まずは、紋付き袴で正装した老若男女が仏像を鑑賞するトップ画像をご覧ください。これは明治・大正期を代表する、とある実業家の自邸だ。壁や天井、欄間、床、柱に至るまで、美しく彩られた豪奢な邸宅は、家主自ら設計したものという。現代のアートコレクターも真っ青の、アーティスティックな美意識をもった人物っていったい……だれ??
自邸の一部を利用して、明治35(1902)年からコレクションの公開をはじめていた美術館は、翌36年6月14日に、正式に開館式を執り行った。『大倉邸美術館内之図』はそのようすを描いた錦絵だ。
大倉邸の主とは、近代日本の黎明期に、一代で財閥を築いた大倉喜八郎(おおくら・きはちろう/1837-1928)のこと。大倉美術館を前身とする大倉集古館は、2022年の今年、公開から120年の節目を迎え、日本に現存する最古の私立美術館として知られる。同館の歴史を伝える作品が一堂に並ぶ企画展「合縁奇縁(あいえん・きえん)~大倉集古館の多彩な工芸品~」(2022年10月23日まで開催)を担当した学芸員の四宮美帆子さんに、大倉家の美術コレクションについて話を聞いた。
大倉喜八郎ってどんな人?
『大倉邸美術館内之図』からも人物のスケールは伺い知れるが、ざっと大倉喜八郎の人生を振り返っておこう。天保8(1837)年、現在の新潟県新発田(しばた)市の商家の三男として生まれた喜八郎(当時は鶴吉)は、17歳で江戸に出た。かつお節店での奉公で多くの技能を習得し、乾物店主として独立。そして幕末・維新の争乱のただなか、慶応3(1867)年に大倉屋鉄砲店を開業する。戊辰戦争が勃発する前年のことだ。これ以降、波乱に富んだ人生の勢いが増す。
本人が「第一の冒険」と語るのが戊辰戦争時のエピソード。大倉屋には新政府軍(官軍)と旧幕府軍の双方から鉄砲の注文が舞い込んだ。しかし、上野戦争の開戦前日、喜八郎は官軍に鉄砲を売っていたことで彰義隊に連行される。刃を突き付けられ「彰義隊にはなぜ鉄砲を売らぬ」と問い詰められ、万事休す……と思いきや「官軍は現金払いなので売ったまで」と商売の理(ことわり)を伝えて、九死に一生を得た。しかも、「第一の冒険」の言葉からも分かるように、生死をかけた商いは1度や2度ではないのだ。
時代を読む洞察力はピカイチで、民間人として初めて欧米へ視察旅行に赴いたのもこの人。明治維新後、鉄砲店から洋装店、貿易業を次々と開き、外国からの帰国後に大倉組商会を設立し、ロンドンにも出店。朝鮮や中国での投資にも取り組んだ。創立・経営した企業で現在も残るのは、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオ、リーガルコーポレーションなど多業種にわたる。完成までに4年以上を要した帝国ホテルの2代目本館、通称「ライト館」が実現したのも、当時、同ホテルの会長を務めていた喜八郎が長引く工事を辛抱強く待ち、そのための金銭的負担にも耐えたからだった。
茶の湯は嫌い? 独自路線を貫いたコレクション
大倉集古館は、喜八郎が集めた日本・東洋各地域の古美術品と、跡を継いだ息子の喜七郎(1882-1963)が蒐集した日本の近代絵画などを合わせて、現在約2500件を収蔵する。なかには仏像ファン垂涎の『普賢菩薩騎象像(ふげんぼさつきぞうぞう)』や、天皇らを警護した「随身」を描いた鎌倉時代の『随身庭騎絵巻(ずいじんていきえまき)』(※)などの国宝3件、重要文化財13件が含まれる。
喜八郎の美術品蒐集のはじまりは、やはり明治維新後のこと。「政府による神仏分離令に伴う廃仏毀釈で多くの仏教美術が破壊、放出されました。喜八郎は生死をかけた商売をたくさん行っていた人物なので、信心が深いように思います。それで、仏教彫刻を集めます。一方、幕藩体制の崩壊で大名や旗本家から放出された美術品が海外へ流出するのを防ぐ目的でも蒐集を行っています」と四宮さん。
たとえば、五代将軍徳川綱吉の生母「桂昌院」の御霊屋(おたまや/霊廟のこと)が、あるときオランダ人のアレクサンダー・フォン・シーボルトに払い下げられようとしていた。それを聞いた喜八郎は外国人の手に渡れば跡形もなく壊されると考え、高利で3万円もの借金をして先手を打って買い取る。明治時代の1円は現在の2万円程の価値というから……6億円ですかっ!?
