墨や岩絵具など、日本画に使われる画材や技法はストイックな印象がありますが、シンプルであるがゆえに、さまざまな表現が可能です。例えば「垂らし込み」という技法は、俵屋宗達をはじめとする琳派の絵師たちも活用した古典技法の一つでもあります。
この度、埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館(以下、丸木美術館」で現代日本画家の内田あぐりの展示が開催されます(2020年11月7日~2021年1月24日)。第二次世界大戦で使われた原子爆弾の惨状を描き、今なお語り継ぐ名作『原爆の図』を所蔵する丸木美術館。『原爆の図』は水墨画家の丸木位里(1901-95)、油彩画家の丸木俊(1912-2000)夫妻の共同制作による連作ですが、丸木位里は田中頼璋に師事しており、実は水墨で斬新な表現を行う前衛画家だったことや、丸木俊がいわさきちひろを指導し、影響を与えたなど、多面的な活動をしていたことはあまり知られていません。
今回は、内田あぐりの作品を手がかりに、日本画を中心とした画材や技法を紹介、過去の作家から現代の作家へ引き継がれた表現に迫ります。
水を描き、水で描く日本画
「予測できないけれど予測する」垂らし込み
―内田先生の作品は、初期は具象的な人間像などが多かったのですが、近年の仕事では大型作品は抽象性を増しているように思います。人体の本質を追求するという点では通底していますが、作品のスケールが壮大になったという印象がしますが、今回の新作『分水界』も大作ですね。
内田:昔から人体とその生命感を追求するという姿勢は変わりませんが、人間も自然の一部であるという意識がここ数年来強く、人間の身体から山や森や風景をイメージすることがしばしばあります。作品が大きくなるのは、人体だけでなく、川をテーマにするなど、自然の風景を描きたいという気持ちがあるから自然にそうなっていくのかもしれないです。
この『分水界』は、今年の1月に丸木美術館を訪れた際、美術館の傍らを流れる都幾川の変わり果てた姿に着想を得たものです。昨年の台風の後で河原は流砂で覆われて木々や植物は薙ぎ倒され、所々に見える地面のひび割れが台風の激しさを物語っていました。
―確かに先生の作品の多くに、水の流れやうねりを感じます。住んでいらっしゃる場所が葉山ということもあって、水に対する思い入れがあるのでしょうか。
内田:そうですね、葉山の家の傍を流れる河と共に暮らしているせいか、以前から河や水について考えるようになっていました。屏風のように設置している作品『河』の背後にドローイングがかけてありますが、水のイメージでもあります。『河』の背後は垂木で構成されているのですが、これは自立する作品を支えるためのものでもあり、同時に森もイメージしています。木々の近くに水辺があるような感じです。
水をモチーフにするという意味で「水を描く」こともあるのですが、日本画はそもそも「水で描く」ものです。例えば墨の垂らし込みなどは、水を画面上にぶちまけることで、有機的な水が描いてくれる、という従来からある古典的な日本美術の表現であり、日本画の画材ならではの技法です。
※墨…書や日本画で使用する墨は、油や松を燃やして採取した煤(すす)を、膠(にかわ)で練り固めて乾燥したもの。墨は同じトーンの黒一色ではなく、「墨に五彩あり」と言われるようにさまざまな色味があり、油を燃やしてつくる油煙墨は茶墨、松を燃やしてつくる松煙墨は青墨とも呼ばれる。
※垂らし込み…日本美術の中でも最も古典的な技法の一つで、水墨画でも彩色画でも使われる。下地に塗った水や墨や絵具が乾かないうちに、より多く水を含んだ墨や別の絵具をその上に垂らし込むと、先に塗ったものと後に垂らし込んだものが混ざり合い、独自の表現が生まれる。
―琳派などの先人たちの行った垂らし込みもそうだと思いますが、水で描く、水に任せるということは、コントロールできないということでもあります。どこまで自分で行い、どこまで画材に任せているのでしょうか。
内田:言い表すのが難しいのですが、「予測できないことを潜在的に予測する」という感じですね。
『分水界』は垂らし込みを比較的多く使っています。手順としては、少し膠を入れた薄い膠水を用意してから、どのように膠水を画面上に塗布するのかイメージをします。このイメージする時は精神を集中してかなり時間を費やします。その後、膠水を紙の上にぶちまけるように撒き、水のフォルムが出来上がります。濡れているうちに墨で垂らし込みを行い、刷毛で少し水を動かすのです。その際に顔料も一緒に垂らしこみます。
垂らし込みは頭の中でイメージしながら行うのですが、乾くとだいぶ変わってしまうこともあります。
