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Culture
2020.09.25

カワイイは正義!世界共通語のKawaiiの発信源は おしゃれ昭和女子のカリスマ中原淳一だった

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突然ですがカワイイ物は好きですか? 今や世界共通語となった日本発信の文化「カワイイ(Kawaii)」。リボンやレース、フリルや刺繍……いつの時代でも乙女の心を躍らせます。これらのアイテムをいち早く取り入れたイラストで昭和の少女たちの心をガッシリ掴んだのが中原淳一です。淳一は日本のファッションデザイナーの先駆けであり、画家であり、優れた編集者、プロデューサーでもある多彩な才能の持ち主でした。戦後のモノがない時代でも工夫しておしゃれすること、外見だけではなく内面の心がけなどを含めおしゃれが大好きな女の子たちの背中を押し続けた淳一こそ、現代のカワイイ文化の「祖」だったのです。

独学で人形制作も! クリエイターとしてのスタートは何と10代

中原淳一は1913(大正12)年に香川県東かがわ市白鳥町に生まれ、7歳の頃に父が他界、小学校卒業と同時に建築家になった兄の招きで上京します。10代になると誰に習うでもなく独学で自分の着る物をデザインし仕立てた服を着ていたというから驚き。デザインが思い浮ぶといきなり生地に鋏を入れ、自分の思う形に作るいわゆる立体裁断をして縫製もできたといいます。これはまさに絶対音感ならぬ「絶対服感」があったと言わざるを得ません。そのセンスを認められ上野広小路の洋装店で洋服のデザイナーとしての一歩を踏み出します。それより後、独学で作っていた人形が話題になり、人形展を開催することになったのですが、美しさと完成度が少女向け雑誌『少女の友』の編集者の目に留まり、挿絵を描いてみないかとスカウトされ、19歳でイラストの世界に進むきっかけとなります。類まれな才能というものは、どこにいても見出されるようになっているのだな、と思わずにはいられません。

挿絵画家からプロデューサーへ

淳一が挿絵画家として1932(昭和7)年にデビューすると、すぐに読者の人気を集め、1935(昭和10)年からは表紙も担当するようになります。絵を描くだけではなく編集会議や付録のアイデアを出したり、『女子学生服装帖』と題したファッションエッセイも連載するようになります。これは現代のティーン向けファッション誌でも目にする「着こなしHOW TO」的な企画のはしりと言えるのではないでしょうか。叙情的で甘やかな淳一の描く世界は、多くの女学生たちの支持を得て瞬く間にカリスマとなります。
しかし1937(昭和12年)に日中戦争がはじまると状況が一変。軍部の圧力により淳一の描く絵が「時局に合わない」と差し止められることになってしまいます。自身も召集された後に終戦を迎えますが、その時目にしたのは焼け野原になった東京の街でした。すっかり変わり果てた景色を見ながら淳一は全く新しい女性誌の創刊を決意したのです。

終戦からわずか1年目に創刊!?

終戦後の日本は貧しく、女性たちは、おしゃれはおろか生きて行くだけで精一杯の毎日を送っていました。淳一は殺伐とした暮らしを強いられている女性たちに本当の意味で美しく心豊かな世界を知って欲しいと雑誌の創刊を決意します。物資が不足する中、終戦からわずか1年後8月15日に婦人雑誌『ソレイユ(後にそれいゆ)』を創刊。続いて翌年1947(昭和22)年には少女雑誌『ひまわり』を創刊します。これは素敵な女性になるためには素敵な少女時代が大切だとの考えからだったそうです。淳一の提案する「おしゃれ」は、はきらびやかな洋服を纏うことではなく、例え“つぎ”の当たった服でも洗濯をしてサッパリと整える、自作の付襟で1着の服を何通りにもアレンジする方法など、モノのない時代でもできる工夫。また、部屋のしつらえ、言葉遣い、立ち居振る舞いなど、内面を磨くこの大切さも解いています。情報が溢れている今と違い、当時の少女にとって淳一の雑誌は最新の情報が凝縮されたバイブルでした。手元に届いた雑誌を心躍るような気持ちで開くドキドキする一瞬は特別な時間だったのではないでしょうか。

