昨今、「終身雇用」という言葉をあまり聞かなくなりましたね。その背景には、企業側の限界もありますが、働く側のワークライフバランスや多様な働き方への関心の高まりもあるようです。最近では日本でも、転職を繰り返したり、複数の職を持ったりするのは本人のスキルが高い証拠、と捉えられる傾向にあるそうです。
とはいえ、それでもまだまだ日本人は、自信のなさかただお尻が重いのか、やっぱりずっと慣れ親しんだ稲作だけしていたい、米さえ蓄えておければいい、という考え方が一般的なように感じます(比喩です)。
でも日本人だって、昔から稲作稲作言っていたわけではありません。つい3000年前、まだ縄文人だった頃は、我々だって時代の変化に敏感で、新しいことにチャレンジすることに躊躇がなく、失敗をものともしない自信に満ち溢れていたのです(たぶん)。
そこで今回は、季節ごとに狩猟・漁労・採集・栽培と多種多様な草鞋を履きこなしていた縄文人のワークスタイルに着目し、マルチキャリアをこなす極意を考えてみたい、たぶん恐らく参考にはならないけれど、考えてみたいと思います。
縄文人のワークスタイル
日本列島の特徴は、環境が変化に富んでいるということです。南北縦に長い列島は、土地土地によって多種多様な植生をもち、また四季の変化によってもそれはずいぶんと変わります。変化に富んだ自然は、種類豊富な食糧を与えてくれます。しかし、恵まれた環境を活かせるかどうかは、「変化に富ん」だ自然に臨機応変に対応できるかどうかにかかっています。
縄文人がなぜ、農耕に手を染めることなく豊かな生活を送ることができたか? それは彼らが時の変化に敏感で、いち早く行動する卓越した瞬発力を持っていたから、そして生きるためならとにかくなんでもやってやろう、という江戸町民のような身軽な精神性を持っていたからです。季節や状況に合わせて一人で何役もこなす、彼らの生業術をご紹介しましょう。
オールラウンダー縄文人の狩猟術:落とし穴を掘って待ち時間を有効に使おう!
まずは「縄文時代の生業といえば」の狩りからご紹介しましょう。現代でもそうですが、縄文時代もまた、狩猟は主に冬に行っていたと考えられています。理由としては、木々などが禿げて見通しがよくなること、雪などで獲物の足跡が追いやすくなること、また夏は動物の子育てシーズンなので、この時期に獲ってしまうと全体数が減ってしまうこと、などが挙げられます。
縄文時代以降にしか証拠の見つかっていない漁労に対して、狩猟は旧石器時代から続く伝統的生業の一つです。ただ、旧石器時代はナウマンゾウなど大型動物を追うことが多かったのに対して、縄文時代には動物が小型化したので、その手法や道具も変化していったようです。
縄文人が使用したのは、主に弓、槍、そして落とし穴です。各地の遺跡で、落とし穴用と見られる遺構が見つかっています。動物を仕留める杭が刺さっていた跡があることもあります。
山に入ると、草木が途切れて自然に「けもの道」ができていることがありますが、縄文人はここに落とし穴を掘ってイノシシやシカなどを捕獲したようです。落とし穴さえ設置すれば、あとは待つだけ。さあ、スキマ時間が生まれました。この時間に、好きなあの子の皮なめしの仕事を手伝ってもいいですし、冬至の祭に向けて遠くの川から重たい石を運び出してもオーケーです。
オールラウンダー縄文人の漁労術:無理かもしれないけど食べてみよう!
一方、暑い夏は漁労のシーズンです。縄文時代の漁は、サケなどの川魚はもちろん、スズキやクロダイなどの内湾性魚類、さらにはマグロやカツオなどの外洋性魚類、またトド、アザラシ、オットセイ、イルカやクジラなどの海獣にまでおよび、その種類は70種を超えていたといいます。
これはすごいことです。現代の漁だって、遠洋漁業となれば危険を伴うのに、まして縄文時代の舟は、巨大な木をくり抜いただけの丸木舟です。丸木舟で遠い海に漕ぎ出し、巨大なマグロを銛で仕留めるのです。縄文人、かっこよすぎます。他にも海の幸としては、主に出汁として使われた貝類、さらに証拠は残っていませんが、海藻類も採ったに違いありません。
海のない内陸部でも、フナやコイなどの淡水魚をとっていました。驚きなのは、フグも好んで食べられていたということです。すでにフグの毒抜きの方法を確立していたようなのです。当然はじめは失敗していたでしょうから、何人も犠牲になったことでしょう。何人死んでも諦めない。死んだくらいじゃ諦められない。今日我々がいただいているふぐ料理は縄文人の不屈の精神のおかげだと思うと、彼らの食への執念に感涙です。
オールラウンダー縄文人の採集術:オールシーズンノンストップで!
