NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公、渋沢栄一(しぶさわえいいち)。イケメンで話題の吉沢亮さんが演じるとなり、期待が高まっています! 渋沢栄一は「資本主義の父」とも言われ、新一万円札の顔ともなる人物ですが、なぜ彼が選ばれたのでしょうか? その背景や渋沢栄一の活躍などについて詳しくご紹介します。
20年ぶりに新しくなる日本の紙幣
2004年に変更されてから約20年。2024年度前半に、私たちの生活には欠かせない日本の紙幣デザインが新しくなる。その中でも一万円札は、1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来、実に40年ぶりの変更となる。
そんな節目の顔に選ばれたのは渋沢栄一だ。2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもあり、「日本資本主義の父」とも呼ばれる人物である。
この記事ではこの渋沢栄一について、知られざるエピソードも含めて紹介する。もちろん新五千円札、千円札の新しい顔も紹介するので、新しい紙幣について期待を高めてみてはどうだろうか。
新しい顔は渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎
現在発行されている日本の紙幣は現在3種類。2024年にはすべてのデザインが一新されることが発表されている。
新一万円札の顔は渋沢栄一。第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京株式取引所(現・東京証券取引所)など約500の企業の設立育成に関わった「日本資本主義の父」である。2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても名前が頻繁にとりあげられているので、今一番ホットな歴史上の人物かもしれない。
新五千円札は津田梅子だ。津田梅子は「女性教育の先駆者」といわれる女傑であり、女性教育の可能性を大きく広げた人物である。そして千円札は野口英世から、「近代日本医学の父」北里柴三郎に変わる。細菌学の権威でペスト菌を発見したことでも有名だ。
こうやって見ると、五千円札は女性、千円札は医学絡みと、どこか共通性のある人物が選ばれているのは、偶然なのか、はたまた隠れた意図があるのか、面白い。
渋沢栄一が紙幣に採用されたのは実は二度目
新一万円札の顔、渋沢栄一だが、実は紙幣の顔としては二度目の採用だったということはあまり知られていない。
その紙幣とは、1902年の第一銀行が韓国政府から許可され発行が開始された紙幣のことだ。「第一銀行券」と呼ばれたそれらは、1円、5円、10円の三種類。渋沢が設立に関わった日本初の民間銀行「第一国立銀行」は明治11年に朝鮮釜山に支店を設置して以降、各地に支店を設けていた。第一国立銀行が普通銀行になって改称した「第一銀行」が発行したものである。渋沢が描かれたのは、彼がその当時頭取であったことが理由だといわれている。
なお、1963年に発行された千円札でも渋沢は候補に挙がったが、この時は伊藤博文に負けている。なかなかない紙幣の顔、候補も含めれば三回も選ばれるとは、それだけ渋沢に「顔」としての要素が数多く備わっていたということだが、実は、人物像だけでない重要なポイントもある。それについては後述する。
なお、渋沢の採用された新一万円札の裏面は東京駅が採用されることが決まっている。
渋沢栄一とは
「日本資本主義の父」と呼ばれるわけ
そんな渋沢栄一は、1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら・現在の埼玉県深谷市)の農家で生まれた。家業の畑作や養蚕、藍玉の製造などを手伝う一方で、従兄の影響を受け「論語」などを学ぶ。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた渋沢は、従兄と共に高崎城乗っ取りの計画を立てるなどするものの断念し、京都で一橋慶喜に仕えることになり頭角を表す。27歳の時には、15代将軍となった徳川慶喜の実弟であり、のちの水戸藩主である徳川昭武に随行し欧州を巡った。パリの万国博覧会も見学したという。西欧の文明をリアルに体験した彼は経済の重要性に目覚め、帰国後静岡で「商法会所」を設立、その功績が国に認められ民部省へ入省、その後大蔵省に転任。のちに日本初の近代銀行である第一国立銀行を設立することにもなるのである。
ある意味テロリストから敵視していた幕府の家臣に転身、さらには商人から官僚、銀行家へと、その変わり身のすごさにはため息が出るが、それが渋沢の柔軟さと魅力だったのだろう。
結果的に経済の発展と商人の地位向上のために邁進した彼の功績は、のちに彼に「日本資本主義の父」の名を与えることになったのである。
約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わる
西洋の文明を目の当たりにした渋沢は、株式会社を設立して日本を近代化すべきという主張を持っていた。
明治政府に出仕し、民部省の一員として新しい経済の仕組み作りに邁進していた渋沢栄一だったが、1873年に大蔵省を辞任。満を期して第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立し、総監役、のちに頭取に就任する。日本で最初の銀行である。
なかなかの偉業だが、彼の進化は留まることを知らない。さらには、第一国立銀行、東京海上保険会社(現東京海上日勤)、東京瓦斯会社(現東京ガス)、抄紙会社(現王子製紙)、と錚々たる企業の設立に関わる。さらには東京株式取引所、東京手形交換所、商法講習所(現一橋大学)、そして日本女子大学校(現日本女子大学)といった、今の日本経済を形成する組織の立ち上げにも関わっているのだからすごいバイタリティだ。生涯で関与した企業の数500社、社会公共事業の数も600にものぼるというのだからすごい。
英語のbankを「銀行」と訳したのも渋沢だという説もある。
ノーベル平和賞の候補にも選ばれる
そんな渋沢は、1925年に内閣総理大臣加藤高明らによって1926年度ノーベル平和賞の候補として推薦されている。選出の理由は、アメリカとの関係を中心とした国際親善平和のためというが、一体どんなものだったのか。
渋沢はアメリカとの良好な関係が、自国ひいては世界の発展に不可欠だと予想していた。思うだけではないのが渋沢である。1909年、全国の商業会議所のメンバーを中心とした民間人50名による「渡米実業団 (Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)」を組織し、団長に就任。3カ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を視察し、第27代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトや鉄道王ジェームズ・ヒル、そして発明王トーマス・エジソンなどと交流した。
その行動は、その後日露戦争後に悪化した日米の親善として機能したといわれている。大きく見れば、民間の外交がある意味日本という国を救うきっかけになったと言ってもいいかもしれない。
彼は、経済だけでなく、国の未来をも救ったのである。
紙幣の顔に選ばれるために必要なものとは
こんな風に功績だけでもすごいと言わざるを得ない渋沢栄一だが、前述したように紙幣の顔としては落選の憂き目にあっている。この理由は、意外なところにあった。
ひげがないと選ばれない!?
