たとえば二股の道。洞窟。山とか海とか川とか。地上のある空間領域は、異界へと通じる道になっている。そういう場所は家のなかにもあって、納戸、蔵、トイレなどがそうで、こういう所で不幸にも座敷わらしや幽霊に出くわしちゃったりするのは異界との境界になる場所だからだ。
もし異界へ繰り出すことをお望みなら、日常のなかに疑似的な異界を作りだすこともできる。そしてこの行為は、時に強力なおまじないにもなったりする。そんな方法のひとつが「逆さま」である。
子どもの夜泣きを止めるおまじない
効果があるとかないとかの話はひとまずおいといて(あるいはここに挙げたうちのどれかは役に立つかもしれない)、子どもの夜泣きを止めるための古い「おまじない」というのがある。
たとえば鶏の絵を描いて枕の下に入れておく。鶏の人形でもいい。もしくは「狐」という字を書いた紙を梅の枝に吊るして、この枝を子どもの枕もとに置いておく。一説には、子どもが夜泣きするのは狐のしわざらしいから、「狐」と書いた紙を吊るすのは、子どもがいたずらされないように狐を騙そうとしているのだろう。鶏や狐が引きあいにだされるのは、昼間にしか鳴かない動物にあやかろうとしての行為だ。なんたって大人たちが夜泣きに困るのは、夜のあいだに泣かれることにある。
こんなふうに書くと突拍子もないことをしているように思えるけれど、おまじないとは、人の及ばない力を借りるからおまじないなのである。こうしたおまじないは、江戸時代まで遡ることができる。おもしろいのは、土地によってはおまじないが「逆さ」に行われることだ。
千葉県には、夜泣きを封じる鬼というのがある。言い伝えによれば、大津絵の鬼を夜泣きする子どもの枕もとに逆さにかけておくと夜泣きがぴたりとおさまるらしい。ここで重要なのは鬼が逆さまになっている、ということ。どういうわけかくるりと一回転してこそ、おまじないは効果を発揮するのである。
逆さまの世界
こうした「逆さ」の風習が見られるのは子ども部屋に限ったことではない。
故人に悪霊がとりつくのを防ぐための魔除けに、逆さ屏風というのがある。ほかにも故人の寝る布団を天地逆にしたり(逆さ布団)、着物の襟を足もとにかけたり(逆さ着物)、供えるお茶も日常の行為とは反対に湯を入れてから茶葉を加える、などは全国的にみられる風習だ。
こうした「逆さ事」の根底には、冥界は人間界を逆さにした世界であるとの考えがある。死霊は人間界にとどまりつづけると魔物と化して、人に災いをもたらすと信じられてきた。そういう意味では、布団や着物を逆さにすることは死霊をすみやかに冥界へと向かわせるための儀式といえる。かねてから人びとは魔除けの意味を込めて、逆さのおまじないをしてきたのである。
異界からやってきた鬼
逆さま、異界、子どもの夜泣き。この三つには意外な繋がりがある。
民俗学者の小松和彦によれば、東北地方の子守唄には「泣けば里から鬼くるァね」という歌詞があり、子どもが泣くと鬼が里(異界)からやって来て泣く子を食べてしまうのだという。また、大津絵のなかには鬼が念仏を唱えている絵がある。この絵を子どもの枕もとに逆さにかけておくと夜泣きが止むといわれているのだが、そもそも鬼が念仏を唱えるというのは奇妙だし、本来なら夜泣きを引き起こすはずの鬼が鬼を追いはらうというのも不思議な話ではある。鬼が夜泣きを引き起こす原因なら、鬼の絵を逆さにすることには特別な意味があるはずだ。
一つは、鬼の絵を枕もとに飾っておくことでここには仲間の鬼がいますよ、と示すこと。べつの鬼がいるのでは異界から来た鬼は引き返すほかはない。もう一つは、絵を逆さにすることで日常世界に異界を作ること。この世を鬼がいる異界と見せかけて、仲間の鬼から家を守るのである。そうして魔物を本来のすみかである異界へと追い返してしまおうというわけだ。逆さまのものは、それだけで魔除けの効果を発揮する。なんとも複雑なサカサマの世界である。
失われた異界を求めて
ところで私たちが「異界」というとき、それはいったい何処のことをさすのだろう。
9と4分の3番線のプラットホームとか骨喰いの井戸とか、手を引かれたら出かけたくなるような入口の先にある世界のことをいうのだろうか。だとしたら、それは時間的にも空間的にもいま、こことは別の場所ということになる。つまり異界とは、私たちが普段生活している時間と場所の外側にある世界のすべてといえそうだ。
「異界を定義するとき、なによりもまず留意しなければならないのは、異界とはあくまでも相対的な概念である、ということである。つまり、どこそこに住んでいる者にとって、どこそこが異界とみなされている、ということなのである。したがって、誰もが異界をもっている。しかし、日本や地球のどこかに日本人や人間にとって超歴史的で絶対的な異界が存在しているわけではない。」(小松和彦「妖怪学新考」)
異界はどこにでもあるし、妖怪はあらゆるところに出没する可能性がある。異界へはその気になれば生身で行くことができるし(山の頂、海の底)、肉体を連れては行けない場所(黄泉の国、地獄)のこともある。
一方で、二つの世界は重なってもいる。相互に関連しあい、行き来することのできる世界としての異界を想像するとき、考えることを避けては通れないのが異界へと向かうための道だ。その道は、自然のなか、家のなか、都市のなかと存外あらゆるところにある。「逆さま」とは、疑似的な異界を日常のなかに作り出すための手のこんだまじないなのだ。
逆さまの世界は人間界ではない
異界は至るところで見つけることができる。だけど異界の構造はそれよりずっと複雑だ。昼間は太陽の光で煌々と照らされていた場所が夜になり暗くなると異界に変貌するように、異界は時間軸で変化するし、季節、日常と祭礼の日によっても変化する。
想像してみてほしい。昼に夜があり、善には悪があり、生は死があることで成立しているように、私たちの日常世界は対概念があって成立している。このことは、異界の在り様と深く関係している。だからこそ、逆さまにすることでもたらされる効果は絶大なのだ。本来なら子どもを襲うはずの鬼が、鬼を追い払うという逆転を起こしたりもするのだから。
異界について考えるとき、いつも思うことがある。もし私たちの世界の対概念としての異界がなかったら、つまり神も妖怪も存在せず、生者もおらず死者の魂の行き着く場所もないとしたら、私たちはどんなだったろう。異界をどのようにイメージするかはさておき、言説としての逆さの世界がなければ人間は墓地を追われた亡霊よりも悲しく、影よりも存在を欠いた生きものになるのではないだろうか。
【参考資料】
長谷川雅雄、辻本裕成他「『腹の虫』の研究 日本の心身観をさぐる」名古屋大学出版会、2012年
小松和彦「妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心」小学館、1994年
小松和彦(編)「日本人の異界観 異界の想像力の根源を探る」せりか書房、2006年