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白洲正子の人生と、駆け抜けた時代年表!
<誕生~結婚>
1910年(明治43)0歳
◆大逆事件(幸徳事件)。社会主義者や無政府主義者が、明治天皇暗殺計画容疑で逮捕。
1月7日、父・樺山愛輔、母・常子の次女として東京都麴町区(現・千代田区)永田町に生まれる。父・愛輔は貴族院議員、実業家。アメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に学ぶ。国際文化人として多くの企業で重役を務め、文化事業にも尽力。父方の祖父・資紀は薩摩藩出身の伯爵で、海軍軍人、政治家。警視総監、海軍大臣等を歴任、武勇伝と「蛮勇演説」でならした。
1913(大正2)年 3歳
学習院女子部幼稚園に入園。「私は不機嫌な子供であった。……三歳になっても殆(ほとん)ど口を利かず、ひとりぼっちでいることを好んだ」(『白洲正子自伝』より)。
1914(大正3)年 4歳
初めて能の手ほどきをうける。
1916(大正5)年 6歳
学習院女子部初等科入学。梅若六郎(のちの二世梅若實)に入門し、能を習い始める。
1919(大正8)年 9歳
8歳ごろからこのころにかけて、人見知りで気難しい自分の性格を思い直し、つとめて他人と接するように。学習院初等科で出会った同級の松平節子(のちの秩父宮勢津子)は、終生の友となる。
1922(大正11)年 12歳
祖父、樺山資紀没(84歳)。
1923(大正12)年 13歳
◆関東大震災。9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の激震が関東南部を襲った。
1924(大正13)年 14歳
学習院女子部初等科修了。夏、能の舞台「土蜘(つちぐも)」に立つ。9月、父とアメリカへ。ニュージャージー州の全寮制女子校ハートリッジ・スクールに入学。
1927(昭和2)年 17歳
◆3月、昭和金融恐慌。預金の取り付け騒ぎが起き、いくつもの銀行や企業が休業に。
金融恐慌で、父が理事を務めていた十五銀行が休業宣言。永田町の屋敷を売却し、大磯の別邸へ移る。
1928(昭和3)年 18歳
ハートリッジ・スクール卒業。女性の最難関大学であるヴァッサー・カレッジに合格するも、金融恐慌の影響で進学を断念、帰国。同じく帰国を余儀なくされた次郎と知り合う。
1929(昭和4)年 19歳
◆ニューヨークから世界恐慌が始まる。
11月、白洲次郎と結婚。12月、母・常子死去(54歳)。
1931(昭和6)年 21歳
2月、赤坂氷川町の家で長男・春正出産。産褥熱で生死の間をさまよう。その後、次郎の仕事の関係で、数年間、毎年ヨーロッパに出かける。
1935(昭和10)年 25歳
軽井沢の別荘の隣人、河上徹太郎夫妻と知り合う。
1938(昭和13)年 28歳
1月、次男・兼正誕生。
1941(昭和16)年 31歳
◆真珠湾攻撃。12月8日、日本軍はハワイ・オアフ島パール・ハーバーを奇襲攻撃。太平洋戦争へとつながる。
1942(昭和17)年 32歳
『お能』の原稿に本格着手。このころから、細川護立に古美術について教わり始める。
1943(昭和18)年 33歳
5月、鶴川村へ転居。10月、梅若家より先祖伝来の能面・衣装などを預かる(のちの『能面』執筆のきっかけに)。11月、昭和刊行会より『お能』を刊行。能の稽古を基本からやり直す。
<終戦~「こうげい」経営>
1945(昭和20)年 35歳
◆8月14日、ポツダム宣言の無条件受諾を決定。翌日、天皇の玉音放送。
東京大空襲で家を失った河上徹太郎夫妻が鶴川の白洲家に疎開。以後2年間、滞在。
1946(昭和21)年 36歳
◆5月、第一次吉田茂内閣成立。11月、日本国憲法公布。
河上徹太郎の紹介で、小林秀雄が武相荘を訪問。青山二郎とも出会い、彼らの影響で、骨董の世界に没入していく。
1948(昭和23)年 38歳
