日本各地の存在する「やきもの」の窯の特徴には、その歴史が大きくかかわっています。やきものとはいったいどんな歴史をたどり、どう発展してきたのか――。
出光美術館の主任学芸員として人気の陶磁器展を手がけた荒川正明さん(現在は学習院大学日本美術史教授)に、陶磁器の始まりから発展について優しく解説していただきました。※「和樂」2006年5月号の記事より抜粋。
大壺 常滑窯 平安時代後期 出光美術館 ※「六古窯―〈和〉のやきもの」展に出品
日本でのやきものの始まりは・・・
日本には縄文時代から1万年以上のやきもの歴史があり、最も古いものは縄文時代の土器です。
日本のやきものの転換点は、より硬質な須恵器の技術が朝鮮半島から入ってきた5世紀といえます。「焼締(やきしめ)」という非常に高い温度で焼く技術が初めてもたらされたのです。やきものは窯のなかで焼くと1200℃以上の高温になり、器に降りかかった燃料の薪の灰が溶けてガラス質が器の表面を覆います。この自然釉が素焼きの土器の段階から、釉薬をかける陶磁器の段階への入り口になりました。
この自然釉の流れに美を見出したのが、日本のやきものの見方の特徴です。奈良時代には特に愛知県の猿投窯(さなげよう)の灰釉(かいゆう)陶器が流行って、貴族たちの酒器や蔵骨器になります。首や肩のところから自然の釉が流れている、こういうものに自然のエネルギーが現れていると感じたんでしょう。
壺 信楽窯 南北朝時代 出光美術館 ※「六古窯―〈和〉のやきもの」展に出品
須恵器が広まる一方、日本では素焼きの土器も使い続けられます。歴史の教科書では土器は縄文、弥生・古墳時代までで、須恵器が来ると終わるとされていますが、実際には江戸時代の地方のお墓のなかからも発掘で土器の皿がいっぱい出てくる。使者にお供え物をしたんでしょう。清らかさの象徴である土器というのは、宗教に近いところで現代まで生き残っているのです。
中国伝来の磁器が日本のやきものを変えた!
次に日本のやきもの史で大きな転換点となったのは、磁器の登場です。中国から初めて本格的な時期が日本に入ってくるのは、だいたい平安時代前期の9世紀。その影響を受けて日本でも人工的な釉薬をかけた陶器が生まれます。一方で、同じ時代に「白土器」という最高級の土器ができたのも面白いことです。
結局、中国磁器がいっぱい入ってきて日本では自前の磁器が早くからは育ちませんでした。やきもの大国の中国は、9世紀から磁器を貿易の手段として利用した国です。一方、朝鮮半島では、貿易という気はまったくなかったようで、高麗青磁は相当レベルが高くて中国の官窯に近いけれど、輸出はほとんどせず、ごく限られた貴族層のためだったようです。わずかに食器などが室町時代に来ています。17世紀の日本における高麗茶碗ブームになると、さすがに積極的に茶碗を輸出しましたが。
日本で伝世品としてのやきものをきちんと伝えていこうとし始めたのは、鎌倉時代後半以降で、おそらく鎌倉の禅寺からだと思います。鎌倉の禅寺に、今でも青磁の酒会壺とか香炉が残っていますが、当時の東国の武家層が中国文化を吸収して京都と対抗しようとしたわけです。やきものを室内の飾りとして使うことが本格的になって、鎌倉時代後期以降は特に武家のステイタス・シンボルとして、中国磁器が伝世されていきます。
16世紀に入ると、景徳鎮窯の白磁と青花磁器が爆発的に日本に入ってきます。日本の当時の高級食器といえば、中国の白磁と青花磁器と国産漆器と言っても過言ではありません。
中世になると日本独自のやきものへの意欲が高まる
そんななかで初めて、中国に迫るような国産の高級なやきものをつくろうという意欲が生まれて、当時の大商人たちが競って朝鮮から陶工集団を連れてきます。「これからやきものは大きなビジネスになる。日本の食器を国産のやきもので埋め尽くそう」と思ったのでしょう。可塑性があって、絵も描けるので「こんな面白い素材はない」と思ったんじゃないでしょうか。中国磁器も漆器も駆逐するという大志も抱いたと思います。
灰釉牡丹文共蓋壺 瀬戸窯 鎌倉時代後期 出光美術館 ※「六古窯―〈和〉のやきもの」展に出品
それまで日本でいちばん大きい食器づくりの窯は瀬戸です。九州には中世の窯が発達しませんでしたが、17世紀初期には瀬戸と同じぐらいの窯があっという間にできるわけです。1580年代ごろから、20年間ほどで何百も窯ができます。それが古唐津で、肥前の伊万里、武雄、有田などに窯ができました。
古唐津のように筆で描く文様は、日本では桃山時代に始まります。中国では12世紀から本格化します。北方の磁州窯で、鉄泥で絵を描き出し、元時代、14世紀には青花磁器が登場しました。初めてコバルト顔料で絵付けするものが本格的に出たのです。赤などの色絵が付くものは、なおさら遅くて中国でも本格的には16世紀になります。
残念ながら、日本では中世に文様がほとんど途絶えています。中国磁器を真似して模様を描いたけれど、あまり発達せずに終わってしまった。中国磁器がどんどん入ってくるから、それに勝てなくて「壺、瓶、すり鉢」など調理や貯蔵用の分野に行ってしまったのです。
やきものがいよいよ芸術的な素材として見出されたのは桃山時代でしょう。都市の富裕層がやきものの楽しさに目覚めたのです。地方の国産のやきものがニューモードになります。焼締の備前や信楽(しがらき)の水指、伊賀の花生などは「こんな大胆で奇抜なものができちゃった」という感じでできたと思います。
(以上、荒川正明さん談)
中世から現代まで受け継がれた「六古窯」
大壺 丹波窯 室町時代 出光美術館 ※「六古窯 ― 〈和〉のやきもの」に出品
やきものの産地として有名な、瀬戸、常滑(とこなめ)、越前、信楽、丹波、備前の6つの古い窯は、平安時代後期から鎌倉・室町時代の中世に生み出され、現代までやきものづくりが続いていることから「六古窯(ろっこよう)」と称されます。
2017年に文化庁の「日本遺産」に選定された六古窯は、伝統的な技術に加えて、中国や朝鮮半島などの舶来の文物に影響を受けながら、各自で独自のスタイルを生み出しました。
素朴でありながら豪快で力強さを備え、表面には素材の土の色や、窯のなかで焼成されるときに炎の熱を受けて生じた緋色、人知の域を超えて流れる釉薬などが見られるところに特徴がある六古窯のやきもの。まるで生命が宿っているかのような個性が魅力となっています。
六古窯でつくられたやきものは、壺、甕(かめ)、すり鉢など当時の人々の生活の必需品で、中世の人々にとって三種の神器ともいえるもので、その伝統は桃山から江戸時代に続いていきます。
一方で、日常のうつわであったものが、桃山時代には茶の湯のうつわとしても注目されるようになり、近現代においては鑑賞の対象にもなりました。