京都の北に佇む私設図書室「鈍考」
伊藤仁美(以下、伊藤) 実は、今回の対談は幅さんに対する私の一方的な情熱から始まったんです(笑)。私が幅さんの存在を知ったのは、早稲田大学にある村上春樹ライブラリーに行ったことがきっかけでした。その空間の壮大さに感銘を受け、そこから幅さんのお仕事や活動について勝手に調べ始めました。
そのような折、幅さんが京都に、完全予約制の私設図書室と喫茶室を開設されたと知り、すごく気になって。自分で予約して完全なプライベートでお伺いしたんです。

1階には畳の間があり、3000冊が並ぶ本棚と手廻し焙煎のコーヒーが楽しめる喫茶スペースがある。1枠90分の予約制。週4日営業。1枠最大6名、1日3枠。施設使用料とコーヒー1杯で1人2,200円(税込)。HP:donkou.jp/
幅允孝(以下、幅) ありがとうございます。確かに、「京都で完全予約制の図書室兼喫茶室って何だ?」って思うでしょう(笑)
伊藤 実際に訪れると、すごくゆっくりした時間の流れの中で、奥様がその空間にマッチした佇まいでコーヒーを注いでくださいました。
それで帰る間際、ダメ元で「幅さんはいらっしゃいますか?」と尋ねてみたんです。すると、ちょうど戻ってこられるとのことで、運良く直接ご挨拶させていただくことができました。

幅 そのとき連絡先を交換し、後日、お蕎麦屋さんで食事をしましたね。その際、互いに同い年であることが分かって盛り上がって。
実は私のほうも伊藤さんにはご縁があって、昨年末から今年始めにかけてご生家である京都・両足院で「ポール・ケアホルム展」があり、その図録を作るお手伝いをさせていただいたんです。それ以前にも、アートのプロジェクトで両足院に行かせていただいていたので、勝手に親近感を覚えていました。

伊藤さんが鈍考にお越しになった日、妻から伊藤さんが静かに本を読んで過ごしてくださったと後で聞いてうれしく思いました。
読む力が失われていく
幅 東京にいると、どうしても日々がせわしなく、時間が細切れに流れてしまいます。本が好きでこの仕事を始めたのに、つい走り読みや斜め読みが増えて、特に新型コロナウイルスの感染拡大以降は要点をかいつまんでいくようなプラクティカルな読み方が習慣化してしまいました。
私の好きな小説家に、コロンビア人のガブリエル・ガルシア=マルケスがいて、『コレラの時代の愛』という長編恋愛小説があります。コロナ禍でもう一回読もうと思ったら、彼のあの大きな流れにたゆたうような物語がなかなか進まない。小説に没頭する力というか、自分の「読む筋肉」が衰えていると感じたんです。
「これはまずい」と思い、ゆっくり読める場所を作ろうと、東京駅や品川駅から2時間圏内で土地を探していたのですが、京都に友人も多くて。いろいろなご縁が重なってこの場所に私設図書室と喫茶室をつくることになりました。
設計は、建築家・堀部安嗣さんにお願いしました。けれど、細かな注文は一切せず、3つのこと——「本を3000冊並べること」「喫茶店をすること」「時間の流れの遅い場所」とだけお伝えして、あとは完全にお任せしたんです。構想を見て驚いたのですが、畳の空間がすごく良くて。伝統的な感覚がありながら、しかもユニバーサルな感じで、理にかなった設計になっていました。
伊藤 たしかに都会にいると、読書をする時間や場所が限定されることが多いですよね。しかし、この図書室喫茶では、どんな読み方をしても、どこに座ってもよくて、非常に読書の自由度が高い空間だと感じました。

ページをめくる音と豊かな時間
幅 私は本は自発的な道具だと思っていて。「読まないと進まない」ってすごくないですか。読むのもそうだし、止まって考えたりしながら、自分でコンテンツに接している時間をコントロールできて、あくまで人間が主体であるという感じを味わってもらう場を作りたかったので、読書のスイッチを入れられる装置として図書館兼喫茶を始めました。

伊藤 ここで本を読むと、普段はあまり使わないような脳と心の使い方が求められる気がするんです。自分の内なるクリエイティビティが刺激される場所、という感じでしょうか。
幅 そう言っていただけるとうれしいです。人って、「好きにしていいですよ」と言われると、逆に戸惑うことがあって、お客様の中にも最初は戸惑う方もいらっしゃいました。でも、ここでは見知らぬ人同士が同じ場所と時間を共有し、それぞれが真剣に本を読んでいる姿を見ると、自然と触発されるものがあるんです。
伊藤 本当にそうですね。私、誰かが本のページをめくるときの、あの紙と紙がこすれる音を久しぶりに聞いた気がしました。そこから、自分がページをめくるときの指先の感覚や音までも新鮮に感じられる気がして。言ってしまえば本を読んでいるだけなんですけど、とても「豊かな」時間を過ごせた気がしたんです。

幅 本というのは、書き手と読み手が1対1で向かい合い、精神を受け渡すものだと僕は思います。そうしたことを同じ場所の向こう側とこっち側でやっていると、真剣に何かを探究しようとしている人を感じ合うことができます。自分はそれがやりたくて、本に関わる仕事や図書館をやっているのかもしれないですね。
伊藤 そういう空間って素晴らしいなと思います。思えば、日本の茶室も決して刀を持って入ることができなかったように、身分も立場も関係ないことを前提とする空間ですよね。図書館は茶室ではないですが、立場などを横に置いて、本を書いた方と自分との美意識を共有し、また同じような本を読んでいる人とも美意識を共有し合う、言葉にならないコミュニケーションが行われている場所なのかもしれませんね。
【中編に続きます】

(Text by Tomoro Ando/安藤智郎)
(Photos by Nakamura Kazufumi/中村和史)
Profile 伊藤仁美
着物家
京都の禅寺である両足院に生まれ、日本古来の美しさに囲まれて育つ。長年肌で感じてきた稀有な美を、着物を通して未来へ繋ぐため20年に渡り各界の著名人への指導やメディア連載、広告撮影などに携わる。
オリジナルブランド「ensowabi」を展開しながら主宰する「纏う会」では、感性をひらく唯一無二の着付けの世界を展開。その源流はうまれ育った禅寺の教えにある。企業研修や講演、国内外のブランドとのコラボレーションも多数、着物の新たな可能性を追求し続けている。
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和を装い、日々を纏う。Profile 幅允孝
有限会社BACH(バッハ)代表取締役/ブックディレクター
1976年、愛知県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、青山ブックセンター六本木店などを経て2005年に有限会社BACH(バッハ)を設立。 人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、学校、ホテル、オフィスなどさまざまな場所でライブラリーの制作をしている。安藤忠雄氏の建築による「こども本の森中之島」ではクリエイティブ・ディレクションを担当。「ミライエ長岡 互尊文庫」や「早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)」での選書・配架、ロンドン・サンパウロ・ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなどを手がけた。京都「鈍考/喫茶 芳」主宰。

