熊倉功夫先生にうかがいました。「なぜ利休の言葉は、今に響くのか」
千利休が成した茶の湯で、最も大切なことは、生活や文化全体を貫く“美”の基準を提案したということです。
それが、「わび」。
わびは、単なる美意識、概念ではなく、その人の生き方やものの見方を含み、人生に対する態度と深くかかわっていると思っています。
たとえば「間(ま)」について。現代人の悩みの行き着く先は、この「間」の取り方にあるような気がします。
間には、空間としての間、タイミングの間、“位(くらい)”(上司と部下、男と女といった関係性、距離感)の間がありますが、利休はそんな「間」を非常に大切にしました。
道具と道具の間、茶室の間、道具と人の間、人と人との間…。
つかず離れず、粋な「間」を最も上手に取り合わせ、デザインしたのが利休でした。
その思想は単に茶人に向けられたものではなく、今を生きる日本人にも十分、応用可能です。
利休の茶の湯に貫かれるもてなしの心や美のあり方、生き方は、時代を超えて、私たちに気づきや発見をもたらしてくれるのです。
熊倉功夫 くまくらいさお 1943年生まれ。文学博士。茶道史、寛永文化、食文化や民芸など幅広く研究。筑波大学教授、国立民族学博物館教授、林原美術館館長などを歴任し、現在MIHO MUSEUM館長。『茶の湯の歴史』『山上宗二記』『現代語訳 南方録』『日本人のこころの言葉 千利休』など著書多数。
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Q.「仕事も家事も完璧主義。自分も周囲も疲れます」
A.「やり尽くさずに仕残すこと」(利休)
「易、堺今市の屋敷にて、路地に落葉これあり、客迎えに出でられ候時(そうろうとき)、しゅろほうきのさきのちびたるにて、木の葉じんじんとおしよせて迎えに出(い)でられ候」
易とは千宗易(せんそうえき)、利休の本名(法名)です。
現代語訳は、「利休は、堺今市(さかいいまいち)の屋敷で露地(ろじ)に落ち葉があったので、客を迎えに出るとき、棕櫚箒(しゅろぼうき)の先の短くなったもので木の葉をところどころへ掃き寄せながら迎えに出ていきました」。
今の茶会では、亭主が箒を持って露地を掃きながら客を迎えることはありません。ただ、わざわざこう書き残されているのは、どこか利休らしさがあったからだと思われます。
完璧に掃除をした落葉ひとつない露地よりも、自然と散り落ちた落葉が残る露地の風情が美しい。その演出が大切だということでしょうか。
また、利休の言葉に「物事は仕残(しのこ)したのはよい。すべて仕尽(しつ)くしてしまったのはよくない」というのがあります。
わざと一部をやり残しておく、つまり、余白を残しておくのです。
必要ができてその余白を埋めることもあるでしょうし、余白のまま残っていてもそれはそれでよい。
本当の完成形などわからないし、その完成の形もタイミングも未来へ託す、という考え方です。
完璧を目ざさず、あえて「仕残す」。これ、とても素敵な考え方だと思います。

Q.「井戸端会議が苦手です。ちょうどいい話題ってありますか?」
A.「風流な話をしなさい」(利休)
「公事(くじ)の儀、世間の雑談(ぞうだん)、ことごとく無用なり。夢庵狂歌にいう。我が仏、隣の宝、聟舅(むこしゅうと)、天下の軍(いくさ)、人の善悪(よしあし)」
この言葉は、茶会の中で話題にしてはいけないことを挙げたものです。
「裁判のこと、世間話、ことごとくしてはいけません。連歌(れんが)の宗匠(そうしょう)・夢庵(むあん)の狂歌でも、自分の信仰、人の財産、家族の愚痴、政治、ゴシップは禁じています」とあります。
商業都市・堺に暮らしていた利休の茶会には商人が集い、そうなると実際、茶室の中の話題は訴訟ごとや商売、人の財産の話に。宗教や政治の話になると互いに譲らず争いになり、人が集えば愚痴や悪口、世間話に花が咲く…。
茶会は、いわば俗世を超越した世界です。だからこそ、利休は人々を諫(いさ)めたのでしょう。
これは、今の時代でも大いに気をつけたいところです。
では、何を話せばいいのか。
茶の湯に関わる話(数寄雑談〈すきぞうだん〉)をしなさい、と利休は言います。
昔の茶人のこと、道具のこと、茶室や庭、古今の美術、文学について、押し付けがましくなく、興味と思いやりをもってゆるゆると語り合う。これこそ理想の雑談です。
現代なら、好きな本や映画、音楽やアニメ、スポーツ、推しのアイドルの話でもいいでしょう。
ただし、相当の教養がないと話は続きません。風流な雑談のためにも、日ごろから教養を積みましょう。

Q.「初対面の人と過ごすのが苦手です」
A.「自然に相手の心にかなうのがよい」(利休)
「いかに互いの心にかなうがよし。しかれども、かないたがるは悪(あ)しし」
初対面の人と数時間過ごすことになった場合、さぁどうしたものかと悩む人も多いでしょう。
どのように新しい人間関係を築いたらよいのか。これは、その質問の答えといっていいかもしれません。
「いかにもお互いの心にかなうのがよいこと。だからといって、かなうように迎合するのはよくない」と利休は言います。
理想的なのは、数時間過ぎ、気づいたら相手の人柄もわかって、気兼ねなく話ができるようになっていること。
もちろん、互いの心遣いやリスペクトがなければ、自然にわかりあえることは稀(まれ)です。
ただ、人は得てして、そうなりたいがために相手に媚(こ)びたり、無理に合わせたり、相手によく思われたいからと機嫌をとったりしがちです。
そんなふうに「かないたがる」のは違う、と説いています。
自然発生的な状態はいいけれど、作為的なのはよくないという見方は、日本人の自然観にも通じるものがあります。
また、「間」を大切にするのも日本の文化。
つかず離れず、正面と正面がぶつかるのをちょっと避ける。そんな美学は、人間関係にも生きてくると思いますが、どうでしょう?

Q.「見栄っ張りな自分がイヤになります」
A.「似合わないことはしないもの」(利休)
「侘びては、有り合わせたりとも、にげなき物は出ださぬがよきなり」
ある貧乏茶人を利休が突然訪ねたときのこと。
夜遅く到着すると、いかにも侘(わ)びた佇まいの住居。利休はうれしくなりました。
案内された茶室の窓から覗(のぞ)くと、まだ暗い庭に行燈(あんどん)を持ち出し亭主が柚子(ゆず)を採っている。
「さては柚子を料理のひとつにするのだろう」と侘びのもてなしに感心していると、案の定、柚子味噌に仕立ててきました。
ところが酒一献が済んだところで、亭主が「到来(とうらい)ものがありまして」と、ふっくらとしたかまぼこを持ち出してきました。
とたんに利休の表情が一変。かまぼこ(当時は高級食材)が貧乏茶人の元へ来るはずはない。
さては事前に利休の来訪を知らせた者がいて、趣向を考え、しっかりと準備をして待っていたに違いない。
思いがけぬ様子だったのも全部演技だったのか…と機嫌を悪くした利休は、用事があるからと帰ってしまいました。
何も名物を持たない茶人が、侘びという境地をどう見せてくれるのか。それを楽しみにしていた利休はがっかりしたのでしょう。
現代語訳は「貧乏な茶人は、たまたま立派なものがあっても、似合わぬものは出さないほうがいい」。
見栄っ張りは損をしがち。分相応に生きるのがラクかもしれませんね。

※参考文献/『日本人のこころの言葉 千利休』熊倉功夫(創元社)

