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2019.11.15

ゴッホが愛される秘密を「モチーフ」から読み解く。農民・花、そしてあの有名な糸杉まで

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日本人にもっとも愛されている画家の一人、フィンセント・ファン・ゴッホ。「炎の人」とも形容される彼の作品は、一枚一枚が強烈なオーラを放ち、見る者を惹きつけてやみません。なぜ、ここまで彼の絵は愛されてきたのでしょうか。そもそも、彼の絵の持つパワーは一体どこから来たのでしょうか。

今回は、上野の森美術館で開催されたのゴッホ展の出品作から数点を選び、「モチーフ」という切り口から、それについてのゴッホ自身の言葉と共に、彼の軌跡を辿ってみましょう。

①ゴッホと農民―――原点

「画家になろう」
ゴッホがそう決意したのは、1880年、27歳の時でした。
もう画商や伝道師を目指した時のように失敗したり、挫折したりはしない。
そんな不退転の覚悟のもと、彼はデッサンや色彩理論についての本を読み、過去の巨匠の複製画を模写するなど、自分なりに勉強を進めていきます。
そんな彼が特に惹かれ、生涯敬意を抱き続けたのが、<種をまく人>など農民画で名高いミレーです。
複製画を模写しながら、彼は胸の中にある夢を育てていきます。
「ミレーのような農民画家になりたい」
 
1882年になると、ゴッホはハーグに移住。そこに集まっていたハーグ派の画家たちから、実践的なアドバイスを受けることになります。
画材の扱い方、そして「生きたモデルを見て描く」こと。
ゴッホは、それに従い、地元の農民たちの日常の様々な姿をデッサンし、水彩や油彩にも挑戦していきます。
こうした実践の中で、先輩からの教え、特に「生きたモデルを見て描く」ことは彼の芸術の根幹となっていきました。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《疲れ果てて》 1881年9-10月 鉛筆・ペン・インク・筆・不透明水彩、簀の目紙 23.4×31.2cm 
P. & N. デ・ブール財団 © P. & N. de Boer Foundation

そして1885年、自信をつけた彼はこれまでの修業の成果を活かし、初めての油彩画大作<ジャガイモを食べる人々>を手掛けます。
弟や画家仲間からの評判は芳しいものではありませんでしたが、ゴッホにとっては「最高のもの」でした。夢に向かっての大事な一歩でもあったのです。「自ら目標を設定し、達成できた」ことは、彼に大きな満足感をもたらしたでしょう。
そして、この記念すべき作品について家族や友人に伝えるため、彼は下のようなリトグラフも複数制作しています。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《ジャガイモを食べる人々》 1885年4-5月 リトグラフ(インク・紙) 26.4×32.1cm ハーグ美術館
© Kunstmuseum Den Haag

②ゴッホと花

フィンセント・ファン・ゴッホ 《薔薇》 1890年5月 油彩、カンヴァス 71×90cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー
© National Gallery of Art, Washington
Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

1886年2月、ゴッホはパリに出てきます。
その地で彼を待っていたのは、「新しい芸術表現」、印象派や浮世絵との出会いでした。
それらの作品における明るい色彩表現は、これまで茶色を基調とした暗い色調で絵を描いてきたゴッホにどれほど鮮烈に映ったでしょう。
彼は早速、この「明るい色彩表現」を取り入れるべく格闘を開始します。
そのフィールドとなったのが、花をモチーフとした静物画でした。
 
彼が花を描くようになったのは、パリに出てからでしたが、そこには大きく3つの理由がありました。
一つ目は、モデルを雇うお金が無かったため。
二つ目は、花の絵なら売れる、という目論見があったため。
そして三つ目が、「色彩表現」の研究のため。
 
パリについた翌年、ゴッホは妹宛ての手紙の中で次のように語っています。

「昨年(1886年)、ぼくは、灰色以外の色、すなわちピンク、柔らかい緑あるいは鮮やかな緑、水色、ヴァイオレット・イエロー、オレンジ、美しい赤といった色に自分を慣れさせるために、花しか描かなかった」(1887年夏または秋)(H.アンナ・スー編、千足伸行監訳、『ゴッホの手紙 絵と魂の日記』、西村書店、2012年、p.172 )

