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2018.07.17

浄瑠璃寺 九体阿弥陀とは?二条城とは?

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

浄瑠璃寺 九体阿弥陀

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、浄土信仰の造形「浄瑠璃寺 九体阿弥陀」と、儀礼と権威の空間「二条城」です。

阿弥陀さまがズラリ! 「浄瑠璃寺 九体阿弥陀」

浄瑠璃寺 九体阿弥陀

京都府の南端、奈良県との境にほど近い丘陵地に、ひっそりと建つ浄瑠璃寺。境内には、宝池を中心にして、東側に薬師如来坐像(重文)を祀る三重塔(国宝)、西側には9軀の阿弥陀如来坐像を安置する九体阿弥陀堂が建ちます。この9軀の阿弥陀如来を本尊とするため、浄瑠璃寺は「九体寺」とも呼ばれています。

日本では、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、仏法が廃れるとされる「末法思想」が流布しました。平安時代の説では、末法の世は、永承7年(1052)に訪れると信じられ、人々は阿弥陀如来の住まう西方の極楽浄土に生まれ変わる「往生」を強く願いました。この阿弥陀仏信仰を説く「観無量寿経」という経典には、人々は現世での行ないに応じて、9通りの極楽往生の方法があると説かれています。その9通りの往生を具現化したのが「九体阿弥陀」です。

平安時代後期、天皇の外祖父として絶大な権力を握った藤原道長をはじめ、貴族たちはこぞって九体阿弥陀像を造像しました。しかしそのほとんどは失われ、浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は、その唯一の現存例です。

寺の歴史を伝える唯一の史料である「浄瑠璃寺流記事」によると、当寺は永承2年、奈良・當麻寺の僧・義明によって建立されました。創建時の本尊は現在、三重塔に安置されている薬師如来でしたが、嘉承2年(1107)に薬師如来を西堂に移し、新しい本堂が建てられたと伝えられています。翌年には、仏像完成の法要である開眼供養を行なったとされ、この仏像とは、九体阿弥陀のことを指すと考えられていました。しかし、その造像時期には諸説あります。堂々とした体軀、大ぶりの目鼻立ちで、平安時代後期に活躍した仏師・定朝が造像した平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像によく似た面貌の中尊と、その両脇に並ぶ8軀の脇仏の作風に相違が見られることから、それぞれ製作年代や仏師が異なるという説が有力視されています。

極楽浄土に生まれ変わりたいと願う平安時代の人々の強い祈りが込められた九体阿弥陀。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は、悠久の時を超えて、今も光明を放っています。

国宝プロフィール

浄瑠璃寺 九体阿弥陀像

木造 漆箔 11~12世紀 9軀 像高/中尊:224.2cm 脇仏:138.8~145.5cm 京都

浄瑠璃寺は、九体阿弥陀如来坐像を本尊とし、九体寺とも通称される。本堂の中央に、ひときわ大きな中尊が坐し、その左右に脇仏が4軀ずつ並ぶ。各像の製作年代については諸説があるが、平安時代に造られた九体阿弥陀像として唯一の現存例。

浄瑠璃寺 京都府木津川市加茂町西小

徳川家の威光「二条城」

二条城

慶長5年(1600)、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が、美濃国(現・岐阜県南部)関ヶ原で激突した「関ヶ原の戦い」は、東軍の勝利で幕を下ろしました。慶長7年、家康は西国の諸大名に向けて、京都御所の南西に築城を課しました。その城こそが、徳川幕府260余年の栄枯盛衰の歴史を刻むことになる二条城です。

二条城の普請が始まった翌年には、天守および重要な儀式の場であり将軍の京都における宿舎ともなる御殿が完成。竣工まもない慶長8年2月12日に、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた家康は、数日間にわたって公家や諸大名を二条城に招いて、華やかな祝賀の宴を催し、徳川幕府の誕生を高らかに天下に知らしめたのです。
 
京における徳川将軍の居館として建てられた二条城は、その後も重要な歴史の舞台となりました。豊臣氏が滅亡するに至った慶長19年~20年にかけての大坂の陣では、幕府の本営が置かれ、家康が二条城で戦いの差配をしました。

また、元和6年(1620)、2代将軍・秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内する際には、和子の宿舎として新たな御殿を増築。さらに後水尾天皇による二条城行幸に備え、寛永元年から3年(1624~26)に大規模な改築が行なわれました。このとき、御殿の襖や杉戸などに描かれる障壁画の制作にあたったのは、当代一の絵師・狩野探幽率いる狩野派一門です。公武和合の政策を天下に示すため、徳川幕府が威信をかけたこの「寛永の大改修」によって、築城当時の御殿はさらに贅を尽くした空間に生まれ変わりました。それが現在、国宝に指定されている「二の丸御殿」です。
 
家康の造築から260余年を経た慶応3年(1867)、前年に二条城の二の丸御殿で第15代将軍の宣下を受けたばかりの徳川慶喜は、同じ二の丸御殿大広間で大政奉還の意思を各藩重臣に公表。ここに二条城は、家康以来続いた京都における将軍の館としての役割を終えました。徳川幕府の誕生を祝った歴史的舞台である二条城は、幕府の終焉を告げる場ともなったのです。

国宝プロフィール

二条城

二の丸御殿(車寄・遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院)寛永3年(1626)京都市

慶長7年(1602)、徳川家康の命により築城が開始され、2代将軍秀忠の娘・和子の入内に際し改修されている。さらに後水尾天皇行幸に備えるため、寛永3年(1626)に大規模な改築がなされ現在の姿になった。この「寛永の大改修」では、狩野探幽が一門を率いて障壁画の作成にあたっている。

二条城