琵琶法師(びわほうし)とは、「琵琶」という楽器を弾きながらさまざまな物語などをうたいつつ語った「芸能者」であり「僧」のこと。
古川日出男の訳をもとに、山田尚子監督がアニメ化して話題となった『平家物語』は、物語の語り部である琵琶法師の少女「びわ」が主人公に据えられています。
でも、実際の琵琶法師たちはどのような人々だったのでしょうか? 3分で解説します。
琵琶ってどんな楽器?
琵琶法師は平安時代中期に起こったとされ、琵琶を弾く法師たちは当時そのほとんどが目の不自由な人々(ここでは日本国語大辞典の表記に従い「盲僧」と表記します)でした。
彼らが用いた楽器「琵琶」は、ペルシャ(現在のイラン)周辺で発祥し、日本を含む東アジアに広く伝わった撥弦楽器(はつげんがっき。弦を弾いて音を出す楽器)の一つ。伝播の過程でさまざまな種類に変形していますが、一般的には洋梨のような形をしたものを指します。その祖先は、中世ヨーロッパのリュートなどと共通であるとする説が有力です。
日本には、少なくとも奈良時代には伝わっていたことがわかっています。そのことを示す証拠が、おそらく日本で一番有名なこの琵琶。正倉院宝物「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」です。
大陸から伝わった琵琶は、宗教や娯楽、武士道、芸術といった領域で用いられ、そこから新しい音楽様式が次々と生まれていきました。その様式には、日本の伝統音楽・雅楽に用いられる「楽琵琶(がくびわ)」をはじめ、16世紀に薩摩の武将・島津忠良(ただよし)が武士の士気を鼓舞する目的で生まれたとされる「薩摩琵琶」、近代に入って確立された「筑前琵琶」などがあります。
琵琶は、雅楽においては管絃(かんげん)の合奏に用いられる一方、お経や語り物の伴奏楽器としても用いられるようになります。たとえば、奈良時代にはすでにあったとされる「盲僧琵琶」は、北九州を中心に西日本で豊作を祈願するお経を読誦する際に用いられました。
研究者によれば、もともと大陸には目の不自由な人物が琵琶を弾いて歌謡をうたい、小説や稗史(はいし。正史ではない雑史)を語ることが早くから行われており、そうした文化が琵琶とともに大陸や半島を経て日本に輸入されたと考えられています(兵藤裕己『琵琶法師——<異界>を語る人びと』岩波新書)。
平安時代の琵琶法師たち
平安時代になると、宮廷や寺社では盛んに雅楽が演奏され、その中で楽琵琶も重要な楽器の一つとして演奏されます。
一方、宮中だけではなく民間でも、各地の有力な寺社・寺院などに属して法会(ほうえ)や祭礼などの際に琵琶を弾きながら物語を語った人々がおり、それが楽琵琶から派生した語り物芸能としての琵琶法師の文化へとつながったと推測されます。
平安時代中期の歌人・平兼盛は「びはのほうし(琵琶の法師)」と題して、
「四つの緒に 思ふ心を 調べつつ ひきありけども しる人もなし」(『兼盛集』)
と詠っており、「弾き歩けども」とあることから、当時すでに琵琶法師が各地を放浪する芸能者的存在だったことが伺えます。
同じく平安時代中期の公卿・藤原実資の日記『小右記』には、藤原道長が建立した法成寺で催された「修正会(しゅうしょうえ)」で琵琶法師が演奏(散楽)を披露したことが記されています。
また、平安時代後期の関白・藤原忠実の日記にも、琵琶法師が彼らの前で物語をうたい語っていたとあり、10世紀には琵琶法師たちが貴族の邸宅にも出入りしていたことがわかります。
平家物語の語り部と「耳なし芳一」
平安時代に絶世の権力を誇った平家は、武士の時代の到来とともに滅亡へ向かいます。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり」という有名な冒頭で始まる、一族の栄華と没落を描いた『平家物語』。この軍記物語は、成立時期・作者ともに不明ですが、弦の響きに乗せてさまざまな物語をうたっていた琵琶法師たちが、平家没落の後、「当時まだ人々の記憶に新しい平家一門の悲劇を、鎮魂の意をこめて頻繁に語りのテーマにとり上げていたであろうことは想像にかたくない」(世界大百科事典)でしょう。
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このようにして、琵琶を弾きながら『平家物語』を語る「語り物音楽」は、「平家琵琶」あるいは「平曲(へいきょく)」などと呼ばれるようになります。