※膠…動物の骨・皮・腸・腱などのタンパク質を煮込んで抽出したゼラチン物質を乾燥し固めたもの。膠は水に一昼夜浸けてふやかし、湯せんで溶かし、不純物を布で濾して使用する。日本画の画材は膠によって紙に定着する、つまり膠は接着剤の用途で使われている。膠の濃度は各作家によって異なる。動物由来のものなので独特の匂いがあり、また夏場は腐るので扱いが難しい。
―垂らし込みを行った上に絵具を乗せて描くと、垂らし込みの部分は見えなくなりますよね。最初に垂らし込みで描くのはどういった意味があるのでしょうか。
内田:描いていくうちに垂らし込みの大部分は消えてしまうのですが、下から垂らし込みが見える箇所も現れるのです。そこが表現としてキラリと光る部分になったり、次の表現を生む大切な要素となります。また私は、垂らしこんだ段階できれいに見えるところをあえて潰すことがあります。
―きれいに見えている部分を、敢えて消してしまうのはなぜでしょうか。
内田:「かっこよくできた!」と思える表現をあえて否定しています。かっこよくできた、なんて自分で思うことは、案外かっこ悪いことだったりするからです。絵の場合は。そこを潰してしまうことで、絵の奥にある根源的なものを追求していこうと思うからです。
―以前、垂らし込みはオートマティズムだとおっしゃっていたと記憶しています。垂らし込み自体は過去の日本の画家たちが使ってきた技法ですが、オートマティズムは欧米のシュルレアリストが提示した理念でもあり、興味深く伺いました。
※オートマティズム…アンドレ・ブルトンらをはじめとするシュルレアリストが提示した芸術的手法または理念で、「自動記述」や「自動現象」などと訳される。理性によってコントロールせずにイメージを生成、記述する方法を指す。
内田:垂らし込みは古典的な日本美術の表現技法ですが、オートマティズムに近いものがあると思います。それは現代の作家たちに新しい表現として受け継がれていると思います。古典技法や素材は常に新しいものを生む可能性があると思います。垂らし込み以外にも、彫り塗りという技法も私は使いますが、線描を残して絵具を塗る技法ですが、やってみるとけっこう面白いです。
技法や素材は、作家の発想によって古臭くも新しくもなりますね、どのように表現をするのかは発想とセンスによるのかなと思います。
※彫り塗り…描線を塗りつぶさないように彩色する手法。背景とモチーフを塗り分け、彩色した際の発色をよくする効果がある。現在ではあまり見られなくなった技法の一つでもある。
―技法で言えば、新作の一部でも紙を縫っていますね。日本画は繊細な画材で、美しく描く印象があったので、驚きました。
内田:はじめに楮紙(こうぞし)を墨や顔料で染めて乾かし、人体のフォルムを作った後に切断をして、それを描かれた人体の上に当ててさらにフォルムを解体する、という意識です。その後に楮紙を紙縒(こより)で縫っていくのですが、人体の解体と再生を繰り返すという意識からやっています。縫う時は楮紙を画面に乗せて画鋲で留め、帆布を縫う太い針に墨染の紙縒を通し、縫っています。絵の上に屈んで縫っていくのですが、楮紙も厚く7~8針縫っては休んでは繰り返して、これが一番苦痛な作業です。この作業を見た友人が畳職人みたいだと言ってました!
この作業を誰かにやってもらえばいいのに、というアドバイスもあるのですが、依頼するときれいに縫うことになってしまい、自分の手の力がなくなるので全て自分で縫っています。
※楮紙…原料に楮の樹皮繊維を使って漉いた紙のことで、強靭でありながら軽く、しなやかな紙質を持つ。
美しい毒婦のような花緑青、悪い男のような膠
奥深き画材の世界
―今年の1月にポレポレ坐で行われていたトークショーで、「墨で精神の陰影を表現できる」とおっしゃっていたのが印象的でした。新作は緑の色味が際立っていますね。
内田:精神的な陰影を追求する姿勢はずっと変わっていませんね。緑色を多く使うようになったのは数年前からです。
緑の画材に関してはいろいろ試行錯誤しています。今回は花緑青という絵具を所々ですが下地に使っています。花緑青は人の肌の奥に透けて見える緑などを連想して以前から使っていますが、ヴィヴィッドな緑色です。海外ではパリスグリーンとも呼ばれているのですが、ナポレオンが愛した色で、パリスグリーンで染められたドレスは毒を持ち、着用すると死んでしまうと言われています。純度が高い美しい色は毒性が強いらしいですね。
※花緑青…もとはドイツで生産された人工顔料で、酢酸銅・亜ヒ酸銅(II)の複塩の化合物。毒性が強く、日本では製造や販売において規制がある。青緑での色味は鮮やかで美しい。
※ナポレオンとパリスグリーン…緑色を愛したナポレオンは、寝室の内装にパリスグリーンを使用した。この顔料から出るヒ素が彼の死因の一つではないかという説もある。
―毒性があるなら、手についたら健康を害するのではないでしょうか?