現在、そして次回の五千円札の顔は女性だ。しかし過去には女性は紙幣の顔に選ばれていなかった。男尊女卑やハラスメントという話でない。単純にひげがないからである。
同様に、1963年の選出時に最終的に伊藤博文に決まったのは、「ひげがないと偽造されやすい」が大きな理由だった。確かに、伊藤博文だけでなく、過去の紙幣の顔を並べて見ると、聖徳太子、夏目漱石、新渡戸稲造、福沢諭吉、野口英世とひげのオンパレードだ。現在ほど偽造防止技術が発展していなかった時代には、ひげは重要なポイントだったのである。
SNSのこの時代、ラノベ作家「時雨沢恵一」と間違われたことも
若い世代には、渋沢栄一という名前は、次の大河ドラマの主人公か、はたまた教科書に登場するいかめしい偉人というイメージ程度しかないかもしれない。
面白いエピソードがある。紙幣の一新のニュースが発表されると、「キノの旅」シリーズなどで知られる人気ライトノベル作家「時雨沢恵一(しぐさわ・けいいち)さん」と勘違いする人が続出したという。
一定世代以上の人間だと逆に驚いてしまうが、時雨沢氏本人もTwitterのアカウントで「お札にはなりません」などとわざわざ追記するなどしたようで、その波紋は想像以上に大きかったようだ。いかにもSNS全盛の時代らしい出来事だろう。
渋沢栄一をもっと知るためのエピソード
多くの功績を残した彼は、しかし様々なエピソードにも事欠かない人物だった。知られざるいくつかを以下で紹介しよう。
空相場は許可してしかるべき
明治維新の直後、先物取引の是非をめぐり明治新政府が揺れた。江戸時代から続く米相場の伝統を継承したものであったが、庶民の賭博心をも増長する恐れがあるとして、一律に禁止しようとしたのである。それに真っ向から反対したのが渋沢栄一だ。
渋沢は賭博と相場の違いを明確に主張し、禁止論を撤廃させた。のち1878年には東京株式取引所(現東京証券取引所)を設立し、つまるところ株取引の基礎をも築いたことになる。
「世の中に存在するものを目的物として契約するのだから決して禁止するべきものではなく、サイを転がして丁半の出方によって勝負を決する賭博とは全然その根本の性質を異にす。ゆえに延べ取引としての空相場は許可してしかるべきである」(渋沢栄一著「論語講義」)
なお、明治の文豪、幸田露伴もその著「渋沢栄一伝」でこのエピソードに触れている。
海外でコックに間違われる?