平家琵琶の厳密な発祥時期には諸説ありますが、兼好法師が記した『徒然草』は、後鳥羽院の時代(12世紀末から13世紀初め)に天台宗の座主・慈円の庇護を受けていた雅楽の名人・信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が『平家物語』を作り、生仏(しようぶつ)という東国出身の目の不自由な人物に教えて語らせたのが初めだとしています。
いずれにせよ、鎌倉時代に入って『平家物語』は琵琶法師たちの代表的なレパートリーとなり、諸流派が生まれ、15世紀には全盛時代を迎えました。
そんな中で生まれたのが有名な『耳なし芳一』の怪談。
各地に類似した話が伝わりますが、近代に入ってラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がまとめたものによれば、概ねこのようなお話です。
昔、下関(赤間関、あかまがせき)の阿弥陀寺(あみだじ)というお寺に、芳一(ほういち)という目の不自由な琵琶法師の男がいた。
ある蒸し暑い夏の夜、寺で芳一が琵琶の稽古をしていると、侍らしき人物から声をかけられた。琵琶の弾き語りを聞きたい、というので芳一がその後をついて行くと、大きな門の屋敷に通された。『平家物語』を弾くようにと言われた芳一が弾いて聞かせると、大勢の人の称賛とともに彼らがむせび泣く声が聞こえてきた。やがて女の声が聞こえ、「素晴らしい腕前なので、今宵より六日の間、毎晩聞かせてほしい。またこの事は誰にも内緒にするように」と、告げられた。
翌晩もこっそり出掛けていく芳一を不審に思った和尚が、三日目の晩に芳一を寺男に尾行させたところ、安徳天皇のお墓の前で、琵琶を弾いている芳一の姿を見つけた。
平家の亡霊に憑りつかれていると知った和尚は、芳一の体中に経文を書いた。そして、誰が話しかけても絶対に声を出してはならない、と言い聞かせた。その夜、また亡霊が芳一を迎えに来たが、経文に守られた芳一の姿は見えなかった。しかし和尚が芳一の耳にだけ経文を書くのを忘れてしまったため、亡霊には両耳だけは見えていた。亡霊は、迎えに来た証拠に、と芳一の耳をもぎ取り帰って行った。
朝になって様子を見に来た和尚は、芳一の両耳がないことに気が付いた。和尚は、かわいそうなことをしたと詫び、手厚く手当をした。この不思議な事件によって芳一の琵琶はますます評判になり、いつしか「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。
(小泉八雲『怪談(KWAIDAN)』より内容を要約)
この怪談について兵藤氏は、「モノ語りを語るとは、見えないモノのざわめきに声をあたえること」であり、「盲僧のシャーマニックな職能と地つづきの行為である」として、このように述べています。
「平家物語などのさまざまな物語(語り物)を語りあるいた琵琶法師は、わが国における声の文化のもっとも重要な担い手だった」(前掲書)
「語り物や歌謡が彼らによって伝承されたというだけではなく、各地の伝説・民話のたぐいも(中略)その多くが座頭(盲人芸能者)のもち伝えた物語が土地に根づいたものだった。そのような物語の伝播者・伝承者としての琵琶法師の位相を、『耳なし芳一の話』は象徴的に語っている」(同)
その後
琵琶法師の文化は、江戸時代に入ると三味線の人気に圧倒されて次第に衰退していきました。そのため琵琶法師の流れを汲む盲僧たちは箏曲(そうきょく)のほうに移っていったとされます。
現在では、箏曲を指導する検校(けんぎょう)のなかに平家琵琶(平曲)を語る人々がわずかに残っているそうです。
しかし、琵琶法師たちの平家琵琶が後の能や狂言、浄瑠璃、地歌、箏曲など多くの伝統音楽に影響を与えたことは間違いありません。現代音楽の分野でも、作曲家・武満徹が薩摩琵琶の演奏家である鶴田錦史らと作曲した琵琶・尺八・オーケストラのための作品『ノヴェンバー・ステップス』は、ニューヨーク・フィルハーモニックによって初演され、世界的に好評を博しました。
参考文献
兵藤裕己『琵琶法師——<異界>を語る人びと』(2009年、岩波新書)
山下宏明『「平家物語」入門 琵琶法師の「平家」を読む』(2012年、笠間書院)
ウェブ版『日本大百科全書』『日本国語大辞典』
▼参考文献はこちら
『平家物語』入門 琵琶法師の 「平家」を読む