき初鏡」という気の利いた一句が墨書されている。日本近代文学館蔵
尾上柴舟の年賀状
明治45(1912)年、尾上柴舟から詩人の内海信之(泡沫)に宛てたもの。「としのはじめを賀し奉り候 御名昨年一寸承り候へどもよくわからず ついに失礼いたし候 帰郷の節はかならず拝眉いたしたく候」とあり、書家としても著名であった柴舟の筆跡が流麗。日本近代文学館蔵