ヨーロッパ中をジャポニスムと呼ばれる日本趣味が席巻し、浮世絵などの日本の絵画が西洋の画家たちに衝撃を与えていた19世紀後半、日本では西洋絵画が普及し始め、さまざまな西洋画の技法や考え方が日本画壇に大きな影響をもたらしていました。
この時期の日本の画家たちは、開国、明治維新、文明開化という新しい時代にふさわしい日本絵画を模索し、新たな日本画の創出に心血を注いでいました。
明治31(1898)年、東京美術学校を辞職した岡倉天心は、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと日本美術院を創立。その後、一時の低迷期を乗り越え、大正3(1914)年には、大観や観山を中心に日本美術院が再興。今日に至るまで、数多の日本画家がそこに参加し、日本画の新たな表現方法を生み出すべく、苦闘と模索と挑戦が続いてきたのです。
今年2018年は、その日本美術院が天心によって最初に創立されてから、ちょうど120年にあたることから、東京・広尾の山種美術館で「[企画展]日本美術院創立120年記念 日本画の挑戦者たち―大観・春草・古径・御舟―」が開催されています。
「第1章 日本美術院のはじまり」の展示コーナー。左手前にみえるのは、橋本雅邦の「不老門・長生殿」(明治40年、1907年 絹本・彩色)
橋本雅邦、下村観山、菱田春草、横山大観、小林古径、今村紫紅、安田靫彦、速水御舟、前田青邨、奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子、平山郁夫から、現日本美術院理事長の田渕俊夫まで・・・。まさに日本美術院の歴史をたどるようであり、また幕末以降の日本画壇のチャレンジ(挑戦)の一大ストリームを俯瞰してみるような思いになる、感動の展示です。
日本画の技法と西洋画の技法はいかに融合したか
日本美術院創立のメンバーでもあった下村観山の「不動明王」(1904年頃、明治37年頃 絹本・彩色)は、仏画の伝統に西洋画の手法を加えて描き挙げた作品。画題である不動明王の身体を、西洋流の写実表現で描いています。筋骨隆々の上半身は、まるでギリシャ彫刻を彷彿とさせ、陰影を効かせた描き方が印象的です。
下村観山「不動明王」明治37(1904)年頃 絹本・彩色 山種美術館。観山ロンドン留学後の、31歳頃の作品。ロンドンでみた西洋画の影響がみてとれる。
観山は30歳の頃、2年間ロンドンに留学。その時期にターナーやラファエロを数多く模写したそうです。そういった経験が、正統なる日本画の手法に新たな「挑戦」をもたらしたのでしょう。
再興後の日本美術院の中心的存在だった小林古径の「猫」(昭和21年、1946年 紙本・彩色)は、古径を代表する人気作品。動物と草花を一枚に構成するのは日本画の伝統的手法でもありますが、中心に描かれた猫が日本的ではなく、どこか西洋風。そう、あのエジプトの神話に出てくる猫の女神「バステト」を思わせます。古径はエジプトを訪れたことがあり、そのときの思いがこの作品に活かされているのかも知れません。
小林古径「猫」(昭和21年、1946年 紙本・彩色)なんとも清新な美しさ! 小林古径の多くの名作の中でも人気の高い作品。
それにしても清潔感のある白や淡い色で描かれた凜々しい姿勢の猫と、目にも鮮やかな紫の桔梗の花との色のコントラストは、何度みても心をわしづかみにされてしまいます。
若冲、鈴木其一と速水御舟を結ぶ線
本展の記者内覧会に先立って、同美術館顧問で明治学院大学教授の山下裕二氏がいくつかの作品を解説してくださいました。
速水御舟の「柿」(大正12年、1923年 紙本・彩色)については、「この絵には御舟の油絵に対する対抗心がみてとれる。日本画の画材でもここまで描けるんだ、というリアルな描写が見所」という趣旨の説明をされました。確かに油彩画のような細密な描写には驚くばかりです。
速水御舟の「柿」(大正12年、1923年 紙本・彩色)。御舟29歳の時の作品。油彩画の技法や中国の絵からの影響も取り入れられているという。
また「牡丹花(墨牡丹)」(昭和9年、1934年 紙本・墨画彩色)については、「花のみを墨で描いている珍しい作品」と解説。“墨は五彩を兼ねる”といわれるそうですが、御舟は唐の書家、顔真卿(がんしんけい)を学んでいたそうで、墨を用いた表現への探求に余念がなかったそうです。
速水御舟、40歳の作「牡丹花(墨牡丹)」(昭和9年、1934年 紙本・墨画彩色)。通常美しい彩色を使用するだろう花自体を、墨で描くという大胆な発想。実にチャレンジング!