◆10月、第二次吉田内閣成立。
雄鶏社より『たしなみについて』刊行。
1950(昭和25)年 40歳
◆6月、朝鮮戦争勃発。
1951(昭和26)年 41歳
◆9月、サンフランシスコ講和条約調印。
能楽書林より『梅若實聞書』刊行。装丁は芹沢銈介。このころ、小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、今日出海、大岡昇平ら文士の溜まり場となっていた「梅茶屋」(秦秀雄が開いた店)を頻繁に訪れる。
1953(昭和28)年 43歳
10月、父・愛輔死去(88歳)。このころから、能面を求めて各地を旅する。
1956(昭和31)年 46歳
◆石原慎太郎『太陽の季節』が芥川賞受賞、ベストセラーに。
染織工芸の店「こうげい」の経営者になる。このころ、青山二郎と毎晩のように銀座をハシゴする。
1957(昭和32)年 47歳
東京創元社より『お能の見かた』、ダヴィッド社より『韋駄天夫人』刊行。
1959(昭和34)年 49歳
ペルシャ、スペイン、ハンガリーなどを旅する。
1962(昭和37)年 52歳
徳間書店より『きもの美 選ぶ眼 着る心』刊行。翌年、求龍堂より『能面』刊行。
1964(昭和39)年 54歳
◆東京オリンピック。「東洋の魔女」女子バレー決勝戦が盛り上がる。
西国三十三ヵ所観音巡礼の旅に出る。
1969(昭和44)年 59歳
「かくれ里」を『芸術新潮』で1月号より2年間連載。取材のため毎月、京都を拠点に近畿地方の村里を訪ね歩く。
1970(昭和45)年 60歳
「こうげい」を知人に譲り、執筆活動に専念。
<執筆活動と旅~晩年>
1971(昭和46)年 61歳
新潮社より『かくれ里』刊行。翌年、読売文学賞(随筆・紀行部門)を受賞。
1975(昭和50)年 65歳
前年より連載していた『十一面観音巡礼』を新潮社より刊行。
1976(昭和51)年 66歳
陶芸家・加藤唐九郎を訪ね、そのときの対談をまとめた『やきもの談義』(駸々堂出版)刊行。
1979(昭和54)年 69歳
3月、骨董だけでなく人生の師でもあった青山二郎死去(77歳)。
1982(昭和57)年 72歳
『私の古寺巡礼』(法蔵館)、『縁あって』(青土社)刊行。
1983(昭和58)年 73歳
◆NHK朝の連続テレビ小説「おしん」大ブーム。
1986(昭和61)年 76歳
『芸術新潮』にて「西行」の連載を開始。1988年、20回におよぶ連載をまとめた『西行』(新潮社)刊行。
1987(昭和62)年 77歳
友枝喜久夫の能「江口」を初めて観て、感動を覚える。白内障の手術のため入院。
1990(平成2)年 80歳
「いまなぜ青山二郎なのか」を『新潮』にて連載開始。翌年、同名単行本を刊行。
1991(平成3)年 81歳
「白洲正子自伝」を『芸術新潮』1月号より約3年半連載(1994年同名単行本、刊行)。日本文化の継承・発展に尽くした功績により、東京都文化賞を受賞。
1995(平成7)年 85歳
◆阪神・淡路大震災。1月17日、マグニチュード7.3の直下型地震が発生。
渋谷西武百貨店(1989年〜)の染織さろん「こうげい」を閉店。『白洲正子 私の骨董』(求龍堂)刊行。
1998(平成10)年 88歳
6月、多田富雄『ビルマの鳥の木』(新潮文庫)の解説執筆を最後に12月26日、肺炎のため入院先の日比谷病院にて死去。
白洲次郎、正子の面影を訪ねることができる「旧白洲邸 武相荘」
住所:東京都町田市能ヶ谷7-3-2
電話:ミュージアム042-735-5732 レストラン042-708-8633 ショップ042-736-6478
開館時間:10時~17時(入館は16時30分まで)
休み:月曜(祝休日は開館)、夏季・冬季休館あり
メール:info@buaiso.com
公式サイト:https://buaiso.com/
※レストラン、ショップゾーンは入場無料 ※団体での訪問は、あらかじめ予約のこと