前編はこちらから:現代医療と伝統のあわい。「薬としての言葉」とは?
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「決まったかたち」が心の支えになる
伊藤仁美(以下、伊藤) 稲葉先生は、日々の生活においてルーティン(日課)はありますか?
稲葉俊郎(以下、稲葉) お風呂に入る時間を大切にすることは毎日していますね。できれば温泉がいいですけれど。あと、文章を書くこともルーティンにしています。日記というほど縛っているわけではなくて、気づいたことなど必ず何かを書くようにしています。
伊藤 そうなんですね。ルーティンって生活を安定させるというか、小さなことでも自分の軸になるという部分があるように思うんです。私の場合は、何か心が乱れたように感じたときは着物をたたむようにしているんです。着物って、たたみ方が決まっていて、どんなに心が乱れていても順序通りさえ折っていけば、いつでも着物は美しくたたむことができます。「決まったかたち」があるからこそ、その中で悩みから少し離れることができますし、それが救いになるなと。
先生のマインド風呂ネスの話を伺って、着物のたたむという動作もマインドフルネスだなと思いました。

稲葉 神道や仏教においては、修行の一環として掃除を大切にしますよね。それは掃除という行為の中で混沌としたものが整っていくからなのではと思います。お風呂に入ったり、掃除をしたり、服をきれいにたたんでみたりすることで心が落ち着くのであれば、それがその人にとっての一番の「薬」になっているとも言えます。
断ち切って解き放つことが大事
伊藤 精神的な部分についても、自分に一番効く薬を自分の中に見つけることができるということですね。
稲葉 その通りです。私は患者さんと対話するとき、どういうときに一番落ち着くかをよく尋ねます。些細なことでもいいから、それを自分の言葉で発してもらうことで、その人の中から解決策を見つかると思う。誰しもそうした「自己治療」の方法を持っているのですが、それに気づかないことも多い。逆に、無意識の癖が自分の毒になってしまっていることもある。そうしたことを断ち切らせるのが医療者の役割だと思っています。

伊藤 私は長く自分探しをしていたんです。結局全然見つからず、「自分にしかできないことってなんだろう」と将来に思い悩む中で、着物だけで生きていけば、不便なこともあるだろうけど何かが見えてくるように思い、当時の洋服を全部捨てて東京に出たんです。それまでの自分を断ち切ってみたら少し人生が開ける気がして。
稲葉 やっぱり、断ち切って解き放つことが大事ですよね。そのとき見えたものや、転換点に乗っかっていけるか。私の場合は、東日本大震災の被災地にボランティアに行ったことと、医療従事者としてコロナ禍の中にいたことがすごく大きな転換点になったと感じます。
居心地が悪くなったら離れてみる
伊藤 先生は「愛とは距離だ」ということもたびたびお話しになっていますよね。
稲葉 そうですね。そもそも、誰にだって好きな人もいれば嫌いな人もいるじゃないですか。でも、たとえば嫌いということについて「なぜ嫌いなのだろう?」とあらためて考えてみたとき、「この距離まで離れれば『嫌いではない』」という距離があるように思うんです。「好きと言えるところまで離れれば、全員を好きになれる」のではないかということに気づきました。逆に言えば、「嫌い」は近すぎる距離によって生じているんです。
伊藤 なるほど。
稲葉 そう考えれば、みんなを好きになるには好きと言えるところまで距離を取ればいいだけであって、結局は距離の問題なんだということに気づきました。そう考えると、私は「嫌いな人」というのが存在しなくなりました。
伊藤 たしかに近すぎることで嫌な部分が見えることはありますよね。そこで無理に自分の気持ちをごまかしたりするのではなく、距離を変えることが大切だと。

稲葉 たとえば家族の問題で悩む人がいます。家族の悩みは距離が近すぎることが根本なんですね。家族との距離を近づけたり離したりして微調整することが大事なんです。私は熊本出身ですが、地元を離れ東京に行ったことで余計に熊本が好きになりました。地元に長く居続けたら嫌いになっていたのかもしれません。家族でも土地でも距離次第で好きにも嫌いにもなるんです。
もし居心地が悪いと感じたら試しに距離をとってみてほしいです。他の地域に移動したり、海外に移動したり。距離感で好き嫌いはいかようにも変化します。もちろん、ずっと地元で家族と一緒に過ごして円満の人はたくさんおられますし、それは距離感が程よいということです。人には、何に対しても「自分にとって一番フィットする距離」や居場所があるということです。
「こうあらねば」という共同幻想
伊藤 私は京都の禅寺で生まれ育ちましたが、若いころはむしろその環境に反発して、海外の文化に憧れた時期がありました。いざ実家を出て東京まで離れてみると、贅沢な空間に生まれ、美しいものをたくさん見て育ったんだと思い知りました。
稲葉 そういう意味においても、私は「愛の本質は距離」という言葉を使っています。私自身、コロナ禍をきっかけに医療業界から距離を取りました。そもそも自分の体が弱く、人に助けられた恩返しをしたいと思って医者になったので、誰かのためになりたいという思いはあります。
だけど、嫌いになってまで医者をやり続ける必要はなくて、もう一度好きになれる場所まで離れてみようと。その中で、予防医療は教育の問題だと思っていたので、これからは大学の教育機関で、私の思う「医療」を考えていこうと思っています。

