お嬢様でとびきりの美人。しかも、自分の知らない間にミスコン1位に選ばれるなんて! この記事の主人公は、明治を生きた女性、末弘ヒロ子。その生きざまを、追ってみましょう。
小野小町ならぬ小倉小町!?
1893(明治26)年、ヒロ子は福岡県小倉市長・末弘直方の四女として生まれました。舞踊、茶道、華道、さらには琴とピアノをたしなむお嬢様でした。その美少女っぷりから、絶世の美女として知られる小野小町になぞらえ「小倉小町」なんて呼ばれていたそうです。
日本初のミスコンで1位に!
そんなヒロ子の転機は突然訪れます。1908(明治41)年3月に日本で初めて行われた「ミス・コンテスト」です。今や誰もが知る「ミスコン」ですが、そもそもこのコンテストはアメリカの新聞社「シカゴ・トリビューン」が世界美人コンテストを起案。日本では時事新報社が主催となり『全国美人写真審査』として写真(芸妓・女優などは参加不可)を募集したものでした。
一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストの審査は写真選考によって行われました。明治~昭和にかけて活躍した洋画家の岡田三郎助や、彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫(しかん)、医学者の三島通良(みちよし)、日本初の人類学者坪井正五郎など著名人13名が審査員でした。
この募集を見たのが、写真店の店主だったヒロ子の義兄。自身が撮影したヒロ子の写真をコンテストに応募したのです。すると、7,000人程の応募があったとされる中で、当時16歳、学習院女学部中等科3年生のヒロ子が、見事1位となったのです! その写真は1908年3月5日付の時事新報で大きく報じられました。
ミスコン1位のせいで中学を退学に
この栄えある受賞に対して、ヒロ子の通っていた学習院内では軽率であるという声も出ました。審査が写真のみと、容姿を競うコンテストで一等をとり、その写真を世間にさらしたことで「学校の体面を汚した」と非難されたようです。当時の理想の女性といえば「良妻賢母」。『男女学校評判記(太田英隆編)』の学習院女学部の目的の項には「高尚の性情と健康の身體とを以って上流社会の家婦を養成せんとするに在るのである」とあり、その頃の風潮が伺い知れます。
当時の学習院院長は昭和天皇の教育係を務め、乃木将軍として有名な乃木希典(まれすけ)。女学部長は松本源太郎。女学部長が主となりヒロ子を諭旨退学処分にしました。この事件は「時事新報」「大阪毎日新聞」などでも報じられたのです。
実は、このコンテストへの応募はヒロ子の知らぬところで行われたことでした。ヒロ子の義兄がコンテストへの応募を打診した時に、なんと、ヒロ子は断っていたそうです。それを義兄が勝手に応募してしまい、1位となり、退学となるなんて…。1位を獲得後、おそらく同級生のヒロ子を見る目も変わっていたことでしょう。このような展開になるなど、露ほども思っていなかったであろうヒロ子の気持ちを思うと、いたたまれません。
野津公爵家との結婚
そんなヒロ子を悲しませるできごとがあった同年、ヒロ子は親同士が親密であった野津鎮之助の元へ嫁ぎます。鎮之助は陸軍大将・野津道貫の長男で、前年に侯爵へ陞爵した父の跡を継いで貴族院議員になることが決まっていました。野津道貫が病で伏せっていたため、当初の予定よりも繰り上げて行われたようで、媒酌人は乃木希典が行ったそうです。
東京赤坂にある、鹿鳴館の設計で有名な建築家ジョサイア・コンドルが設計した邸宅に迎えられ、3人の娘をもうけます。次女・真佐子は倉敷絹織(現・クラレ)社長で、大原美術館を大きく発展させた大原總一郎の妻となりました。
その美貌ゆえ、周りの非難を浴びながらも、理不尽な退学処分を受けいれ、つつましく生きたヒロ子。その姿勢には、彼女の内面が滲み出ているように思えます。
参考:明治のお嬢さま 黒岩比佐子著
男女学校評判記 太田英隆編