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U=【歌麿】北斎の先を走ったカリスマ絵師・喜多川歌麿

浮世絵が最も人気を博していたのは、江戸時代も後期にさしかかった寛政から文化・文政時代にかけてのことでした。
その黄金時代をリードしたのが、宝暦3(1753)年に生まれた喜多川歌麿(きたがわうたまろ)。
北斎より7歳年上の浮世絵師。大河ドラマ「べらぼう」では染谷将太(そめたにしょうた)さんが演じていて、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)にとって重要なキーマンとして描かれています。

文献が少ない浮世絵師の中でも、歌麿は不明なことが多く、いつどこで生まれたのか、どこでどうやって育ったのかは実はわかっていません。
わずかに残る記録からわかっていることは、町絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)に弟子入りして浮世絵のイロハを教わり、23歳のころに北川豊章(きたがわとよあき)の名で浮世絵師としてデビューしたということ。
初期の歌麿は植物や虫の描写を得意としていた

その後、30歳を過ぎたころから喜多川歌麿を名乗るようになって、新興の版元であった蔦屋重三郎から狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』『潮干のつと』などの挿絵を任さたことで、確かな画力が認められるようになりました。
この蔦重(蔦屋重三郎)との出会いによって、画業はもとより、歌麿の人生も急展開を見せるようになります。
蔦重のもとで美人画を手がけるようになる

蔦重をはじめ、彫師や摺師などの優れたブレーンに恵まれた歌麿は、40歳になったころ、それまでは役者絵にしか用いられていなかったバストアップの大首絵(おおくびえ)を美人画に取り入れて大当たりをとります。
さらに美人大首絵は、光沢のある雲母摺(きらずり)やエンボス加工の空摺(からすり)、背景を無地にする地潰(じつぶ)しなどの技術を駆使。
浮世絵美人画において歌麿は、まさに頂点を極めたのです。
これが一世を風靡した歌麿の美人大首絵!


対する葛飾北斎は同じころ、宗理様式の美人画を発表しており、描かれた女性の姿は歌麿の影響を受けていました。
美人大首絵によって浮世絵の中心人物となっていた歌麿でしが、好事魔多し。寛政の改革によって風紀粛正を目ざしていた幕府は、歌麿の美人画に目をつけており、52歳のころに筆禍(ひっか)事件を起こして手鎖50日の刑に服することになります。
受刑後、周囲は復活を期待するも、創作意欲を失ってしまって52歳で病没。時代の寵児(ちょうじ)となったのも束の間、あっけない幕切れとなってしまいました。
そのころ47歳の北斎は、絵手本に熱中。絵師としての地歩を固めていたころにあたります。


