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Craft
2020.02.08

あの陶片の正体は?朝ドラ『スカーレット』喜美子が情熱を注いだ穴窯と信楽焼の歴史

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NHK連続テレビ小説『スカーレット』ご覧になっていますか? 戸田恵梨香演じる主人公、川原喜美子の断固たる決意と、穴窯の炎との格闘は、圧巻の迫力でした。たった1度の焼成で数十万円もの薪代が飛んでいく穴窯は、金銭的にも精神的にも、彼女を苦しめます。失敗を繰り返し、借金までして、それでも諦めずチャレンジした7回目の焼成。穴窯から出した作品を陽の光にかざし、やっと理想の色にたどり着いたことを確信した貴美子。目をうるませるその姿に、思わず涙してしまいました。

物語は終盤ですが、彼女が活躍した時代と共に信楽焼の背景を知ると、これまでの物語と今後の展開を、さらに楽しめるかもしれません。この記事では、信楽焼の歴史をダイジェストでお届けします。

物語の冒頭で喜美子が出会った、あのたぬき。

火鉢景気に湧く信楽の街

物語の冒頭。9歳だった貴美子と家族が信楽へ引っ越してきたのは、戦後まもない昭和22(1947)年のことでした。当時の信楽は、暖房具としての火鉢の需要が高まってきたことから、街は火鉢景気に湧いていました。

彼女の勤めていたメーカー「丸熊陶業」の描写からも、その様子が伝わります。江戸後期から信楽で製造され始めた火鉢は、明治後期に生産量が増加、大正に入り主力製品となりました。

ところが1950年代前半から、ストーブの普及により火鉢の需要は衰退し始め、昭和30(1955)年には、信楽焼の主力は植木鉢へと変化します。その後、プラスチック製品の台頭により、信楽焼の主力であった生活陶器は、衰退と開拓を繰り返すのです。

信楽の街中で遭遇したペンギン。彼らの正体は…なんと、スリッパ入れ。このほかにも傘立てやパーキングブロックなど、さまざまな商品の開発をしていたことが、街を歩くとうかがえます。

物語の中盤、貴美子が昭和40(1965)年に丸熊陶業から独立した頃には、信楽焼の主力はタイルなど建築用材へと移り変わっていきます。喜美子が信楽へ引っ越してきた時から独立までのたった18年の間で、近代化の流れにより信楽焼をとりまく状況は大きく変化しました。

『連続テレビ小説 スカーレット Part1 (1) (NHKドラマ・ガイド)』NHK出版

貴美子の人生を変えた「陶片」

つるつるとした表面に、色とりどりの釉薬(ゆうやく)、絵付けの施された信楽焼。しかし、喜美子が目指した作品の表現は、それとは全く異なる、不思議な輝きを放つ陶片の色でした。

喜美子が莫大な費用を投じて挑戦した穴窯での作陶。そのきっかけとなった、不思議な色の陶片の正体は「古信楽」。

古信楽とは、中世に信楽でつくられた焼き物で、釉薬を使わずに1200〜1300度の穴窯で素地を焼く「焼締(やきしめ)」という技法を用います。この技法は、日本各地で見られるものですが、信楽の土は、コシが強く、力を加えるとかたちが自由に変化する性質に富んでいるため、焼締陶器をつくるのに適しているといわれています。

さらに、信楽焼の魅力のひとつがその土による独特の色と肌合いにあります。最大の魅力とも呼ばれる「火色(ひいろ)」は、素地に含まれる鉄分が酸化することで生まれる色。穴窯の灼熱をそのまま写したような、赤褐色の肌合いになるのです。
もうひとつの魅力が「自然釉(しぜんゆう)」。焼成中に窯の温度が高温に達することで、薪の灰に含まれるアルカリや石灰などの成分が素地に含まれる桂酸と反応し、ガラス質に変化します。焼成条件によって緑色や茶色などに変化するガラス質。それが溶け出して、流れ滴ることでできた表情は、信楽の山や森の風景を思わせます。

