ジュネーブ巡礼の手記でひもとく、〝最高峰〟であり続ける理由
輝かしい歴史と伝説に彩られた「パテック フィリップ」の聖地を訪れて…
文・本間恵子 ●ウォッチ&ジュエリー ジャーナリスト
メゾンの来し方を物語る シンボリックな逸品に心を揺さぶられる旅
ジュネーブの玄関口、コルナヴァン駅周辺の新市街を抜け、モンブラン橋を渡ってサン=ピエール大聖堂のある小高い丘まで歩くと、街並みは中世の面影を今も残している。「パテック フィリップ」の本店があるのは、丘の裾に延びるローヌ通り。レマン湖が目の前に広がる絶好の立地だ。
温かく迎えられ、まず案内されたのは、「ナポレオン・ルーム」と呼ばれる格式高いサロン。ナポレオン三世様式の重厚な調度品に囲まれて、コレクター垂涎のレアピースがいくつも飾られている。メゾンがここに本拠を構えたのは170年以上も前、1853年のこと。顧客となった初めての日本人は、徳川昭武。江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の弟なのだそうだ。
上階のアール・デコ様式のサロンにゆくと、窓の向こうにレマン湖が輝き、ジュネーブを象徴する大噴水も白く水煙を上げている。壁に飾られているのは「パテック フィリップ」現名誉会長のフィリップ・スターン氏が蒐集したレマン湖の風景画の数々だ。小舟を描いた一枚の絵に息を呑む。メゾンの懐中時計や腕時計にあしらわれた、画家ルイ・ボディの佳品に違いない。
世界的な時計産業の中心地であるスイスでも、ジュネーブはとりわけ時計とゆかりが深い。16世紀、フランスで激しく弾圧されたプロテスタントの人々が、迫害を逃れてジュネーブにやってきたが、その多くが新興知識人である時計や宝飾の職人だったため、この地で時計文化が花開いたのだ。ジュネーブ生まれの思想家ジャン=ジャック・ルソーの先祖もそうしたプロテスタントで、父と祖父は時計職人だったと聞く。
【パテック フィリップの聖地 1】メゾンの世界観を象徴するナポレオン三世様式の「ジュネーブ・サロン」

1834年に創業したジュネーブ屈指のメゾンが誇る、美の空間に足を踏み入れて
「パテック フィリップ」ジュネーブ本店の1階にある「ナポレオン・ルーム」。コルドヴァ革にゴールドの装飾を配した壁紙に囲まれ、フランス皇帝ナポレオン三世時代のスタイルでまとめられたインテリアが趣を漂わせる。周囲をきらびやかに照らすクリスタルのシャンデリアは、ヴェルサイユ宮殿のシャンデリア修復に関わった老舗メーカーによるもの。本店のためだけに調合された特別なフレグランスが甘く香る。どれほど多くのVIP顧客たちが、このサロンで優雅に時を過ごしたことだろう。

世界で唯一、現行コレクションが一堂に会するジュネーブ本店サロン

在りし日の時計文化に ミュージアムで思いを馳せる
サロンを辞し、トラムにのんびりと揺られて小粋なギャラリーの集まるバン地区へ。以前は工房として使用されていた20世紀初頭の瀟洒な建物を改装し、2001年に開館した「パテック フィリップ・ミュージアム」を訪ねる。スターン名誉会長と、その父アンリ・スターン氏の蒐集から始まったというこのミュージアムは、世界でも類を見ない規模の所蔵品を誇るのだ。
保管されているのは「パテック フィリップ」の歴史的な作品のみならず、16世紀以降の時計史上の重要な品々と、細密七宝画などの工芸品が2500点以上。1530年ごろにつくられた初期の携帯用時計から、七宝や天然真珠で装飾した貴婦人用の懐中時計、宝石箱のような嗅ぎたばこ入れ、オートマタと呼ばれるからくり仕掛けの時計までが並び、出るのはため息ばかり。ガリレオ・ガリレイの著作を含む8000点もの稀覯本も所蔵し、美術や歴史に興味をもつ愛好家にとっても必見の内容なのだ。
白眉は1851年、ロンドンの水晶宮で開催された万国博覧会で展示され、大英帝国のヴィクトリア女王の所有となった「パテック フィリップ」の2点のペンダントウォッチ。そのうちひとつは、伝わるところによれば、若き女王が自分の瞳と同じブルーで彩られた可憐な七宝装飾を気に入って買い上げたのだという。ヨーロッパ各国の王室からメゾンの時計が求められるようになったのは、このときからだ。
もうひとつの当時最新式のペンダントウォッチは、女王とのゆかりはもちろん、時計史においても重要な作品となっている。この時代の懐中時計は、小さな鍵が必須だった。文字盤や裏蓋に開いた穴に鍵を差し込んでゼンマイを巻き、それを駆動力とするのだ。しかし穴は美観を損ねるだけでなく、内部が湿気や埃で傷む原因となり、鍵をなくして困ることもよくあった。
ゼンマイの巻き上げと時刻合わせの機能をリュウズにもたせ、鍵を不要にしたのは「パテック フィリップ」。つまり、現代の私たちが当たり前のように使っている機能を、女王が愛した美貌のペンダントウォッチに見ることができるのだ。
【パテック フィリップの聖地 2】2000点以上の貴重な収蔵品を擁す、世界有数の時計博物館
時を忘れて夢見心地にひたりたい、百花繚乱の文化遺産
16世紀から現代に至るまでの時計や美術工芸品、文献、工具などを幅広くコレクションした「パテック フィリップ・ミュージアム」は、ジュネーブを訪れたら必ず足を運ぶべきスポット。「パテック フィリップ」の名品だけでなく、数々の歴史的なマスターピースをも包括したスケールの大きさで、時計界においても類を見ないミュージアムとなっている。アートのような時計を間近に眺めていると、数時間があっという間に経ってしまうほど。