山下氏はまた、「御舟は鈴木其一を意識していた。また若冲のことも意識していた。そして鈴木其一も若冲を意識していた」と説明。その思いからもう一度、速水御舟の作品をみてみると、確かに江戸時代の奇才の二人の絵師の影響が感じられるようにも思われ、興味が尽きません。
速水御舟の作品は、今回8作品(うち2作品は10月14日まで展示、1作品は10月16日からの展示)が出陳。特に山種美術館を代表する名作である「名樹散椿」(重要文化財 昭和4年、1929年 紙本金地・彩色)が10月16日から11月11日まで展示されるので大注目です。
横山大観「喜撰山」(大正8年、1919年 紙本・彩色)。大観51歳の作。喜撰法師の歌で知られる、宇治の喜撰山を描いた作品。
日本美術院の歴史を語る上では、その創設のメンバーであり、再興後の日本美術院の中心人物でもある横山大観の作品に触れない訳にはいきません。今回大観作品は「喜撰山」(大正8年、1919年 紙本・彩色)、「蓬莱山」(昭和14年頃、1939年頃 絹本・彩色)、「不二霊峯」(昭和22年頃、1947年頃 紙本・墨画淡彩)と水墨画の「燕山の巻」(明治43年、1910年 紙本・墨画)の4作品が出陳。
宇治の喜撰山を題材にした「喜撰山」は、琳派を感じさせる大作。古典に範をとった画題といい、山並みの描き方なども琳派風。一方で下部に描いた木々は点描の手法を用いていて描くなど、新たな日本画への挑戦をしています。
明治43年の中国旅行の体験から描かれた水墨画「燕山の巻」も必見です。
「燕山の巻」(明治43年、1910年 紙本・彩色)。日本美術院を再興する5年ほど前、大観42歳の作品。
現在進行形の“日本画の挑戦”を楽しむ!
最後に、現在の日本美術院理事長の田渕俊夫氏の作品を! 田渕俊夫氏は、昨年薬師寺食堂の大障壁画を御奉納されたばかり。食堂内を埋め尽くした長大な作品は、その美しさと迫力で多くの人を魅了しています。
今回出陳された田渕氏の作品「輪中の村」(昭和54年、1979年 紙本・彩色)は、木曽川と長良川の間の農村の風景。「輪中(わじゅう)」は社会科で習った、あの輪中。濃尾平野河口部に中世以降発達した水害防止の堤防と、その堤防に囲われた村落の共同体。
今ではみられなくなった「輪中」の風景。かつてはその輪中の中で暮らし、自然の脅威と戦い続けてきた人々・・・。田渕氏は「何処にでもあるような平和な農村風景の内に、人間の逞しい生命力と苦難の歴史を感じた」と、語っています。
田渕俊夫「輪中の村」昭和54(1979)年 紙本・彩色 山種美術館。水墨画のようでありながら、真ん中あたりにある緑の田畑が瑞々しく眼に焼きつく。重く垂れ込めた雲はアルミ箔を用いて描かれているという。近くで拝見すると、緑の彩色と墨、さらにキラキラと輝く銀とが織りなす不思議な世界観で、一般的に考えられる日本画の概念を遙かに超えた雰囲気に圧倒される。
この作品は水墨画を基調にしつつも、美しい緑の彩色が施されていて、心に深く染み入る作品。雨か霞にけぶるようにみえる農家の建物の美しいこと! そしてリアルな表情の雲は、なんとアルミ箔を使って描かれているのだとか。
田渕氏は、金銀、膠(にかわ)、墨などあらゆる材料を研究し、常に新しい技法に挑戦されているといいます。しかし今回のオーディオガイドの解説によると、ご本人は「伝統から革新まで、日本画をやりながら、新しいことに挑戦している、といわれるのには違和感がある」とおっしゃっているのだとか。
伝統的な技法とか、日本画だから伝統的だとか、そういうこと自体がおかしい、とおっしゃっているように思います。そもそもどの絵師、どの画家も、絵を描く過程においては、常に新しい挑戦や革新を続けているものなのでしょう。
今回の「日本画の挑戦者たちー大観・春草・古径・御舟ー」展、明治以降の日本画の挑戦の歴史を堪能できるだけではなく、今も現在進行形で続けられている“日本画の挑戦の今”をも実感できることでしょう。
展示作品約50点はすべて山種美術館の所蔵。さすが日本画専門美術館であり、近代日本画の世界的宝庫である同美術館。まさにその総力を結集しての大展覧会になっています。
会期は11月11日日曜日まで(会期中、一部展示替えあり)。清々しいばかりに美しい日本画の世界と、その下に潜む日本画家たちの熱い創作へのエネルギーを感じてください。
文/橋本記一
[企画展]日本美術院創立120年記念 日本画の挑戦者たち―大観・春草・古径・御舟―
会期 開催中~2018年11月11日
会場 山種美術館
公式サイト