 
実際に、パリでの最初の夏に彼が描いた花の絵は約35~40点にもなります。
補色に興味を持ったり、「灰色でまとめるのではなく濃い色を」試すなど、描く中で様々な実験をくり返し、独自の表現を追求していきます。そして、それは後に南フランスのアルルで大きく開花するのです。

また、花のモチーフはその後もゴッホの画業の中で重要な一角を占めています。
上のサン=レミ時代に描かれた<薔薇>はその一例ですが、特筆すべきはやはり彼の代名詞的存在である<ヒマワリ>(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)でしょう。
 

③ゴッホと糸杉―――新たなモチーフ

アルルでのゴーギャンとの共同生活の破綻、そして自分で自分の耳を切り落とすという耳切事件を経て、1890年、彼は自らサン=レミの精神療養院に入院します。
静かな暮らしの中で、発作が来ることに怯えながらも、彼は描き続けます。
描くことは、彼にとって病と闘っていくための手段でもありました。
この時期に、新たに彼が新たなモチーフとして扱い始めたのが、糸杉とオリーブでした。
どちらも、それまでの西洋絵画では扱われてこなかったモチーフです。
だからこそ、思い入れも一入だったのでしょう。
特に糸杉については、「エジプトのオベリスクのように美しい」輪郭や比率、「緑色のすばらしさ」や「黒い斑点」に感嘆し、何とか自分の思う通りに描こうと試行錯誤を重ねていきます。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《糸杉》 1889年6月 油彩、カンヴァス 93.4×74cm メトロポリタン美術館
Image copyright © The Metropolitan Museum of Art.
Image source: Art Resource, NY

こちらの<糸杉>は、その中でも比較的早い時期の作例です。
青い空を背景に、まるで黒い炎のようにうねりながら立ち上る大きな糸杉。それは、画面を突き破ってこちらへと迫ってきそうな存在感を備えています。
近づいてよく見ると、それは絵の具を分厚く、緻密に塗り重ねることで描き出されていることがわかります。

 
「糸杉がぼくの頭を占め続けている。糸杉をひまわりの絵と同じように扱って描いてみたいのだ。なぜなら、驚くべきことに、まだ誰も糸杉を、ぼくが見るようなやり方で取り上げた者はいないからだ。…それは陽射しあふれる風景に飛び跳ねた一筋の黒だが、もっとも興味深い黒の調子の一つであり、想像した通りに描写することがもっとも難しいものの一つだ」(1889年6月25日)(H.アンナ・スー編、千足伸行監訳、『ゴッホの手紙 絵と魂の日記』、西村書店、2012年、p.255 )

弟テオへの手紙の中で、「糸杉」について触れた行からは、前向きに取り組もうとする姿勢が伝わってきます。
そう考えると、執拗なまでに塗り重ねられた絵の具の筆触の一つ一つには、彼の情念が籠っているのかもしれません。

「そうだ、僕は絵に命を懸けた。そのために半ば正気でなくなっている。それもいいだろう」
弟にあてた最後の手紙の中で、彼はこう述べています。
ゴッホにとって描くことは生きていることの証でもあったのでしょう。そのために、モチーフとも全身全霊で向き合い、格闘しました。
その情熱は、自分自身をも傷つけうる力を持っており、絵の具の一刷毛一刷毛の中に宿り、今も生き続けているのです。
是非、ゴッホの作品に会いに行って、実際に体感してみてください。

▼ゴッホ展のとっても詳しい見どころ解説・展覧会レポートはこちら
ゴッホ展の決定版!世界中の名品でゴッホの驚異的な進化を味わおう!【展覧会レポート/ゴッホ展2019】

展覧会名:ゴッホ展【終了】
会場:上野の森美術館(〒110-0007 東京都台東区上野公園1-2)
会期:2019年10月11日~2020年1月13日

展覧会公式HP:https://go-go-gogh.jp/

書いた人

東京生まれ。好きな画家はカラヴァッジョとエル・グレコ。シリアスも好きだけど、笑える話も大好き。歴史上の人物の笑えるエピソードを集めるのが趣味。最近は落語にはまって、レオナルド・ダ・ヴィンチの<最後の晩餐>をめぐるエピソードを「落語仕立て」にして、ブログにアップしたこともある。アート小説を書くのが夢。