だしと醬油と甘みが玉子の味を底上げしている。こんな玉子は幸せだ。
東京は秋葉原駅近くに、戦前からの古い飲食店が残る一角があります。その中の一軒、そばの神田まつやは130年の歴史があり、機械打ち全盛の昭和38(1963)年に手打ちに切り替えた、先見の明のある店。ここには品書きに載っていない、要予約の玉子焼きがあります。そのつくり方を拝見しました。
強めの火で勢いよく焼くのがふわふわに仕上げるコツです
神田まつやは明治17(1884)年の創業。『鬼平犯科帳』『剣客商売』で知られる作家の池波正太郎が、生前愛した店のひとつです。
「うまいといえばまつやで出すものは何でもうまい。それでいて蕎麦屋の本道を踏み外していない。だから私は、子供のころに連れて行かれた諸々の蕎麦屋へ来ているようなおもいがする。そのころの蕎麦屋の店構えがまつやには残っている」(『散歩のとき何か食べたくなって』新潮文庫)と書いているように、しばしば下駄履きで来店したそうです。
店があるあたりは、昭和の初めまで神田連雀町(れんじゃくちょう)と呼ばれていました。神田川にかかる筋違橋(すじかいばし)のたもとにあって、連尺という背負子をつくる職人が多く住んでいたからといいます。明治時代には近くに甲武鉄道(今の中央線)の万世橋駅ができました。寄席や宿屋があり、市電の発着が多い繁華なところで、銀座や上野に匹敵する盛り場でした。東京大空襲で焼け残ったため、甘味やあんこう鍋などの老舗が点在しています。神田まつやの店構えを見ると、昔の街並みがもっと残っていたらどんな東京になっただろうと思わされます。
ところで、今回紹介する玉子焼きは、品書きに載っていません。知る人ぞ知る品で、予約しないと食べられないのです。焼き上がるまでの約10分間、料理人を独占してしまう料理だからなのでしょう。
玉子焼きは小判形。大根おろしの水気を絞って醬油をたらした染めおろしを添え、すっきりした皿で出てきます。厚みは3㎝ほどで上には三つ葉が焼き込んであり、玉子の焼けた香ばしいにおいがただよいます。弾力がありますが、焼き締まっていなくてやわらかい。すっきりしただしと甘みは、東京の味です。
大旦那の小高登志さんが、「小判形の玉子焼きは八丁堀のあさだというお店が元と聞いています。もっと大きなものだったそうですがね。上野の蓮玉庵でもこのかたちの玉子焼きを焼いていたんですが、鍋をつくる職人さんがいなくなったのでやめちゃった。有楽町の更科が浅草の銅銀という店に頼んで焼き鍋を復元したので、それを使わせてもらったのがうちの玉子焼きの始まりです。昭和40年代だったと思います」と教えてくれました。
玉子焼きをつくってみましょう
1.焼き鍋をよくよく熱する
鍋は火にかけてよく熱し、サラダ油をまんべんなく塗る。サラダ油は今の客の好みを考えて使っている。もっとボリュームが欲しい場合は、昔のように鶏の脂身を火にかけて取る鶏油を使ってもよい。油が鍋になじむほど玉子が付きにくくなり、表面がきれいに焼ける。また、ふたの内側にも忘れずに塗っておく。
2.玉子液を流し込む
神田まつやで使うのは青森県産の玉子。普通の鶏の玉子が固くなりにくくて使いやすい。大きさはL。ボウルに玉子をふたつ割り入れて、菜箸で溶きほぐす。玉子のにおいが出ることがあるので、あまり熱心にかき混ぜなくてもよい。焼き上がったときに色むらがないように、黄身と白身をよく混ぜ合わせる。
3.蜜を加える
玉子液に、かえし(醬油1.8ℓに対して砂糖375gを合わせた調味料)と日本酒、砂糖でつくった『蜜』を加えてよく混ぜ合わせる。日本酒は煮切らずにそのまま使い、醬油はヒゲタ醬油を使用している。砂糖は入れすぎないこと。甘すぎない、きりっとした味に仕上げる。だしも少々加える。玉子2個に蜜を54㏄ほど入れる。
4.固まったところをはがす