伊藤 医療で救われたから、医療で人のためになりたいという思いは今も昔も変わらない。
稲葉 そうです。見え方が違うだけで、やっていることは同じです。多くの人は共同幻想の中で「こうあらねばならない」と思っていますが、私は自分がやりたいことをできる場所と空間でつくればいいと思っています。そんな感じで、今、飛び出ちゃったというところです。
人は体験によって支えられている
伊藤 今後、新たに挑戦したいことをお伺いできますか。
稲葉 実は、古書を中心とした居場所づくりを始めようかなと。もともと本が好きでたくさん持っているのですが、本文に線を引いたり書き込んだりするタイプなので、古本屋には売れません。私自身が学生時代に本や音楽に救われてきたので、若い人や今を生きる人のために小さな本のスペースをつくりたいと思いつきました。自分が子供のころに社会的つながりに満たされて幸せだった空間というのは、古本屋やレコード屋でした。誰にも邪魔されず、時空を超えて、千利休とも松尾芭蕉とも1対1でつながれるのが読書ですから。
伊藤 私もレコードの音がとても好きなんです。両親が部屋でレコードを聴きながら話す光景が記憶に残っていて、レコードを聴くと過去の景色を思い出させてくれるように思います。
稲葉 私は最近はカセットテープを収集していて、アナログの音を楽しんでいます。やはり人は「体験」によって支えられていると思います。いい体験や深い体験をするために、本やレコードにも出合ってほしいですね。周りに理解者が誰一人いなくても、「この人は理解してくれる」という人が一人いてくれれば、なんとかなるじゃないですか。実はピカソや千利休も「社会に馴染めない人」だったのかもしれない。そうした才能ある人たちが孤立せずに自分の得意を伸ばしていけるような空間をつくりたいと思っているんです。
伊藤 私は迷ったとき、昔の人が「当たり前」にしていたことに戻りたいと思っていて、それに気づくために着物を纏っているところがあります。そうした心を伝えたいというのが私のすべてです。稲葉先生は一度戻って、今にどう伝えるかを体現されていると感じました。
稲葉 いま多くの人が「他人にどう見られるか」や社会的インパクトといったことばかりを考えますが、それよりも「自分のやりたいことに忠実である」ことのほうが大事だと思うんです。私自身、古書店を巡る中で、2、3坪で営んでいる店の温かさにふれたとき、巨大な商業施設もいいけれど、こじんまりとしたところで宇宙をつくっていきたいなと感じたんです。言葉に出した以上、実現に向けて取り組んでいきたいですね。
(Text by Tomoro Ando/安藤智郎)
(Photos by Nakamura Kazufumi/中村和史)

Profile 伊藤仁美
着物家
京都の禅寺である両足院に生まれ、日本古来の美しさに囲まれて育つ。長年肌で感じてきた稀有な美を、着物を通して未来へ繋ぐため20年に渡り各界の著名人への指導やメディア連載、広告撮影などに携わる。
オリジナルブランド「ensowabi」を展開しながら主宰する「纏う会」では、感性をひらく唯一無二の着付けの世界を展開。その源流はうまれ育った禅寺の教えにある。企業研修や講演、国内外のブランドとのコラボレーションも多数、着物の新たな可能性を追求し続けている。
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和を装い、日々を纏う。Profile 稲葉俊郎
医学博士/作家
1979年、熊本県生まれ。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、軽井沢病院院長に就任。2024年から慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)特任教授。医療の多様性と調和を目指し、西洋医学に加え伝統医療、補完代替医療、民間医療を広く修めるほか、芸術への造詣も深く、『山形ビエンナーレ2020、2022、2024』では芸術監督を務めた。著書に『ことばのくすりーー感性を磨き、不安を和らげる33篇』(大和書房)、『山のメディスンーー弱さをゆるし、生きる力をつむぐ』(ライフサイエンス出版)、『肯定からあなたの物語は始まるーー視点が変わるヒント』(講談社)など多数。
星のや軽井沢 INFO

浅間山麓の自然に囲まれた「谷の集落に滞在する」がコンセプトの「星のや軽井沢」。趣の異なる2種類の源泉かけ流し温泉や、心身を整えリラクゼーションへと導くスパ——。信州の滋味を味わう食事や「エコツーリズム」を柱としたアクティビティなどさまざまな体験を通して休息の時間を提供しています。
和洋2つのダイニングを巡る2日間の食体験「日本料理 嘉助」と「ブレストンコート ユカワタン」で鹿肉や穴熊などのジビエを異なる仕立てで堪能する「冬山の饗宴」 初開催

各施設が独創的なテーマで圧倒的非日常を提供する「星のや」 。その始まりの地である長野県の「星のや軽井沢」では、2025年12月3日から2026年2月28日の期間、和洋2つのダイニングを巡る2日間の食体験。「日本料理 嘉助」と「ブレストンコート ユカワタン」で鹿肉や穴熊などのジビエを、様々な仕立てで堪能する、冬だけの美食体験「冬山の饗宴」 初開催します。
近年、農林業被害対策として鹿をはじめとする動物たちの駆除が行われることが増えています。その命を星のや軽井沢では、「山の恵み」として、和洋異なるダイニングで楽しんで欲しいという想いから、滞在中に日本料理 嘉助とブレストンコート ユカワタンの2つのダイニングを巡り、ジビエ料理を味わい尽くす贅沢な食体験を提供します。
所在地:〒389-0194 長野県軽井沢町星野
電話:050-3134-8091(星のや総合予約)
アクセス:JR 軽井沢駅より車で約 15 分、碓氷軽井沢 IC より車で約 40 分
URL:https://hoshinoresorts.com/ja/hotels/hoshinoyakaruizawa/

