もなか、と聞いても、ふうん、と右から左の耳へ流してしまう諸兄諸姉も多いのではないだろうか。しかしそこに「勝海舟が閉店を阻止した」と付いたなら俄然端座して、ちっと聞かせてくれねえかい、となりはしまいか。筆者もまたその1人であったのだが、8年ほど前、ここから呆気なく「最中ヶ淵」に引き摺り込まれてしまった。この記事は、筆者と同じルートで皆さまを最中の世界へ引き摺り込まんと、淵から目を覗かせ画策したものである。(無論、既に最中の魔力に囚われている方々へもお届けしたい。)
千鳥ヶ淵より車で約10分、東京は本郷に「最中ヶ淵」は、ある。
壺屋総本店へ
脳はブドウ糖からのみ栄養を補給し得るのだし、もち米やら小豆やら使われている最中はそうした面からも効果が見込めて、何だったらヒトの脳の進化にも寄与するんじゃああるまいか、などと訳の分からぬ自己正当化をしながら都営大江戸線・本郷三丁目駅を這い出し、目的地へ向かう。筆者、無類の甘党である。
東京大学龍岡門の程近く、春日通りに面した比較的人通りの多い場所に「壺屋総本店」は佇んでいる。特段、分かりにくい場所ではない。しかし、である。趣のある木造のゆかしい店舗は、そのゆかしさゆえに見落とされることも多い。この店を目指して訪れた人ですら、初めての際には付近でうろつくという。見えているのに見えていないものの如何に多いことか、そんな哲学的な感慨さえ抱かせる穏やかな店構えの、年代物の木枠に手を掛けて店内へ。
時が、止まる。否、極端にその速度が緩やかになる。寛永年間(江戸前期、1624~1645年)創業の、江戸の町民が開いた最初の菓子店「江戸根元(えどこんげん)菓子店」という老舗和菓子店は、お釣りを寛永通宝で渡されても何ら疑問を抱かず、そのまま店を出てきてしまいそうな空気すら漂う。至る所に置かれた猫の置物の愛らしさも相まって、日常のあれこれで張り詰めた心が解きほぐされていく。猫たちは売り物ではないが、来店客がその姿に目を細めることも多いのだとか。人も福も招く、招き猫たちである。
勝海舟が閉店を止めた、江戸の市民に愛された味
現店主である18代目の入倉喜克(いりくらよしかつ)さんにお話を伺った。
まずは勝海舟のエピソードから。
明治維新の折、江戸の大店は「新政府の世になって商いを続けていては、長年に渡ってお世話になった徳川様に申し訳が立たない」と次々に暖簾を下ろしていった。壺屋もまた廃業を決意していたのだが、大の壺屋贔屓で常連客であった勝海舟から「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから、続けるように」と諭され、再開したのだという。今も店内にはこの時に贈られた「神逸気旺(しんいつきおう)」の書が大切に飾られている。神頼みをするのではなく、気力をもって事に当たる、という意味のこの言葉は、いつの世においても心に留めておきたい名言だ。
壺屋総本店は江戸時代、京都中御門家より由緒ある店へ贈られる称号である「出羽掾(でわのじょう)」「播磨大掾(はりまだいじょう)」を受けているが、これには7両2分を必要としたのだそうだ。江戸期はかなり貨幣価値の変動が大きかったが、1両を10万円として計算すると約75万円である。現在と個々の物価の感覚がかなり異なるため一概には言えないが、年収40~50両程度で生活していた市民も多い中、この金額を支払うことが可能なほど当時から繁盛していたということだろう。
店名の由来は「砂糖壺」だった!?
