織田信長が好んで所持していたことでも知られる、備前長船光忠(びぜんおさふねみつただ)の手になる刀。
その中でも、「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」と名付けられた1振の刀には、波瀾万丈のエピソードが詰まっています。
燭台切光忠とは?
燭台切光忠は、名刀工・備前長船光忠が打った作で、伊達政宗から水戸徳川家へ贈られたと伝わる名刀です。
一説に信長から豊臣秀吉、秀吉から政宗へ、政宗から水戸徳川家へ伝わったとされます。
本来は太刀として作られましたが、持ち主の使い勝手に合わせて短く切り詰められ、「刀」に分類されています。
名付けの由来
燭台切、という名前が付けられたのは、奥州の雄、伊達政宗の愛刀だった時のこと。
政宗が、過失を犯した家臣を成敗しようとしたところ、その家臣は銅の燭台の陰に隠れて逃げようとしました。
そこで、政宗は、光忠の刀で燭台ごと家臣を斬り捨てたのでした。
このエピソードにより、「燭台切光忠」という名前が付けられたのです。
また別の説として、鉄製の燭台と人とを同時に斬ったから、とも言われます。
不死鳥のようによみがえった燭台切光忠
燭台切光忠はその後、水戸徳川家に受け継がれます。徳川頼房(とくがわよりふさ)の願いによって政宗から贈られた、水戸光圀が強引に政宗から貰い受けた、など、複数の説がありますが、正確なところは分かっていません。
同家所蔵の多数の刀剣が競売にかけられた際にも手元に残されるなど、非常に大切にされてきた燭台切光忠でしたが、大正12(1923)年9月1日の関東大震災によって焼失し、失われてしまいました……と、長年考えられてきました。
平成27(2015)年、刀剣をキャラクター化したブラウザゲームが発表されると、この名刀をモデルにしたキャラクターが大きな反響を呼びます。そして所蔵されている可能性があると目されていた徳川ミュージアム(茨城県水戸市にある、水戸徳川家の宝物を収蔵した博物館)に、ファンからこの刀剣についての問い合わせが殺到し、徳川ミュージアムが過去の記録などを照合して詳細な調査を行うこととなりました。
その結果、刀剣ファンの熱烈な声に応えるように、燭台切光忠が約90年の時を経て再発見されたのです。
大震災に伴う火災のために焼け、鞘内で刀身を保護するための金具・鎺(はばき)も溶けて刀身に付着している状態ですが、燭台切光忠は今なお圧倒的な存在感を示し、多くの人に愛される名刀の1つとなっています。
焼け身、つまり刀身が焼けてしまっている状態の刀剣は、これまでほとんどクローズアップされることはありませんでした。しかしその後、焼け身の刀身を集めた展覧会が開催されるなど、刀剣に対する価値観が大きく変わってきています。
こうした意味からも、燭台切光忠は、名刀中の名刀、と呼ぶにふさわしい存在と言えるでしょう。
刀工・光忠の刀ってこんな作品
燭台切光忠を作ったのは、備前長船光忠です。
鎌倉時代中期、元寇の頃に特に多くの作品を打った備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)の刀工で、長船の近くに工房を構えていた刀工集団・福岡一文字派の作品に見られる「丁子(ちょうじ:丁子[クローブ]のつぼみのような形をしていることから)」と呼ばれる刃文をさらに工夫した「大丁子(おおちょうじ)」という華やかな刃文が見られるのが特徴です。
一文字派のふわっとした柔らかい刃文に比べて、光忠のものはきりっとした光を放ち、凛とした印象を受けるものが多くあります。
光忠は長船派の祖とされる、長船随一の名匠です。
※なお、「光忠」を名乗る刀工は越前・山城粟田口派・河内・古備前・新刀期の尾張など、数工が確認されています。
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