そのほかにも、ガラス状の白い粒が表面に出る「蟹の目」、土の中から石粒が顔をのぞかせる「石ハゼ」など、信楽の土特有の表情の数々。

喜美子が追求した陶片の色は、信楽の土と穴窯の炎が生み出した、魔法のような「自然の色」だったのです。

壺 信楽窯(南北朝時代)出光美術館 ※「六古窯―〈和〉のやきもの」展に出品、過去記事より出典 陶磁器の始まりから発展について解説した記事はこちら

時を戻そう、信楽焼の歴史

古信楽のつくられた時代から近代へ、どのように変遷を辿ったのでしょうか。信楽焼の始まりまで遡ってみます。

平安末期(11世紀末)から鎌倉後期(13世紀)にかけて、全国各地に陶器の窯がつくられました。信楽焼もそれらの中世古窯のひとつで、他に比較するとその始まりはやや遅く、13世紀頃と考えられています。中世の信楽焼は他の中世古窯と同じく、焼締の技術を使って、食物や水を貯蔵するための壺や甕(かめ)、鉢など、生活陶器を生産していました。

室町後期(15世紀後半)に、信楽焼の歴史に転機が訪れます。日常の道具だった信楽焼が、茶道具として使われるようになったのです。信楽焼は、和物陶器としてかなり早い時期に詫び茶の道具として取り入れられ、天正年間(1532-55)以降の茶会の記録にも、信楽焼の茶陶が登場します。

江戸前期(17世紀)には、連房式登り窯が導入されるようになり、信楽焼は生産量を増やすことに成功しました。これにより、17世紀後半は、釉薬を施した陶器の大量焼成も始まります。この大量焼成の技術によって、茶道具の時代から、再び生活陶器の生産へとつながっていくのです。

江戸時代につくられた登り窯。

昭和の古信楽ブーム

喜美子が信楽へやってきた昭和20年頃。焼締陶器のつくり手はほとんどいませんでした。しかし、太平洋戦争後の経済復興を目的とする土地開発とそれに伴う遺跡発掘、考古学研究の進展によって、全国的に古窯への興味が高まりを見せ始めます。そして昭和40(1965)年、古信楽の初の展示即売会となる「信楽古陶展」が日本橋の三越で開催されたのです。

約300点の古壺が出品した即売会は、一週間でほぼ売り切れ。予想を超える盛り上がりを見せました。さらに時を同じくして、写真家の土門拳『信楽大壺』が出版されます。迫力ある写真は、信楽焼の魅力を人々に知らしめ、ブームを湧き起こす起爆剤となりました。

今のぼくは、日本のやきものの中で、信楽の壺ほど魅力のある、
そしておもりおいものはないと思うようになっている。

少しもべとついたところのない素地の山土そのものの淡白さ。
カンカンに焼き締まった肌の爽快さ。
その焼き締まった肌から白い長石がプツプツ吹き出している「蟹の目」の可愛らしさ。
朝焼けを思わせる肌の明るい赤さ。
その肌からヒョッコリ顔をのぞかせている「石はぜ」の頓狂さ。
春の淡雪のような灰かぶりの白さ。
豪快なビードロぐすりの流れ。
その流れが途中で止まってできた「蜻蛉の目」のゆたかなまるさ。
窯の中で隣り合う壺に火まわりをさえぎられてできた「抜け」の飄逸さ。
天地創造をしのばせる灰なだれのひびき。
灰なだれがなだれんとしてなだれきれずに焦げついた「こげ」の幽玄さ。

土門拳『信楽大壺』 「あとがき わが信楽」より抜粋

同じ頃、陶芸家に対する評価においても変化がありました。四代・上田直方と三代・高橋楽斎、ふたりの陶芸家が、細々と焼締陶器をつくり続けてきた結果、昭和18(1943)年に商工省信楽焼技術保存資格者、昭和36(1961)年には、滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保持者に認定。そして1970年代には、喜美子のモデルともいわれる陶芸家、神山清子さんによって、自然釉の古信楽の復元が成功するのです。

新たな陶芸家たちの挑戦へ

先人たちのつくってきた焼締陶器が、再び注目を集めた1960〜70年代。信楽焼は、昭和51(1976)年に国から伝統的工芸品の指定を受けています。喜美子が陶芸家としてめざましく活躍する昭和53(1978)年には、きっと若い陶芸家たちが、古信楽の技術を使った新たな表現を追求していたことでしょう。『スカーレット』の今後の展開も、喜美子の奮闘だけでなく、息子・武志や若い世代の新たな挑戦が描かれていくのかもしれません。

和樂webでは、穴窯で焼締の作品をつくる陶芸家、篠原希さんへのインタビューも行なっています。

参考文献: 図録『滋賀県立陶芸の森開設25周年記念 信楽への眼差し』