住所:Rue des Vieux-Grenadiers 7, 1205 Geneva, Switzerland
開館時間:火~金曜14~18時、土曜10~18時
休館日:日曜、月曜、祝日
※詳しくは公式サイトの入館案内をご確認ください。
https://www.patekmuseum.com
熟練した職人たちの手仕事は、過去を未来に繋ぐ架け橋
長い時を経てなおも私たちを感嘆させるメゾンの時計。それらが生まれる場所を、最後に訪ねた。ジュネーブ郊外にある広大なマニュファクチュール「PP6」だ。白衣を着た人々が行き交うモダンな建物の内部には、最先端の大型ハイテク機器が並ぶ。ミクロン単位の誤差しか許されない現代のメカニカルウォッチは、緻密さ、精密さを極めたマイクロアートなのだ。
一方で、すべてが近代化しているのかといえば決してそうではない。ムーブメントに装飾を施すのに使われているのは昔ながらの柘植の木だし、ギヨシェ彫りには100年以上前の機械を使ったりもする。メゾンは創業以来のすべての自社製品を修理できるといい、修復専門のアトリエには古びた工具やデッドストックの部品が揃っていた。昔のものは、昔のやり方で直すのだ。
さらにここには木象嵌や七宝、彫金など、希少なハンドクラフトの職人技を継承するアトリエも存在する。木象嵌とは、色や質感の異なる木から数百もの小片を切り出してはめ込む伝統工芸。木で描く絵画ともいえる技であり、PP6はこれを継承するマニュファクチュールの代表格だ。
また七宝は、かつてジュネーブで栄えた古典的な技であり、職人たちはクロワゾネ、シャンルヴェ、ミニアチュール、グリザイユ、パイヨンヌなど、多彩な技を駆使しながら文字盤という小さなキャンバスに森羅万象を描き込む。現代の最先端技術と昔ながらの伝統が、PP6では共存していた。
私の知人が、動かなくなって久しい時計を「パテック フィリップ」の本店に持ち込んだことがある。第二次世界大戦直後、ジュネーブに住んでいた彼の父親が本店で購入したものだ。その記録はきちんと残っていて、購入した日までが正確に判明した。古い時計は修理されて再び時を刻み始め、父親の手に戻ってスイスでの思い出を懐かしくよみがえらせたという。
本当に上質な時計とは、単なる現在時刻を知るための道具ではなく、あるときは美術品であり、あるときは英知の証であり、またあるときは忘れがたい日々の記念碑でもあるのだ。「パテック フィリップ」の時計には、目に見える確かな美しさとともに、つくる人、身につける人それぞれの見えざるストーリーが密かに息づいている。
【パテック フィリップの聖地 3】「PP6」と呼ばれる、世界屈指の時計製造の拠点
人の手が生み出すあまりにも緻密な技が、時計を絵画へと変える
ジュネーブ・ローヌ通りの本店内に構えた小さな工房から、市内各所に分散した工房へ。それらを統括するためにプラン・レ・ワット地区に本社工場を建て、さらに大規模な近代的マニュファクチュール「PP6」を2020年に竣工。「パテック フィリップ」の現在形ともいえるこの場所を訪ねると、ごく小さな歯車やネジまでも自社で制作するメゾンの矜持が肌で感じられ、その特別さ、希少さへの理解が深まってゆく。





Profile
※本記事は『和樂』2026年4・5月号の転載です。
※価格表記はすべて税込価格です。