砂糖は江戸時代、米の倍以上もする相当な高級品であり、薬として扱われていた。壺屋の名は、この大切な砂糖を入れる「砂糖壺」を意味したものなのだそうだ。狂言に「附子(ぶす)」という演目があるが、主人が毒であるから、と嘘をついてまで触れぬよう言いつけた桶の中身は砂糖であった。それだけ高額であったことの証左であろう。
江戸市民にこよなく愛された老舗和菓子店の名は「江戸総鹿子名所大全(えどそうかのこめいしょたいぜん)」「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」などの古書にも記されており、また、かつては薬や化粧品も扱っていた。永井荷風の『断腸亭日乗』、田山花袋の『蒲団』などの小説作品に壺屋の名が見え、美食家として知られる池波正太郎の『鬼平犯科帳』にも化粧品店としてその名が記されている。創業の地である西久保(現在の虎ノ門付近)や飯田町、新橋など最大で10店舗を展開していた壺屋だが、太平洋戦争のあおりを受け、空襲にも遭い、戦後は現在の本郷に集約して営業を再開している。
なお、すべての商品の材料を厳選し、手作りで仕上げている伝統の味は、現地に足を運ばないことには楽しめない。保存料などの添加物を一切使用せず、日持ちしないこと、また1つ1つ丁寧に作っていて量産できないことから、ネット通販や取り寄せ対応はしていないのだそうだ。また、インターネットは利用されておらず、店舗の公式サイトもない。似通った名前の他店があり、誤って問い合わせが来ることも多いというが、東京本郷のこの地で、現金でのみ購入可能である。
壺屋の最中は貼り付かない
さてその最中である。
勝海舟も愛した「壺々最中(つぼつぼもなか)」、壺々最中よりやや大きい「壺最中(つぼもなか)」、大ぶりで壺の形をした「壺形最中(つぼがたもなか)」の3種類がある。
壺屋総本店の最中の美味さには、理由がある。
北海道産の上質な小豆とざらめを使用した餡、最中の皮専門の皮屋さんが作ったもち米100%の皮など、厳選された材料で添加物を使用せず手作りしていること。添加物を使用しないため味に特有の深みが出て、食通は口にした瞬間にそれと判るのだそうだ。しっかりとした味の餡だが柔らかな甘みを感じ、後味も実に爽やかである。まさに江戸の菓子、といった風情だ。
また、餅を長方形に仕立ててから最中の型に入れ、形作った証拠である「短冊」が、壺屋の最中の皮にはあるが、これもまたもち米を使用したことの証であるという。もち米100%の最中は、歯の裏にくっつくこともなければ、ぱさつくこともない。――そう説明してくださっている入倉さんのお顔が輝いていたのが何よりの味の保証であるかもしれないと、伺いながらそんな風に感じたのだった。
最中の消費期限は4日間である。入倉さん曰く、少し時間を置いて皮と餡をなじませると、さらに美味さが引き立つという。
個人的見解だが、壺屋総本店の最中は買った直後もまた皮の香ばしさが際立って美味い。湯島天神も徒歩圏内だから、境内で食して甘美なる歓びを奉納するのも一興であろう。
練切も美味
「最中ヶ淵」は母体である「和菓子ヶ淵」にも直結している。そして壺屋総本店の練切は、その存在に気付いたが最後、最中片手に淵深く沈んでゆくこととなる。
ともかく餡が美味い。素材の良さと共に、和菓子に対する愛情がひしひしと伝わってくる。口の中でふわっと解け、それでいてしっかりとした風味が感じられ、かつ爽やかな後味はこの壺屋総本店ならではの佳味である。
加えて、特筆すべきはその姿である。筆者はかつてここのショウウィンドウで和菓子店にあるまじきものを目にし、しばし彫像となった。行儀よく切り揃えられた青ネギが白く美しい立方体の上にちょこんと2、3ばかり乗り、立方体は何故か最中の隣に鎮座ましましている。視線の先にあったのは、紛う方なき冷奴であった。青ねぎは内側の白い部分がみずみずしく、どうやらつい先ほど添えたようである。そういえばこの近辺に彫刻家・平櫛田中の旧宅があったはず、と思いながら人へ戻り、自宅に持ち帰って細部まであらゆる箇所を解剖し吟味を行う。分析の結果、それらことごとく、滑らかな舌触りの上品なこし餡で構成されていたのであった。
筆者はまたある年の春先、小豆と砂糖以外の香気を覚えて己が舌の故障を疑った。口に運んでいたのは壺屋総本店の「竹の子」。竹の子から竹の子の味がしないことからして既におかしいのであるが、取り敢えず再び解剖を試みる。香気の正体は竹の子の皮であった。竹の子の皮の顔をした桂皮の粉であった。桂皮は古くより日本にあるものなのだから、別段驚くべき食材でもないはずなのだが、人は予想だにしなかったものが五感に触れるとたいてい狼狽える。桂皮、いわゆるニッキ(シナモン)だが、しかしこの桂皮粉、マリアージュというかアウフヘーベンというか、実によくこし餡と合うのである。時折、どうしてそうなった、という、例えばいちご大福のような例が他にもあるのだが、筆者の脳の味覚予測機能はまだまだポンコツである。美味いのがすべての正義なのであるからして、これらは正義そのものである。
入倉さんは、季節を感じられるのが上生菓子の特色である、とおっしゃっていた。四季を感じ、自然に寄り添う日本の美意識を、願わくはこの地球から人類のいなくなる日まで、永く伝えていきたいものである。
壺屋総本店には、その他にも「壺汁粉」「湯島の白梅」「デセール(明治の製法そのままのビスケット)」などあり、いずれも好評を博している。
お江戸の深き淵の内より
江戸はかつて湿地帯であった。徳川家康による懸命の整地や埋め立てにより、国の中枢機関が集中するまでになっているが、現在でもこの地には多数の淵が存在する。気付けばあなたも極上の「最中ヶ淵」に佇んでいることだろう。どうぞ、ごゆっくり。
壺屋総本店 基本情報
店舗名: 壺屋総本店
住所: 113-0033 東京都文京区本郷3-42-8
営業時間: 月~土 9:00~19:00 祝 9:00~17:00
定休日: 日曜