徳川昭武に従って洋行することになった渋沢栄一は、洋装も欲しいとイブニングコート(燕尾服、夜会服)の上着を譲り受けた。香港に到着し、その燕尾服の上着に縞ズボン姿でいたところ、自分にだけ世話役の外国人の態度がおかしいことに気づく。
なんと渋沢はちぐはぐな服装から、コックのような下働きの人間に間違われていたのである。
強すぎ(?)てやめた将棋
渋沢栄一は将棋が強かったらしい。福沢諭吉にも勝ったことがあるという記録がある。
しかし、やり始めると時間を取られるので、渋沢邸に寄宿している青年たちによって龍門社(現公益財団法人渋沢栄一記念財団)が結成された頃には、自らやめることにしたそうだ。合理的な考え方をする渋沢らしいエピソードである。
▼漫画で学ぶ渋沢栄一
小学館版 学習まんが人物館 渋沢栄一 (小学館版 学習まんが人物館)
新五千円札の顔、津田梅子とは
さて、ここまで渋沢栄一の人となりを紹介してきたが、新一万円札以外についてもどんな人物か気になる人もいるだろう。軽く紹介してみよう。
まずは五千円札の顔に選ばれた津田梅子について。津田塾大学(旧女子英学塾)の創設者として名高い津田梅子は、1871年に岩倉使節団に随行した日本人初の女子留学生の最年少メンバーである。渡米時にはわずか6歳。11年後に帰国すると、女性教育の発展のために力を尽くした。
今でいう帰国子女といった体だが、なんと日本帰国時には日本語を忘れていたというから、思春期の環境というのは侮れない。なお、非常におてんばで活動的、さらに美人であったそうだ。
この新しい五千円札の裏面は古事記や万葉集にも登場する、藤の花がデザインされる予定である。
新千円札の顔、北里柴三郎とは
次は、私たちにも一番なじみが深いだろう(?)新鮮円札の顔、北里柴三郎である。
熊本県阿蘇で生まれた北里柴三郎は、18歳で熊本医学校(現熊本大学医学部)に入学、医学を志す。1874年には東京医学校(現東京大学医学部)に進学、予防医学の道を歩むことを決意する。1894年、香港で蔓延したペストの原因調査に従事、ペスト菌を発見、現在の医学における免疫や伝染病予防へ大きく貢献した。現在のコロナ禍の中では、非常に適切な選出といえるかもしれない。
なお、彼も日本人で初めてノーベル賞候補にノミネートされたが、受賞したのは共同研究者だけだった。その後テルモ株式会社の創設に関わり、あの野口英世も彼の弟子だったという。
新千円札の裏面は、葛飾北斎の代表作、富嶽三十六景の中の「神奈川沖浪裏」が採用される予定である。
日本の貨幣・紙幣の歴史
そんな日本の紙幣はどのように生まれたのか。日本の貨幣の歴史を見てみよう。
日本の通貨はなぜ「円」なのか
「円(圓)」という単位は1871年に定められた。江戸時代までの貨幣は楕円形や長方形をしているものがほとんどだったが、欧米のコインをまねて円形にしたことから、単位を「円」とした説が一番有力といわれている。
そもそも紙幣とは何か
初期の紙幣は金銀と交換できる「兌換」が前提とされていた。今では考えられないが、その頃は単なる紙切れに価値を見出せず、不安を覚える層が多かったのだろう。
そんな日本の紙幣は、明治維新を経て整備された。新政府は当初、独自の貨幣を発行する一方で、ナショナルバンクとして設立した国立銀行紙幣、藩札の発行も認めていた。しかし、必要以上に発行された政府の紙幣や藩札の価値は下落してしまう。
大蔵卿であった松方正義は、1882年、紙幣の発行を一元的に行うために日本銀行を設立。1899年末には国立銀行紙幣と政府紙幣の運用も禁止になり、ここから日本の紙幣は、日本銀行券に統一されたのである。
今では札束イコール金だが、紙幣のそもそもは価値のある金属(金や銀)に交換するためのチケットであったのだ。
新しくなった紙幣が市場へ出回るまで
紙幣が新しくなるまでの流れを見てみよう。
前述したように、現在の日本の紙幣は日本銀行が発行する日本銀行券である。しかし、日本銀行がそのまま製造するわけではなく、独立行政法人国立印刷局が製造している。製造された紙幣は、日本銀行が製造費用を支払って引き取るので、つまるところ新しい商品を発注してそれを購入するようなイメージだ。意外だろうか。
そこから、各金融機関が日本銀行にそれぞれ預けてある当座預金をその紙幣で引き出すことで、その商品は「金」という価値を持ち、市場に流通するのである。
なお、2020年度の発注高は一万円券が9.2億枚、五千円券が3.2億枚、千円券が17.6億枚の合計30.0億枚だそうである。
参考:銀行券発注高|日本銀行
https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf
新紙幣が日本へもたらすものとは(まとめ)
今回の紙幣一新の際には、現行に加えてより精密な偽造防止技術が採用されることが決まっている。高度なすき入れ模様が導入されるほか、紙幣への採用は世界初となる最先端技術によるホログラムが導入されるといわれている。
デジタル技術が進歩する中、仮想通貨も珍しいものではなくなった。外出の際には財布を持たない、という若者も増えているという。そんな中で、そこまでの偽造防止技術を採用し一新される紙幣にはどんな意味があるのだろう。
一番大きな理由は昨今偽造紙幣が大量に出回ったことにある。日本ではリアルの銀行券=紙幣や貨幣に対する需要が強いといわれており、ATMなどの利用も多いが、それがあだになるケースが残念ながら増えていっているのだ。
政府が進めているキャッシュレス決済は便利だが、安心して使用するためには日本の通貨の価値が安定していることが大前提だ。様々な紙幣が乱発されて紙くずになってしまった明治の混乱のようになってしまっては、元も子もない。そのための新紙幣なのである。
だからこそ、このタイミングの新しい顔として、日本初の近代銀行である第一国立銀行を設立し「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が選ばれた、と考えるのは穿ちすぎだろうか。
参考書籍:紙幣の日本史
監修:公益財団法人 渋沢栄一記念財団
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