さらに蒐集は、アジア各国にも拡がった。「明治33(1900)年に中国で起こった義和団の乱を機に、商機を中国に見出したのでしょう。また、美術品がヨーロッパ人に略奪されたり、安く買われるのを見て苦々しくも思った。ただ、古いものを吟味して購入したよりも、『ここら辺、一気にちょうだい』という感じで買っている。それで収蔵品が増えました」(四宮さん)。あるロシア人商人が中国の美術品を満載した船で長崎に寄港し、「日本で買い手がなければアメリカに持っていく」ことを聞きつけるや、その船の品をひとつ残らず買い取った逸話も。「他人の集め得ない物を大たばに、大づかみに集めた」という喜八郎の蒐集は、とにかく豪快なのだ。
当時の新興実業家の間では、茶の湯を嗜み、歴史ある道具を所有することがある種のステータスだった。一方、四宮さんによれば、喜八郎も茶の湯を嗜んだもののその価値観を好まなかった、という。ゆえに、茶の湯の価値観とは異なる独自のコレクションが形成されていった。さらに、他の実業家たちが蒐集品を私蔵するなかで、喜八郎は一般市民に早くから公開した点で大きく異なる。大正6(1917)年、蒐集のすべてを公共に寄付することを決め、「財団法人大倉集古館」を設立。私たちがいま普通に美術館で鑑賞できるのも、芸術文化を支援した喜八郎の先進的思想があってこそ、といえるかもしれない。
喜八郎が50年あまりをかけて集めた美術品は、しかし、大正12(1923)年の関東大震災で敷地周辺からの火が燃え移り、建物ごとほとんどが焼失してしまう。『普賢菩薩騎象像』は救出されて無事だったが、3号館にあった「桂昌院霊廟」は失われた。住まいを失ったことに恨みは言わなかった喜八郎も、取り戻すことのできない美術品の焼失に対してはさすがに落胆を隠さなかったという。
災禍をくぐり抜け伝わった大倉家ゆかりの品々
今回の企画展「合縁奇縁」には、これまでに述べた大倉美術館・集古館設立や大倉家の歴史を伝える資料のほか、大震災の災禍を辛くも免れた貴重な品が展示されている。
『唐草文螺鈿手箱(からくさもんらでんてばこ)』は、被災した幻の漆工コレクションのひとつ。「赤い漆を重ねた堆朱(ついしゅ)、黄色い漆を重ね彫る堆黄(ついおう)など特に150点あまりのコレクションが世界一と称されました。全体で630点ほどの漆工品があったのですが、8点ほどを残しすべてが灰じんに帰しました」
また、大倉集古館設立の際、コレクションの特色のひとつに挙げられたのが、日本における最初期の陶俑(とうよう)蒐集。「陶俑は中国古代墳墓の副葬品です。当時の中国の人々はお墓に供えられたものを気持ち悪がって美術品としては捉えませんでした。それでヨーロッパにまず流れ、次に日本で少しずつ収蔵されます。喜八郎は人形に限らず、墓の壁、柱も考古資料として蒐集した。現在価値が高いと評される三彩(さんさい/緑や褐色、白色など三色の釉薬が施された俑や器物)は、いまでは美術品扱いですけれども、それは近代に入ってからのことなんです」(四宮さん)
喜八郎が中国への投資や借款を行った返礼として宣統帝(溥儀)や粛親王(しゅくしんのう)から贈られたといわれている『蟒袍(ほうぼう・マンパオ)』は日本では収蔵数が少なく珍しい。9匹の、龍に見える文様が施された官吏の儀式用の衣装だが、龍は皇帝にのみ許される文様なので、こちらは蟒(うわばみ=大きな蛇)なのだそうだ。このほかにも長く民族資料として収蔵庫に保管されていたもので、改めて日の目をみた作品も多い、と四宮さんは言う。ひとつひとつと対話をするようにゆっくり館内をめぐりたい。
(参考文献)
砂川幸雄『大倉喜八郎の豪快なる生涯』草思社、1996年
展覧会基本情報
展覧会名:「合縁奇縁~大倉集古館の多彩な工芸品~」
会場:大倉集古館(東京・虎ノ門/The Okura Tokyo 前)
会期:2022年8月16日(火)~10月23日(日)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
入館料:一般1,000円、大高生800円、中学生以下無料
大倉美術館公式サイト