内田:洗えば大丈夫です。だいぶ前から世界的にPL法ができて、現在では毒性の強い絵具は製造禁止となりました。
『分水界』は海外のピグメントを使っているのですが、藍色に近い深緑色は薄く塗ると透明感がありますが、濃厚に塗ると光の具合によって赤く発色をします。これはニューヨークの画材店で購入して、しばらく使わなかった絵具なのですが、今はネットで探しても手に入らない状態です。この絵具は膠との相性も良く、気に入っていたのですが、今も探しています。
※PL法…製造物責任法のこと。製造物の欠陥が原因で、生命や身体等に損害が生じた場合、製造業者等に損害賠償責任を負わせる法律。絵具の原料には有害な化学物質が多く含まれているため、PL法により統一表示を行っている。例えば油絵具でも毒性の強いものは警告文が掲載されている。
※ピグメント…顔料(着色に使用するもので、水や油に不溶の粉末)と同義。
―1枚の絵の中に、いろいろな緑があるのですね。
内田:はい。私の先生であった日本画家の麻田鷹司先生のお父様(麻田辨自先生)の絵具も以前にいただいて使っています。おそらく昭和初期のもので、その時期の絵具は全般的にヴィヴィッドな色をしているのが多いです。また、京都の絵具も独自性がありとても綺麗なので使っています。
―『分水界』には、花緑青や海外の顔料、昭和初期の岩絵具や水干絵具など、さまざまな絵具が使われていることになります。もう手に入らないとなると、ますます貴重ですね。画材を選ぶときは、発色で選んでいるのでしょうか。
内田:その時々で違いますね。海外で買ったピグメントはその時は全く使うイメージはなくて、変わった色だなという印象でした。だいぶ後になってから海外のピグメントの色に目覚めたというか、絵の発想を広げてくれたみたいです。海外のピグメントも膠で溶いて使っています。最近は接着剤としてはアートグルーやアートレジンなどの素材もありますが、私は新しい接着剤は苦手なのでずっと膠派です。
※岩絵具…主に鉱石を砕いてつくられた粒子状の絵具をさす。粒子の大きさは1番から13番くらいまで番号であらわし、番号が小さいほど粒子が粗く、大きいほど粒子が小さい。そのなかで最も微粒子は白(びゃく)と呼ばれ、粒子が小さいほど色は淡く、白っぽくなる。日本画といってイメージされるのはこの画材だろう。単一で接着しないので、膠液が接着剤となり、使用される。天然鉱物でつくられた「天然岩絵具(てんねんいわえのぐ)」と、人工的につくられた「新岩絵具(しんいわえのぐ)」「合成岩絵具(ごうせいいわえのぐ)」があり、天然岩絵具は色数が少なく高価である。
※水干絵具…泥絵具とも呼ばれ、天然の土、または胡粉(牡蠣の貝殻を粉砕したもの)などの絵具を、細かい粒子に分ける水簸(すいひ)精製したもの。染料で着色した絵具もある。なお、胡粉は絵具としてのみならず、垂らし込みにおける滲み具合をコントロールする下地材など、さまざまな使い方がある。
※アートグルー、アートレジン…ウエマツ画材店オリジナルのメディウムで、膠のようにふやかして溶かすといった過程が不要ですぐに使用できる上、カビや腐敗に強いので使い勝手が良いとされる。
―膠は臭うのと腐ります。他の作家さんから、アートグルーやアートレジンの方が腐ったりしないし使い勝手がいいと聞いたのですが、内田先生は膠のほうがいいのでしょうか?
