着こなすということ
長い間、私は「自分探し」を続けてきました。20代、30代とずっと、自分が何者なのかを問い続けてきたように思います。そんな私が40歳を目前にして決断したのは、洋服をすべて手放し、着物だけを持って東京へ出ることでした。
東京で着物を着て暮らすようになると、不思議と自分のやりたいことが見えてきて、ようやく自分の道を歩むことができるようになりました。
なぜ私は長いあいだ自信を持てなかったのか。どうして着物を着ることで自分の道を歩けるようになったのか。今、振り返ると、その答えは「自分に似合うものに出会えた」ことにあるように思います。
誰かの真似ではなく、自分らしさを追求することで心が満たされるもの。着こなすことができるもの。
着物は、自信を得るきっかけを与えてくれた存在でもありました。
「着こなす」とは、心を熟すこと
「着熟す(きこなす)」という言葉は、「着る」に「熟す」という言葉が伴っています。
つまり、ただ着るだけでなく、心までが満ちた状態を「着熟している」と呼ぶのではないでしょうか。
着物で言えば、着方は「着熟し」の中の大切な要素です。
その中でもポイントは大きく二つあります。ひとつは、自分に似合う襟元を見つけること。もうひとつは、自分らしい帯の位置を見つけることです。
襟の角度や半衿の出し方ひとつで印象は大きく変わります。直線的にピシッと出すのか、曲線を描くように柔らかく見せるのか。同じ白い襟でも、そこに現れる表情は人それぞれです。
帯の高さもまた、その人らしさを決定づけます。高く結ぶか、低く落とすか。直線的に結ぶのか、曲線を描くのか。
そうした選択の積み重ねが「自分らしい着こなし」をつくっていくのだと思います。

心地よさという「自分軸」
二つ目に大切なのは、コーディネートでしょう。
色、素材、柄——その組み合わせには無限の可能性があります。
でも、そこで基準にすべきは「流行」ではなく、「自分の心地よさ」だと思います。
世の中で、あるいは周囲で「これがいい」とされる組み合わせを自分の「正解」にするのではなく、一種の「野生の感覚」とでもいいますか、「自分が心地いい」と感じられるものを選ぶということ。その積み重ねが、自分だけのスタイルを育てていくのではないでしょうか。
「着熟す」というのは、着付けやコーディネートの完成だけでなく、心が満ちた状態に至ってはじめて言えることだと思います。
制限の中にある自由
私が着物を通して「着熟す」という感覚に近づけたのは、新しいものを次々と取り入れることが苦手な性格が関係しているかもしれません。
実は恥ずかしながら最新のスマートフォンやSNSなど、新しいものを使いこなすのは得意ではありません。
同じことを繰り返し、工夫を重ねて磨いていく――そんな”古風”とも言えるやり方が、私には合っているのです。
着物には、洋服のように多様なデザインがあるわけではありません。直線裁断で八つのパーツから成るという、決まった形の中で工夫を重ねる世界です。一見「制限」に見えるその中でこそ、自分らしさを見出すことができると私は思います。
考えてみれば、「奢侈禁止令」の中を生き抜いた江戸時代の人々も華美な服装や贅沢を禁じられた中で自分なりの「美」を競い合いました。茶色や鼠色といった地味な色の中に、青みや赤みをほんのり含ませ100色以上の色が生まれたとされる「四十八茶百鼠」。近づいて初めて見える細やかな文様に、美を宿らせる「江戸小紋」。
そんな制約の中から生まれた「粋」の感性こそ、日本人の美意識の根幹だと思います。
着物が教えてくれたこと
着物の形は一つと決まっています。しかし、その制限の中で、いかに自分の心地よさを追求するか。そのプロセスが、私にとって「自分自身を満たす」ことにつながりました。
着物を着こなすことは、単に美しく装うことではなく、心を整え、成熟させていくことなのだと思います。
限られた形の中に自由を見いだし、制限の中でこそ光る自分らしさを磨いていく――。
それが、私にとっての「着熟す」ということです。


