水墨、浮世絵から油絵まで6選をご紹介
日本の最高峰である富士山は古来、日本を象徴する霊山として信仰の対象となってきました。それは、雄大な独立峰としての神々しさに人々が尊崇の念を抱くと同時に、噴火を繰り返す火の山として畏怖(いふ)の念をも重ね合わせていたからにほかなりません。そんな霊験灼(あら)たかにして美しい富士の姿は、人々の心を魅了し続け、万葉のころより多くの詩歌に歌われるとともに数々の名画の題材ともなってきたのです。
ここでは、様々な巨匠たちが独自の視点で描いた、多種多様な富士山の絵画をご紹介します。
酒井抱一「絵手鑑(富士山図)」
一帖七十二図のうち紙本絹本・着色墨画 各25.1×19.9㎝ 19世紀・江戸時代 静嘉堂文庫美術館蔵 静嘉堂文庫美術館イメージアーカイブ DNPartcom
江戸琳派の旗手として名高い酒井抱一(さかいほういつ)による富士山。これは、彩色画や墨画などさまざまな趣向を凝らした72枚の作品を貼り込んだ画帖の中の一作品で、抱一が私淑した光琳画風をさらに先鋭化させたともいえるセンス溢れる一枚。
「聖徳太子絵伝」(部分)
十面のうち第三面 綾本着色 189.4×137.3㎝ 延久元年(1069)・平安時代 東京国立博物館蔵 ImageTNMImage Archives
富士山の姿がいつごろから絵画化されるようになったのかは定かではない。が、現存する最古と思われる作品が、平安時代中期に描かれたこちら。聖徳太子が富士山を黒い馬に乗って飛び越える場面が描かれている。超人的な太子の存在を神山である富士を飛び越えることで表現。
伝雪舟等楊「富士三保清見寺図」
一幅 紙本墨画 43.2×101.8㎝ 16世紀・室町時代 永青文庫蔵
銭湯のペンキ絵でもお馴染みとなっている、駿河湾と三保の松原越しに富士山を描くという構図。雪舟(せっしゅう)以後の絵師たちに多大な影響を与えることとなったこの構図の元祖と言える作品が、江戸時代には雪舟が描いたとされていた本作(現在では忠実な模写とされている)。雪舟がこの地を訪ねたかどうか定かではないが、国宝の「天橋立図」(京都国立博物館蔵)と同じく実景を忠実に描き込むのではなく、あるべき様を再構成して絵画化したのが、この富士図と思われる。左端に描かれている清見寺は当時、足利将軍家の庇護(ひご)の下にあり、東国を訪れる禅僧が必ず立ち寄る名勝として知られていた。だから雪舟は、この構図では見えるはずのない寺の姿を敢えて描き込んだのだろう。
長沢芦雪「富士越鶴図」
一幅 絹本墨画彩色 157.0×70.5㎝ 寛政6年(1794)・江戸時代 個人蔵
富士山を描いた絵画は数あれど、これほど奇抜で独創的な作品もないだろう。18世紀の京都で活躍した円山応挙(まるやまおうきょ)の弟子にして伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、曾我蕭白(そがしょうはく)らとともに「奇想三羽烏」と呼ばれる絵師・長沢芦雪(ながさわろせつ)の手になる本作は、スマートすぎる富士山の横を、まるでグライダーのように滑空する鶴の群れが描かれている。神聖なる富士を描いてなお、「奇想の画家」としての矜持が見え隠れしているところがすごい。
司馬江漢「駿河湾富士遠望図」
額装 絹本油彩 36.2×100.9㎝ 寛政11年(1799)・江戸時代 静岡県立美術館蔵
18世紀の洋風画家として知られる司馬江漢(しばこうかん)が描いた本作は、先に紹介した伝雪舟「富士三保清見寺図」に影響を受けて油彩で描かれたもの。京都に旅した江漢が、その途上で「雪舟が見た風景」を発見し手がけたという。当時、秋田藩の上層武士階級で流行した「秋田蘭画(あきたらんが)」と呼ばれる洋風画の影響を受けた江漢は、日本で初めての腐食銅版画を手がけるなど、遠近法と陰影法を駆使した洋風画の先駆者として活躍。それにしても、画材が変わると富士山の姿も一気にモダンに見えるところが不思議。
歌川広重「東海道五拾三次之内 由井・薩埵嶺」
五十五枚のうち 大判錦絵 各23.0×35.0㎝ 天保4〜7年(1833〜36)ごろ・江戸時代 山種美術館蔵
「名所江戸百景」、「東都名所」、「近江八景」など、名所風景を描かせたらこの人の右に出る者はいないと言える歌川広重(うたがわひろしげ)の代表作にも、いくつかの富士山が描かれている。自由闊達な筆致で、大胆な富士を描いた北斎と同時代を生きた広重。そんな浮世絵師が描いたこの富士は、どこまでも慎ましやかだ。