明治12(1879)年創業の「丸正酢醸造元(まるしょうすじょうぞうもと)」。世界遺産のある和歌山県・熊野三山の地で、熊野杉の木桶による古式醸造の伝統を受け継いできました。蔵の中は一年中温度が安定していますが、職人たちは常に菌が心地よく発酵できるよう工夫を凝らして環境を整えています。まろやかな酸味と、落ち着いた香りをつくる「蔵付きの菌」。築100年以上の蔵の中で、どのように築かれてきたのでしょうか。
酸味の中に感じる、まったりとしたうまみ。とがった酸味が苦手という人は多いでしょうが、角がない、まろやかな風味の丸正酢醸造元の酢は、ちらし寿司にしても和え物にしても具材の持ち味を生かします。なんにでもスッとなじむさわやかな酢が生まれるのは、創業以来使い込まれてきた熊野杉の木桶の中。黒光りした桶の中の菌が、おだやかに酢を発酵させているのです。
紀伊半島最南端の世界遺産、熊野古道に近い那智勝浦(なちかつうら)で、丸正酢醸造元は100年以上にわたり醸造を手がけてきました。ここは古くから醬油や味噌の蔵元が点在。豊富な水産資源を活用するため家庭での酢の消費量も多く、いくつもの醸造元が軒を連ねていたのです。しかし時代とともに、地元の業者は次々と廃業。3代目社長の小坂晴次(こさかせいじ)さんも「何度も大きな壁が立ちはだかった」と言います。
「丸正酢醸造元」がある。3代目社長の小坂晴次さんは90代の今も現役で、製造の陣頭指揮をとる
最大の危機が訪れたのは、昭和40年代のこと。従来、短くても約3か月はかかっていた醸造に、8〜24時間でできる速成醸造機が開発されたのです。
酢は、水と米と麴(こうじ)からつくられます。米を蒸し、水と米麴を加えると、麴の酵素が糖化発酵して酒醪(しゅろう)に変化。酢のための酒(酒醪)に酢酸菌(さくさんきん)を加えて、木桶のなかでじっくりと酢が育つのを待ちます。それが伝統的な「静置発酵」の仕組みでした。
酢の原料となる米は、自家稲田や契約農家でつくっている低農薬栽培米。地元米にもこだわっている
ところが、大量生産の酢はプロペラなどで酒醪を攪拌(かくはん)して発酵を促進します。「静置発酵の酢づくりは、途中で中身を混ぜたりしません。菌による自然な対流に任せるのです」と語ってくれたのは専務の杉本孝夫(すぎもとたかお)さん。また温度が低いと、酢酸菌は活発に動くことができません。そのため醸造桶は温度変化の少ない土蔵の中に置かれ、やわらかな菰(こも)を桶の周りに巻き、職人たちは衣服を脱ぎ着させるようにして温度管理しているのです。
木桶に巻かれた菰
何よりのこだわりは、創業当時から醸造蔵に並ぶ厚さ5㎝、高さ2mもの熊野杉の木桶です。木桶でつくる酢は醸造中に5%も蒸発すると言います。「新しい容器で実験をしたのです。しかし木桶のほうが複雑でやわらかな風味があった。欠減(けつげん)は菌が木目を通して呼吸している証拠です。菌の最良の住処をなくしてはダメだと思いました」と小坂さん。経済効率を無視しても“うまい酢をつくる”という熱意に突き動かされてやってきました。
小坂さんの日課は、汲み上げられた那智の伏流水を口に含んで感触を確かめ、熊野の修験者(しゅげんじゃ)から習った法螺貝(ほらがい)を吹いた後、相撲の土俵入りのように塩を撒き、醸造蔵に入ること。その所作は、まるで清めの儀式のよう。小坂さんには“酢づくりは神事に通ず”という信念があるのです。
職人たちは蔵の入り口にある神棚に手を合わせてから蔵に入る。神棚のそばには、法螺貝と盛り塩も置かれている
「戦争中は米がまったく手に入らなくて、木桶が空になった時代がありました。やっと戦後に製造を再開したら、酢の熟成に必要な菌が死滅していた。いくら待っても酢にならなかったのです」
先代の父は「自分で考えろ」と、あえて厳しく突き放す方針でした。そのため発酵状態のよい蔵があると聞けば、タライ大の桶を持って、酢酸菌(さくさんきん)の発生した酢を分けてもらいに行きました。しかし、そう簡単に発酵が復活するものではありません。何度も根気よく通って、何十回目かに自家菌の発生を見たとき、人間の力を超える自然の力、菌の偉大さを実感したのです。
敷地内の井戸は創業当時からのもので、水温は年間を通して16℃。口当たりのやわらかい、まろやかな軟水です。専門家がミネラルウォーターとして商品化を提案したこともあるというほどの良質な水が、絶え間なく湧く喜び。そして熊野杉の木桶がもたらすやわらかな風味。アナログに徹してきたからこそ不変の酢が生まれました。
工場内には、那智の滝と同じ水源の熊野山系の伏流水がこんこんと湧き出ている
それぞれの桶には小坂さんの手になる墨書で「大鵬(たいほう)」「双葉山(ふたばやま)」といった往年の名力士の名前がつけられています。これも相撲の指導をしていた初代である祖父への供養だそうです。「名前をつければ愛着も湧きますし、桶を間違えませんから」と小坂さんは照れながら話してくれました。
名力士の名前がつけられた桶
古式醸造法では、熟成も含め、米酢は約3か月、玄米黒酢は約500日もかかります。最後の難関は熟成の終わりを見極めるとき。桶の中の菌は40℃で発酵し、果物が熟したような香りを放ちはじめるといいます。この香りによる判断が、商品の出来不出来を大きく左右するのです。
丸正酢醸造元の酢は海外の人たちも知ることになり、欧米の数十か国にも輸出。「那智黒米寿(なちくろこめす)」は食品の五輪とされるモンドセレクションの金賞を10年連続受賞しました。余韻の深い味は、激動の現代にあってなお新たな地平を開き続けているのです。
ここに取材しました!
◆丸正酢醸造元
住所 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満271
公式サイト