日本文化の
入り口マガジン
11月27日(木)
自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である(ニーチェ)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月26日(木)

自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である(ニーチェ)

読み物
Gourmet
2019.10.08

東京・梅花亭で「どら焼き」の誕生秘話発見!船との意外な関係がある歴史を紹介

この記事を書いた人

国民的菓子と呼んでも過言ではない「どら焼き」。明治時代、その原型を生んだ店として知られる和菓子店「梅花亭(ばいかてい)」を訪れると、巷でよく見かける「どら焼き」とは、似て非なる「銅鑼焼」が……。一体なぜこの形!? お店の方に、その誕生秘話を根掘り葉掘りをお伺いしてきました。

ビジネス街の一角に佇む「梅花亭」

日本橋茅場町。証券会社が立ち並ぶこの界隈に、控えめに佇む「梅花亭 本店」。こちら、日本人が愛してやまない和菓子「どら焼き」を考案したお店として知られています。

「梅花亭」本店。創業は嘉永3年(1850)。創業の地は、茅場町からは東京メトロで2駅の場所にある大伝馬町(小伝馬町駅付近)

たとえば『たべもの起源事典 日本編』(岡田哲著/筑摩書房)には「明治初期に、東京日本橋大伝馬町の梅花亭の森田清兵衛は、初めて丸形のどら焼きを創作する。銅鑼の形のあんに、薄く衣を付けて皮を焼く。1914年に東京上野黒門町のうさぎやで、編笠焼きが創作され今日のどら焼きができる。網笠焼きより皮を厚くしたのが三笠山である」との記載が。(※こちらはあくまでも岡田氏の説です)

今日、我々が見かける一般的などら焼きは、ホットケーキのような2枚の皮の間にあんこが挟まれて、中心が盛り上がっている形が定番。ですが、梅花亭の「銅鑼焼」はどこまでもぺったんこ! 
2枚の皮に餡を挟むスタイルではなく、餡が生地(タネ)に包まれている状態なのです。

梅花亭の和菓子は全て職人による手作り。ちなみに、左奥は梅花亭の「みかさやま」。奈良の若草山を想って創られたこちらは、2枚皮の間に青えんどう豆のうぐいす餡を入れている。他店では「みかさやま」と「どら焼き」とが混同されることが多いが、元々は全く異なる和菓子

これ、まさに楽器の「銅鑼(どら)」そのものです。仮に銅鑼が2枚重なってしまっていたら、荘厳な音色が響き渡るはずもなく……。その名にふさわしく、銅鑼に忠実。さすが発祥の店です!
「梅花亭のどら焼きは、餡玉をタネ(生地)の中に落としまとわせ、銅板の上でお箸を使って焼いています」と教えてくれたのは、梅花亭7代目を務める生知枝(いちえ)さんの長女・実千さん。詳しい製造方法は企業秘密だそうですが、梅花亭の職人に伝わる秘伝のやり方なのだとか。

香ばしい皮の中に粒餡がぎっしり。日本茶はもちろん、コーヒーに合わせても負けない味

どら焼きの考案者 梅花亭三代目が見た「銅鑼」とは!?

ところで、梅花亭のどら焼きを購入すると、袋の中にこんなしおりが。達筆な字で綴られていたのは、「どら焼」誕生の経緯。

どら焼/明治のはじめ当店/三代目が銅鑼の形から/生み出したどら焼が/平成十年再び世に表れ/皆様からご愛顧を賜り/誠に有難く存じております/何卒ご賞味下さいませ/嘉永三年創業/梅花亭

こちらに拠れば、梅花亭の「銅鑼焼」は「梅花亭の三代目店主が、どこかで『銅鑼(どら)』を見かけた」ことがきっかけで誕生したようです。梅花亭の創業は嘉永3年(1850)とのことですので、3代目の方が店を継がれたのは江戸末期から明治時代(1868-1912)の頃でしょう。
この時代、一体どこでどんな銅鑼を見たのか気になります……。
再び実千さんにお尋ねしてみると「3代目が見たのは、代々の言い伝えで『船についていた銅鑼らしい』と聞いております。当店は和菓子造りにしても、全て職人から職人への言い伝えでやってきているものですから、残念ながら紙に書かれた記録のような物はないものですが……」とのお返事。(ちなみに、しおりの筆字は、実千のお父様が書かれたものだそう)