縄文人は「狩猟民族」と言われますから、主な生業は狩猟・漁労なのかと思いきや、実は彼らがもっとも力を入れていたのは、植物や堅果類の採集です。少なくとも本州の縄文人にとっては、肉は冬にしか獲れない「保存食」で、魚だって場所によっては珍しかったりします。
それに対して植物はオールシーズンどこでもいけます。一般的に、山菜の採集といえば春ですが、実際には、野いちごなど夏にしか採れない植物や木の実もありますし、ナズナなど、1月くらいから採れる山菜もあります。縄文人はきっと、海や川にどの魚が上がってくる時に、山ではどんな植物が採集できるかを熟知していて、春夏秋冬季節を問わず採集に出かけていたはずです。
植物は腐ってしまう上に食べた跡が残らないのでわかりにくいのですが、出土しているだけでも39種、それもクルミやドングリ、クリ、トチなどの堅果類ばかりで、現在でも日本でよく食べられているワラビやゼンマイなどの山菜類や、球根や野菜、きのこ類は含まれていません。これらの食材を含めると、彼らの採集した植物類は300〜500種類にも及ぶと想定されています。
オールラウンダー縄文人の栽培術:農耕ではないのでセーフ(なにが)
縄文人も、実はありのままの自然の中に身をおいて生活していたわけではなく、人間に都合のよい植物の栽培などを行っていました。たとえば、「縄文王国」として知られる青森の三内丸山の縄文人は、クリの木を大量に植林し、また野生種より実が大きくなるように改良することで、一時期には500人にも及んだと言われる人口を養うことができました。他の遺跡でも、漆やゴボウ、大豆などを人為的に栽培していた跡が見つかっています。
ここまでくると「農耕に手を染めず」の部分がちょっとチートなんじゃないかと言いたくなりますが、まあ、水田稲作のように土地を大きく作り変えて他の生業が手につかなくなるほど忙しく取り組んでいたわけではないので、セーフです。彼らにとっては栽培も、季節や状況に合わせた「マルチ生業」のうちの一つだったのでしょう。
なんでもこなす「縄文的マルチ生業術」
そう、縄文的マルチキャリアのポイントは、こだわらずになんでもやる、まずそうなものでもとりあえず食べてみる、できそうにないこともとりあえずやってみる、ということです。
弥生時代のはじめ、大陸から水田稲作が入ってきた時、その技術を東日本で最も早く取り入れたのは、青森でした。青森といえば縄文文化がもっとも栄えた場所のひとつです。稲作が伝来した九州から遠い本州の北端にいながら、青森の縄文人は西日本に人を送り込み、当時の技術力を全投入してその技術を学んだとみられています。
まあ、その最初の稲作は、やはり肌に合わなかったのか10年ほどであっさり放棄しちゃうんですが(笑)、それもまたそれです。大事なのはとりあえずチャレンジしてみる、ということなのではないでしょうか。
縄文人の「なんでもやる」ワークスタイルは、弥生、古墳、奈良時代と時代が下っても変わりませんでした。一説によると、弥生時代になっても農家専門になることを選択しなかった一部の縄文人は、卓越した航海スキルを活かして海民として交易に励んだり、その呪術力を活かして朝廷にお仕えしたり、時代とその時々のニーズに合わせて、自由自在に生業を選んだといいます。
現代にも、タピオカ屋で成功したと思ったら、ブームが去るやいなやすかさず天然水かき氷屋に鞍替えする・・というような、流行りに敏感な商売上手の人々がいますが、彼らの身軽さと思い切りの良さは、土地を所有しない狩猟採集民のそれを彷彿とさせます。
小さな丸木舟で大海に漕ぎ出した縄文人のように、必要なものを取捨選択して多くを持たず、臨機応変で自由でありながらも流れを正確に読み流されることなく、その時々の波を楽しみつつ乗りこなせたら最高ですね。
参考文献:
小林達雄『縄文人の世界』(朝日新聞出版)
渡辺誠『縄文時代の知識』(東京美術)
瀬川拓郎『縄文の思想』(講談社)
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縄文人がなかなか稲作を始めない件