自分の意識をどこへ向けるか
今回の禅語:万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
よく瞑想で「無我の境地」とか「無になる」という話を聞いたことがあるかもしれません。
でも、そもそも坐禅や瞑想中にまったくの「無」になれるかと言ったら、いつもどこかで思考は働いていて、感情も全てを無くすことは難しいと思うんです。
私も坐禅や瞑想を何度も体験してきましたが、瞑想中に個人的な思考や感情、自分の中にある煩悩や何かを目指そうとする意欲、恐怖心など、心の内側を気にしているうちはなかなか集中できなくて。
けれど、そういう煩わしい事柄ではないもの、例えば、自然の中にある心地良い風や広大な大地、海、太陽、空などを静かに見つめていくと、一切の煩わしい概念から解放される感覚が味わえる気がします。
そんな時、自己とそれ以外(他己)の境界がなくなる感じがし、静寂に包まれ、平和や自由な気持ちに満たされて煩わしい思考や感情に振り回されなくなってくるのです。これを仏法の世界では「空(くう)」と呼ぶのかもしれません。
ちなみに皆さん、普段の生活の中では、いつもどこに意識を向けていますか? 生きているということは、意識があるということだと思うのですが、その意識を日常の楽しいことに向けるか、煩わしいさまざまな事柄に向けるのか、感情に向けるか、呼吸に向けるか。
あるいは、迷いに向けるか、悟りに向けるか、仏に向けるか、凡夫に向けるか、生に向けるか、滅びに向けるか。その意識の持ち方の違いで日常にあるすべての選択が変わるように思います。
だったらいっそのこと、「空(くう)」を意識してみてはどうでしょうか?
では、「空(くう)」ってどういうものなんでしょう。それを教えていただいたのは、曹洞宗の禅教室に参加した時のことでした。
「地球の人間の世界では、東西南北など方角を作っていますが、実際の自然界や宇宙には方角も上下左右もありません」「それが空(くう)なのです」
というお話を伺い、私はとっても視界が開けました。自分の中にある常識や概念が取っ払われて、新しい広がりが生まれた感じです。
禅宗における坐禅についても「調身・調息・調心」(体と息と心を整えること)が基本で、自然と一体となる坐禅とは、とにかく自分で何かをしないこと! だそう。ただ坐禅を組んで(調身)、自然に任せて無意識に繰り返されている呼吸に気づいていくこと(調息)。静かに体内に出入りしている呼吸の流れを受け止めていくだけで、どんどん心が落ち着いてきて(調心)、静寂に包まれてきます。
そうやって瞑想や坐禅を通して「空(くう)」を体験してみると、煩わしいことが一切気にならなくなり、平和な感覚に満たされて、何も感じなく考えられなくなった時に、これが「無我なのかな?」と思うことがあります。
亡くなった義父を前にして
他にも似たような感覚を体験をしたのが、先日、突然、義父の訃報に接し、最後のお別れを余儀なくされた時のことです。
息が途絶えた義父を目の前にした時、そこには、私の知っている義父はおらず、大きな悲しみと後悔、信じたくない気持ちなどさまざまな感情が湧き上がりましたが、横たわって動かなくなった義父には、迷いも悟りも、諸々の仏も、凡夫の人々も、生も、滅も、何も存在していませんでした。
意識を自分の感情ではなく、義父の姿そのものに向けたとき、そこにあったのは、もうどうすることもできないという一つの「諦め」でした。
物事を手放すしかない時、人は、放心状態に陥るのかもしれません。その感覚は、先ほどのような自然と共にある平和な感覚とはまた異なるのですが、それでも、迷いといった煩わしさは私の中に存在しませんでした。
これらの経験で分かったことは、自己の思考や感情を超越した空間(次元)が存在しており、私たちは自ら生きているように思えて、実は生かされているということです。個人的な思考や感情を飛び越え、自然やすでに意識を持たなくなった義父という概念を持たないものや、自分の概念を覆すものに意識を向けた時に生まれる気づきに、道元さんの言葉に通じる何かがある気がしました。
私の大好きな精神世界分野の作家、エックハルト・トールの本の中にも、こんな記述を見つけました。
「自己がなければ、問題もなし」
道元さんが書かれた冒頭の言葉を、最も簡潔に訳した言葉ではないでしょうか。自己の概念を解放することが、道元さんの言葉を紐解くヒントになるかもしれませんね。
監修:横山泰賢(日光山 禅昌寺住職・曹洞禅インターナショナル会長)