焼き鍋に玉子液を入れ、周りや底の固まったところを菜箸ではがしていく。このときに乱暴に箸を動かすと、玉子液が鍋の外にこぼれてしまい、仕上がりの高さが出なくなる。手早く、しかも慎重に、薄焼き玉子を移動させるように箸を動かしていく。この作業が「固まっているけれどやわらかい」食感を生み出す。
5.三つ葉を載せる
焼き鍋の中が、写真のように薄焼き状の玉子でいっぱいになったら、上に三つ葉を載せる。そのままだと、ひっくり返して焼くときにふたに直接三つ葉が触れてこげてしまうので、薄く玉子液をかける(そのための玉子液を少量残しておくこと)。ふたをしてひっくり返して焼く。上側の玉子が固まる程度に焼けばよい。
6.ふたの上に玉子焼きを取り出す
三つ葉が載っている上側が焼けたら火から下ろし、ふきんでふたを押しつけて、はみ出した部分を押し切る。ふたを開けて玉子焼きと鍋の間に隙間をつくり、取り出しやすくする。菜箸でふたを押さえながら鍋のふた側に玉子焼きを載せる。皿を近くに持っていき、三つ葉が上になるようにふたから滑り落とすようにして盛る。
「まつや」玉子焼きの秘密
神田まつやの玉子焼きの特徴は、焼き鍋と呼ばれるふた付きの銅鍋で焼くことです。この鍋は特注で、浅草の銅銀銅器店に依頼しています。銅は熱をやわらかく伝えるので、玉子焼きにはぴったり。銅の玉子焼き鍋を使っているお店は多いようですが、ほとんどは長方形です。小判形は、縁起のいいかたちだから採用されたのでしょうか。
焼き鍋はあらかじめよく熱して、隅々まで油を塗っておきます。鍋に油がなじんだほうが焼きやすく、新品のうちは焼きにくいものだそうです。使う油はくせのないサラダ油です。「さっぱりした味が好まれているのでサラダ油を使っていますが、昔は鶏の脂身から取った油で焼いていたこともあります。もっとこってりとした味になりますね」と孝之さん。
蓋が付いているのは、ひっくり返して上になる側を焼くためです。焼いている時間は両面で10分ほど。火は強めの中火です。孝之さんによれば、玉子液にきちんと火が入ることが必要だから、とか。「中にお酒が入っているので、アルコール分がうまく飛ばないとお酒のにおいが残るんです」
玉子自体にはほとんど香りがないので、お酒のかすかな香りもわかりやすいというのです。味つけには、『蜜』と呼んでいる調味料とだしを玉子液に入れます。蜜は、そば屋さんならではのかえしと砂糖と日本酒を合わせたもの。かえしとは醬油に味淋(みりん)、砂糖などを入れた調味料のことで、お店によって調合割合や火を入れるかどうかなど、つくり方が違います。また、まつやでは、だしはかつおぶしのみ。昆布は使いません。
「弱火でじわじわ焼いていると、固くなってしまいます。逆に火が強すぎると、『す』が入りますしね。焼け方が均一になるように、箸で混ぜていきますが、あまり勢いよく混ぜて玉子がこぼれると、でき上がりの高さが出なくなってしまいます」シンプルな料理だけに、強すぎず弱すぎずの火加減も、ものをいいます。焼き上がるまで目を離せない料理ですから、予約になるのもしかたないことがわかります。
ある程度固まったら、三つ葉を載せて、「直接ふたに当たるとこげてしまうので」薄く玉子液をかけます。飾りのようなこの三つ葉ですが、食べるときにはほんのりと香って存在を主張します。
でき上がりは、中まできちんと焼けていながらやわらかく、角がぴしりと決まったいなせな姿。ほれぼれします。「神田という町は商人の文化が育ったところなんですよ。職人も今でいうエンジニアだから尊敬されていましたしね」と言う登志さん。
旦那と職人がいた土地だからこそ伝えられてきた味は、この玉子焼きでじっくりと実感できます。
M.M. Factory「極厚 玉子焼き器」
卵焼きをつくるなら、こちらの商品がおすすめ。厚さ4・5mmで蓄熱性が高く、熱ムラがありません。食材に均等に熱が伝わるので卵を流し込んでも温度を保ち、焼き目を付けて、中はふっくらと仕上がります。
▼詳細・購入はこちら(「大人の逸品」へ移動します)
https://www.pal-shop.jp/item/A91353024.html