今と同じ! 読者モデルからスターへの道『ジュニアそれいゆ』

1952(昭和27)年、『それいゆ』の臨時増刊として『ジュニア号』を発行したところ、男女を問わず若い世代から大きな反響を得て1954(昭和29)年に『ジュニアそれいゆ』を発行。毎年読者の中から“ひまわりの花にも似て明るく美しく、知性あふれる十代の代表”として「ミスター&ミス・ジュニアそれいゆ」を選出し、当時のスターへの登竜門となっていたそうです。現在のカリスマ読者モデルがタレント、俳優になっていくスタイルはこの頃に生まれたものだったのですね。現代の情報誌の基礎を作り上げたのも淳一だったのではないでしょうか。“十代の人の美しい心と暮らしを育てる”のキャッチフレーズでファッション、ヘアメイク、カルチャー、インテリア、ハンドメイド、エンターテイメントなど若い女性のライフスタイルにまつわるあらゆる要素を発信しました。

昭和10年代にオリジナルグッズのショップや通販も開始していた

時代は少し遡って1940(昭和15)年に麹町にオープンした「ヒマワリ」は淳一のオリジナルグッズを扱うショップでした。人気叙情作家の商品は紙製品しかなかった時代に、絵ハガキ、カード、手帳、洋服、帽子、ブローチなどが並べられたお店には、グッズを求める多くの少女が行列を作りました。人気ブランドのアイテムや限定グッズを入手するため並ぶのは今も昔も同じだったんですね。また、地方に住むファンのためにと通信販売も開始。現代ではあたりまえになった洋服や雑貨の通販ですが当時からあったなんて驚きです。SNSで定番になった購入した商品の箱を開ける“開封の儀”を当時の少女たちも行っていたのかな?と思うと何だか不思議な気がしてきます。
淳一の描いた挿絵や表紙、デザイン画は今見返してみてもどれもおしゃれで、現代のトレンドにも通じるものがたくさん。今や日本のみならず世界に通じる「カワイイ(Kawaii)」文化の祖は中原淳一が作り上げた世界なのではないでしょうか。おしゃれ=楽しいマインドは昭和女子たちからから脈々と受け継がれています。カワイイもの大好き、カワイイは正義。今日も日本のどこかで新たなカワイイものが世界に向けて発信されています。

復刻版ワンピースで淑女に変身

当時の女性たちが熱狂した淳一のイラストやファッションアイテムを今も手に入れることができます。お店の外観は戦前のお店や代々木八幡の自宅のイメージを踏襲した白い壁と赤いドア。淳一ならではのテイストである白黒ストライプも効果的に配されています。店内には淳一のデザインを忠実に再現したブラウスなどのファッションアイテムをはじめ、バッグ、ステーショナリーなどが並びます。デビューの頃からファンという女性から、最近知ったという若い世代まで幅広い年齢で賑わい、今も多くの人の心をつかんでいます。また中原淳一が当時デザインしたデザイン画をもとに忠実に再現した復刻版のワンピースをオーダーすることも可能。憧れだったワンピースを纏う夢も叶います。

中原淳一プロフィール


中原淳一(1913〜1983年)
1913年、香川県に生まれる。昭和初期、少女雑誌『少女の友』の人気画家として一世を風靡。1946年、独自の女性誌『それいゆ』を創刊、続いて『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』などを発刊し、夢を忘れがちな時代の中で女性たちに暮らしもファッションも心も「美しくあれ」と幸せに生きる道筋を示してカリスマ的な憧れの存在となった。活躍の場は雑誌にとどまらず、日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなど幅広い分野で時代をリードし、先駆的な存在となる。そのセンスとメッセージは日本の女性文化の礎として現代を生きる人々の心を捉え、新たな人気を呼んでいる。妻は、宝塚歌劇団の草創期を担った男役トップスターで、戦後映画テレビで活躍した葦原邦子。

ショップ それいゆ
中原淳一オフィシャルサイト

書いた人

せとうちに暮らすカエル好きライター。大雨の中、取材先に向かう山道で迷いイノシシに遭遇した経験あり。京都国立博物館トラりんの強火おたく。ジャニヲタ。@yukkisetouchi