「船についた銅鑼」の正体を求めて‥‥

せっかくどら焼き考案のきっかけが「船についた銅鑼」という有力情報を得たものの、なぜ船に銅鑼がついていたのか、皆目見当がつきません。気になり過ぎるので船大工技術研究家の中山幸雄さんに“船についた銅鑼”の正体について尋ねてみました。
中山さんいわく「東京近郊でこの時代走っていた銅鑼がついた船、と言ったらそれはほぼ間違いなく徳川将軍家が所有していた『江戸幕府御座船(ござぶね)』でしょう。将軍様の移動に使われていた船で、江戸時代、隅田川を何隻もの船とともに船団を組んで移動していたんですよ。その船団の列が水上で崩れないように、御座船に積んだ太鼓や銅鑼で音頭を取る。昔の船は、人力で漕いでいましたからね、その音頭に合わせて船員が漕ぐわけです。とても賑やかで豪華な船ですから、きっと店主の方も喜んで眺めていたんじゃないでしょうか」とのこと。さらに詳しくお聞きしてみると徳川家では「天地丸」「八幡丸」という御座船を明治期まで所有していたのだそう。江戸幕府御座船は、諸国大名に「この船(御座船)以上に大きな船を造ってはいけない」ということを示す意味をもち、当時の船としてはとても大型であったとか。
梅花亭創業の地、大伝馬町は江戸城、そして隅田川に近い交通の要所。船が身近にあった大伝馬町ならば、店主が幕府御座船を見たであろう事実も納得できる気がします。梅花亭に伝わる貴重なお話のおかげで、意外な発見をすることができました。

「名所江戸百景 大伝馬町こふく店」(歌川広重/国会図書館所蔵)。江戸時代、大伝馬町は呉服店が立ち並ぶ商売が盛んな賑やかな町だった

平成10年、待望の「銅鑼焼」復活!

梅花亭で大人気だった「銅鑼焼」ですが、「梅もなか」(※後ほどご紹介)など、代々新しい和菓子の開発に余念がなかった梅花亭では、販売を休止していた時期もあるそうです。
しかし数々の文献で「どら焼き」発祥の店として知られていたため、元祖「銅鑼焼」の復活を待望する声が後を絶ちませんでした。その結果、平成10年(1998)に再販を決行。製造方法を記した資料などは残されていなかったものの、少年時代から梅花亭に勤めてきたベテランの和菓子職人が当時の記憶を辿り、見事復活させることができたのだとか。

生知枝さん(左)と実千さん(右)。梅花亭の娘として生まれた生知枝さんは「子どもの頃は、銅鑼焼きのタネで銅板に亀とか動物の絵を描いてもらうのが楽しみでしたね」語ってくれた。実千さんが子どもの頃は、近所の隅田川には多くの船が浮かんでいたそう

10月開催。べったら市と恵比寿講の日は梅花亭へ!

ちなみに、梅花亭が創業した大伝馬町(現在の小伝馬町駅の界隈)といえば、毎年10月19日・20日に「べったら市と恵比寿講」が行われ、大変賑わいます。各店のべったら漬けも名物として親しまれていますが、梅花亭(小伝馬町店)がこの時期限定で販売する「喜利羊肝(きりようかん)」(=栗蒸し羊羹)や「切り山椒(きりざんしょう)」(=山椒の粉を練りこんだ求肥を短冊型に切ったもの)も、江戸時代より親しまれているそうです。

いつも時代を先取り。可憐でおいしい梅花亭の和菓子いろいろ

平べったい形が定番だったもなかを、厚みがあり一口サイズの梅型にした「梅もなか」。色ごとに、つぶし・白・黒と全て味の違う餡を使用

佛蘭西(ふらんす)饅頭(左)は、美術愛好家だった6代目・中村達三郎氏が考案とあってルックスも絶妙。嘉永6年(1853)、ペリー来航の頃に販売されたという亜墨利加(あめりか)饅頭(右)は、洋菓子に倣い、初めてパン釜で和菓子を焼いて製造したとされる梅花亭のもうひとつの名物。「栗饅頭」の祖とされている

梅花亭の銘菓いろいろ。「みかさやま」の横は「桃山」。白餡に卵の黄身を混ぜて、あんこをそのまま焼いたお菓子

東京土産に、日々のお茶のお供に…

梅花亭の社是は「お客様に快いゆとりを味わって頂くことを第一と心がけ、庶民性の中に上品さと、そして見栄をはらず、意地をはらず、欲をはらず」というもの。一つひとつが上品な趣ながら、決して肩ひじ張らない梅花亭の和菓子。東京土産にいかがでしょうか?

梅花亭 本店(霊岸島(新川))

店舗名:梅花亭 本店(霊岸島(新川))(※「門前仲町」「小伝馬町」に支店あり。)
住所:中央区新川二丁目一番四号
営業時間:月〜金:9:00〜17:00
定休日: 土・日・祝日
公式webサイト:梅花亭

書いた人

大学院まで日本文学を専攻。和歌や俳諧、江戸から昭和にかけての生活文化などが好き。神保町中のカレー屋を制覇するという課題を自らに課し、1.25倍に増量した過去をもつ。そのため茶室では、常ににじり口で身体をぶつけている。縁のあるエリアは東京と会津。メダカ飼育歴約10年。