内田:膠で溶いた絵具で描いた表現は、絵具が乾いてから水をかけてやると膠が元に戻る性質があり、絵を洗えます。またその箇所をペインティングナイフで削ることもできます。そうしたマイナスの技法も時には表現に必要です。アートグルーやレジンだとガチッと固まってしまって、絵具は元に戻らないので、そうした表現はできないです。また、膠は古典絵画の修復などにも使われているので、貴重な存在です。
―内田先生の表現には、膠が必要なのですね。
内田:そうですね、膠は生半可な気持ちでは使えません。気候や湿度にも左右されたり、例えば今年の夏は猛暑で湿度が高かったせいか、膠の定着が安定せずに絵具が動いたり、発色がうまくいかなくて苦労しました。いつもと同じ分量を使って絵具を溶いても発色が悪いこともあるのです。接着剤と言うよりも、動物の体液で描いているという意識が私は強いです。
膠は時としていうことを聞いてくれない、悪い男と付き合っているようなものですね。
―悪い男(笑)手を焼くけど、それを補って余りある魅力があるということですね。
過去の作家と現代の作家の対話の中で、日本画の系譜を知る
―日本画に限らず、日本における絵画は、余白が大きな役割を果たしています。余白は空間の広がりを生み、抒情性を強めることができますが、内田先生の作品における余白は、別の効果もあるように思っています。内田先生にとって余白、描かない部分はどのような意味があるのでしょうか。
内田:余白はとても大切な絵画の要素だと思います。それはタブローのみならず、ドローイングや素描の際にも線と描かれたフォルムと余白の関係は同じ価値観を持っていますね。今回の「分水界」では画面右方に白描で人の形を描いています。白描と余白との関係は表裏一体と考えています。
※白描…絵巻物などで、墨の筆線だけを主体として描く技法のこと。例としては鳥獣戯画などが挙げられる。
―他に画材で言えば、先生は箔を使った表現もなさっていますね。箔は装飾的に使うことが多いと思いますが、先生の使う箔は皺や表情があり、人肌のように見えました。
内田:丸木位里の絵も何点か箔を使用しているものがありますが、装飾的な効果を狙ったものではなく、絵具では表すことができない金属の質感としての表現に必然性があったと思います。海を描いた作品など、岩肌のごつごつした感じなどを箔で表現しています。この作品を研究してみたのですが、まず黒箔を貼り、ランダムに銀箔を貼って硫黄液などで焼き、もう一回部分的に箔を貼っています。位里は箔を重層的に貼ることで出てくるフォルムの強靭な表現を研究していて、部分的に削ったり洗ったり、上から貼って下地の色を出したりしているようです。箔で造形しているという感覚です。
※箔…金・銀・銅・錫などの金属を薄く打ちのばしたもので、日本画のほか、衣装や工芸品にも使われる。金属を薄く均一に延ばす技術は日本独自のもので、煌びやかなので装飾などに使われるが、岩絵具同様に値段が高く扱いも難しいため、細心の注意を払う。
※黒箔…銀箔を黒く変色させた箔で、扱いが難しい箔の中でもとりわけ脆く、貼るのも難しい。
―『原爆の図』を常設として持つこの美術館で展示を行うということは、さまざまな意味があります。今回開催するにあたり、思ったことを教えていただけますか。
内田:私はもともと丸木位里・俊が描いた佐喜眞美術館にある『沖縄戦の図』に惹かれて何度も見に行っているのですが、行く度に絵から強いエネルギーをもらっていて、素晴らしい群像表現だと思っています。
彼らの共同制作とともに、位里と俊が描いてきたそれぞれの絵画についても大変興味があります。例えば、位里のデッサンや墨の習作ドローイング、タブローなどや、俊の描いた子供達の水彩画などには特に心惹かれるものがあります。今回の展示のタイトルを『いくつもの聲』にしたのも、そうした位里や俊、私の絵画とを同じ空間で並べてみたいという気持ちからでした。
―丸木夫妻も人をテーマにしているから、内田先生と共通していますね。
内田:そうですね、人間像の本質に迫りながら、新しいものを生み出そうとする苦悩や姿勢、自分自身を変革していった姿勢、画家の身体の中から絞りでるような聲の力、にとても共感します。また、私の作品と丸木位里・俊の作品を一緒に展示することで、作品同士が呼応して、丸木美術館でしかできない展示になったと思います。私自身も今回の展覧会でいろいろな意味で勉強になりました、丸木の会場に佇んでいると、位里と俊に「まだまだこれからやるんだよ」と背中を押してもらっているような気がするのです。
内田あぐりは現代日本画を代表する作家ですが、描いているモチーフのより奥を探ろう、より深い部分に分け入ろうという揺るぎない姿勢が印象的でした。作品が物理的に大きくなっているということも、追及しているもののスケールが壮大になっていることの表れです。
また、話の中で「きれい」という言葉が、二つの意味を持つことも印象的でした。トークの端々に表れる、「きれいに描くことは目指していないけれど、描く対象や、描かれたものは常にきれいだと思っている」ということは、「(表面的でまとまりのよい、見た目の)きれいさではなく、(対象や絵そのものの持つ本質的な)きれいさ、美を追っている」ということなのだと思います。
丸木位里・俊の『原爆の図』を常設している丸木美術館は、深い背景と強い使命を持っています。この場所で企画展を行う場合、作家は生半可な気持ちでは開催できないでしょう。内田あぐりの作品は、強靭でスケールが大きく圧倒的な力を持ち、丸木美術館の緊張感のある空間で全く揺らぐことなく、作品として力強く「立って」いると感じました。
内田作品と丸木美術館の所持する作品を見れば、日本画がこれほど強く、壮大で、そして本質的に深い表現ができるのだと実感するでしょう。過去と現在の作家が呼応しあう本展、是非足を運んでいただければと思います。
展覧会基本情報
展覧会名:「内田あぐり VOICES いくつもの聲」
場所:丸木美術館(〒355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401)
会期:2020 年 11月 7日(土)~2021 年 1月 24日(日)
公式HP:https://marukigallery.jp/3579/