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2019.11.17

どうして日本人は緑茶が好きなの?日本茶の歴史を辿る

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日本にお茶が伝わったのは平安時代。空海や最澄などの遣唐僧(けんとうそう)がもたらしたといわれています。当時のお茶は団茶(餅茶)。茶葉を団子や餅のように固め、それを粉末にして湯の中に入れ、煎(に)て飲むというものでした。そのころの唐は文明先進国。俗世と離れて孤高に生きる文人たちが、詩書画や管弦を伴う風雅な茶を楽しんでいました。

ここまで広く飲まれるようになった背景は…

dma-WR-023小川流煎茶の棚略盆玉露手前(たなりゃくぼんぎょくろてまえ)の道具組。京都・杉本家での茶会で。撮影 畠山崇 写真提供 小川後楽堂

「詩人、盧仝(ろどう)の『茶歌』の中に、その茶の精神を象徴的に表現している有名なくだりがあります。『ただ両脇に微(かす)かに清風が吹き抜けていくのを感じるばかりである……』。唐の文人が愛した茶は、さわやかな清風の茶。これが煎茶の理想であり、近世の日本の煎茶もこの精神を継承して誕生するのです」と小川後楽(おがわこうらく)さん。清風の茶は、嵯峨朝期に喜んで迎えられたものの、次第に関心は薄れ、鎌倉時代初期にはすっかりすたれていました。それが再び注目されるのは、栄西(ようさい)が宋から新たに抹茶を持ち帰ってからのこと。わが国最初の茶書『喫茶養生記』を書いた栄西は、時の将軍、源実朝に二日酔いの薬として抹茶を献上、実朝の大いに気に入るところとなり、配下の武将にすすめたことで、禅僧や武士の間にも茶が広く普及しました。栄西が伝えた抹茶は、薄らいでいた喫茶への関心を呼び覚まし、その後の茶の湯の発展へとつながっていきます。
DMA-隠元隆像江戸初期、明より来日し、煎茶を伝えた隠元禅師。福建省出身。京都宇治に萬福寺(まんぷくじ)開創。寺に愛用の紫泥大茶かん(しでいだいちゃかん)が残されている。喜多元規(きたげんき)筆『隠元隆琦(いんげんりゅうき)画像』京都萬福寺蔵

では現在、私たちが飲んでいる煎茶はいつ、だれが日本に伝えたのでしょう。「江戸時代初期、黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖、隠元(いんげん)が明から煎茶をもたらしたのです。明では煎茶の時代になってすでに260年が経っていました。足利義満のころ、日本ではこれから抹茶の時代というときに、明はすでに煎茶の時代に入っていたわけです。この間、日本に煎茶が全然入ってこなかったかというと、そうでもない。五山(ござん)の僧の間で、ひそかに飲まれていた痕跡があるのです。文学の才をもつ五山の禅僧たちが唐代の文雅な茶の世界を求めても不思議ではありません。ただ、時代は茶の湯全盛。天下人である信長や秀吉が茶の湯を楽しんでいるときに、表だって煎茶をするわけにはいかなかったのでしょう」
 
ともあれ、煎茶が公然と入ってくるのが隠元の時代。隠元は後水尾(ごみずのお)天皇の信任が厚く、京都の貴族を中心とした文芸サロンで活躍。煎茶は新しい文化として受け入れられていきます。注目したいのは、隠元の侍僧(じそう)、月潭道澄(げったんどうちょう)が「煎茶歌」の中で、名器を並べる茶の湯ではなく、風雅清貧の茶として煎茶を主張していること。煎茶は茶の湯と対峙する形で存在していたのです。
 

江戸時代半ばには、京都で煎茶を売り歩く風変わりな黄檗(おうばく)僧が登場します。これが、生活に足るだけのお金を得ればよいとして、ただ飲みも勝手という洒脱な売り方で人目を引いた売茶翁(ばいさおう)です。後に僧籍を離れ、高遊外(こうゆうがい)と称して売り歩きますが、その茶は京の文人たちに歓迎され、さまざまな交流が生まれました。画家の伊藤若冲もそのひとり。およそ人物画を描かない若冲が、売茶翁の画だけは数枚も描いています。文人と交遊する中で、売茶翁は次第に古代の喫茶精神への思いを深くしていきます。DMA-GL20501_159煎茶中興の祖、売茶翁。肥前の龍津寺に従事後、京都に茶店「通仙亭(つうぜんてい)」を設け、売茶稼業を始める。若冲とも煎茶を通して交流した。伊藤若冲筆 『売茶翁像』 個人蔵

「京都の中でも蓮華王院(三十三間堂)や糺の森(下鴨神社)、吉田山など、かつての王朝文化とつながりの深いところばかりを選んでいるんですね。売茶翁のねらいは、珍しい売り方などではなく、王朝に連なる風雅な茶の世界への回帰だったろうと思います」
 

売茶翁以降も文人の煎茶熱は高まる一方でした。江戸後期には青木木米(あおきもくべい)、田能村竹田(たのむらちくでん)、頼山陽(らいさんよう)など、熱心な煎茶愛好家が育ちます。そんな文人煎茶を経て、煎茶は体系化された煎茶道を形成する方向へ。公家社会から小川可進(かしん)が登場し、有職(ゆうそく)など公家の礼法や器物を取り入れた新しい煎茶法をつくり上げます。幕末維新の変革の時代には、煎茶は元来の批判精神で勤皇派となり、茶の湯の佐幕派と対立。維新後は、支配される側だったものが、一転、新政府や経済界の実力層になり、その中にはかつての志士も多かったため、煎茶は、これまでにない発展を遂げます。
 
その後、日清戦争により中国崇拝熱が冷めると煎茶熱も冷え込みますが、一方では、維新以後静岡で大量生産されていたお茶は、生糸と並ぶ主要な輸出品になっていました。それが、輸出が苦しくなったときに、国内に多量かつ安価に出回り、庶民の生活に一気にお茶を飲む習慣が広まります。交通網が整備され、国内の遠隔地にも新鮮なお茶を運べるようになったことも大きかったでしょう。大戦後は煎茶道の人気も回復。明るく自由に楽しめる煎茶は人々の暮らしに深く根付くものとなったのです。

お話をうかがったのは――小川後楽さん(小川流煎茶六世家元)

1940年京都生まれ。立命館大学卒業。故奈良本辰也氏に師事、日本近世思想史専攻。1973年、江戸時代から続く小川流煎茶家元六世小川後楽を継承。京都造形芸術大学教授。楢林忠男のペンネームでも執筆。『しっかりわかる、煎茶入門』『茶の文化史』『煎茶への招待』など著書多数。