運慶(うんけい)のどこがすごいの? 運慶仏はほかの仏像と何が違うの? 日本の彫刻史の中でも、運慶しかなし得なかった類いまれなる表現と技術のスゴさの源を、5つのキーワードから探ってみましょう。
1 「唯一無二」の仏像表現
飛鳥(あすか)・奈良時代の仏像は、中国や朝鮮半島から渡ってきた仏師を中心につくられ、平安時代中期に仏師・定朝(じょうちょう)が日本独自の仏像表現を生み出しました。絵画のように彫りが浅く、穏やかで荘厳な表情の仏像は“定朝様”として、京都の円派と院派に受け継がれていきます。その後、初めて定朝の血縁ではない奈良仏師が棟梁になりました。それが運慶の父、康慶(こうけい)です。以降、定朝様を受け継ぎ発展させ、日本仏教美術のルネサンスとも言うべき、仏像表現を追求していきました。
2 人々が求めた「リアリティ」
運慶が生まれたころの奈良仏師の作品に、すでに眼に水晶をはめる玉眼を使用した表現を見ることができます。鎌倉時代には人々が仏像にリアリティを求めるようになり、まるで生きているような潤いを湛える玉眼の使用や、動き出しそうな肉体表現、豊かな質感の衣の表現が追求されました。「このような姿で本当に仏がいてほしい」という、人々の願いにより近づくように模索した結晶が、この表現なのです。
3 「東国仏師」のイメージ
北条時政からの発注を機に、運慶は伊豆や鎌倉など東国の仏像制作を手がけるようになります。東国に行かずに仏像をつくることもできますが、文治年間(1185〜1190)の末から建久年間(1190〜1199)の前半あたりは、運慶の奈良での活動の記録がなく、東国には作品が残ります。そのため、東国にいた可能性が高いとされ、運慶の仏像の力強さは東国武士のイメージが反映されているともいわれています。
4 世の中を救うための「祈りの仏」
現代では美術的視点から仏像を見ることが多くなってしまいましたが、制作された当時、仏像は礼拝(らいはい)の対象そのものであったことを忘れてはなりません。平安時代末期は末法(まっぽう)の世と考えられ、多くの人々が仏教に救いを求めました。南都焼き討ちの後、運慶が願主となり、ふたりの写経僧に法華経(ほけきょう)を書写させています。本来高僧に与えられる僧綱位(そうぞうい)の法印も叙された運慶は、世の中を救うかたちとして仏像表現を追求したとも考えられます。
5 たくさんの「子どもたち」
実際には運慶に何人の子どもがいたかは明確ではありませんが、少なくとも湛慶(たんけい)、康運(こううん)、康弁(こうべん)、康勝(こうしょう)、運賀(うんが)、運助(うんじょ)という6人の息子は、仏師として慶派の重要な役割を務めました。また、如意(にょい)という名前の娘もいたことが史料から知られています。長男の湛慶は、運慶没後一門を棟梁として率いましたが、仏像表現に関しては、共に制作することが多かった快慶が、運慶の洗練に近いです。運慶の写実的な力強さは、息子たちも憧憬のまなざしで見ていたことでしょう。
「四天王立像」国宝 寄木造、彩色、彫眼 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵 写真:飛鳥園/運慶の父・康慶の一門作と長く考えられてきたが、近年、運慶の統率のもとに運慶の息子たちがつくったという説も強くなってきた。ダイナミックな動きが卓越している
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