小倉百人一首の有名な恋の歌「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川のわれても末に会わむぞと思ふ」を詠んだのは崇徳上皇です。ロマンチックな歌とは裏腹に平安後期、後継者を巡る保元の乱に敗れ、天皇への謀反の罪で讃岐(香川県)に流され、無念の生涯を遂げた悲運の帝でもあります。香川県坂出市周辺には崇徳上皇のエピソードの残る場所が点在しています。ゆかりの地について調べていくと、中には少し怖い言い伝えが残っているレアな場所があることも分かってきました。今回は悲運の帝と呼ばれる崇徳上皇の讃岐での暮らし、それにまつわる伝説と共に、意外なグルメもご紹介します。
崇徳上皇はなんで讃岐にいたの?
保元の乱が勃発した1156年、捕らわれの身となった上皇は、源重成など10余名の兵が警護し、粗末な牛車に乗せられて仁和寺を立つことになりました。一行は鴨川と桂川が合流する草津という渡船場から屋形船に乗せられます。上皇が屋形の中に入ると外から鍵をかける厳しさで、上皇たちは移り行く景色を眺めることも叶いませんでした。警護の者の「ただいま須磨の浦の沖を通っています」「淡路島が見えてまいります」などという声だけを頼りに船は四国を目指し、瀬戸内海を進みます。途中で海が荒れ、直島の港に一時避難したこともありました。そして京を出てから11日目の8月3日、讃岐の松山の津(香川県坂出市高屋町)に到着します。松山の津には現在でも記念碑が現存しています。
配流先で、意外?にも穏やかに暮らす
当時讃岐国司庁の首席官人で豪族でもあった野太夫綾高遠(のだゆうあやたかとおる)の館の隣に仮の御所「雲井の仮御所」を急造し、ここで約3年間を過ごします。その間に綾氏の息女である綾局といつしか愛おしむ仲となり、皇子が生まれ、上皇は自らの御名「顕仁」の1文字を与え「顕末」と命名します。次に皇女が生まれますがすぐに亡くなりました。皇女は綾川を隔てた西岸に葬られ「姫塚」と呼ばれるお墓も現存しています。
ここでの3年間、上皇は近くの長命寺という寺で武士たちの射芸を見たり、綾川下流の中州で潮干狩りをしたり、遠く「滝宮天満宮(綾歌郡綾川町)」まで出かけ釣りを楽しむなど比較的自由な生活を楽しんだと伝わっています。この綾北一帯の地形が京都に似ていたため、上皇は懐かしい都を偲んで鴨川や東山、或いは西鴨神社を「葵さん」と呼んでいたと伝えられ、今でもこの地名が残っています。都から遠く離れた讃岐の地で、雅やかな京での暮らしに想いを馳せる日々だったのではいでしょうか。上皇が讃岐に来てほぼ3年後に「雲井の仮御所」から鼓ヶ岡の配所「木の丸御殿」(坂出市林田町)に居を移した後、亡くなるまでの6年間を過ごすことになります。
上皇は類まれな和歌の名手で、讃岐配流の9年間で詠んだ和歌は千首近いと言われています。来世の平安を念じつつ3年がかりで「五部大乗経」を写経し、その奥に「浜千鳥、後は都に通えども 身は松山に音のみぞ啼く」と添えました。それを「もしお許しが得られるのなら父の鳥羽安楽寺院の御陵にお納め願いたい」と申し出るも、後白河天皇は兄の怨のこもった写経など不要と上皇の元へ送り返してしまいます。父への想いを綴った写経すら受け入れてもらえなかった上皇の悲しさは、いかばかりだったでしょう。
死因は未だ闇の中
上皇は讃岐に流されて9年目に崩御します。その死因については未だに闇の中。病死、自害、他殺など諸説ありますがどれも定かではありません。
しかし、上皇が亡くなったことを知った村人たちは大いに嘆き悲しみ、上皇を尊敬し好意的だった国府庁の役人たちも交え、ご遺体の保持をどうするべきか協議しました。この時期はまだ暑さ厳しい季節で、京の都からの指示を待つ間、ご遺体の損傷をどのように防ぐかが大きな問題となりました。
協議した結果、金山(坂出市西庄町)の野沢井(八十場)というところにどんなに日照りが続いても涸れない冷水が湧き出る場所があり、この霊水に浸してかけ流しにしてはという話になります。
この霊水、古くは讃留霊王の悪魚退治の際に、毒気に倒れた兵士88名がこの水を飲み全員が蘇生したという伝説があり八十八(現在は場)の地名の由来ともなっています。
「白峯寺に葬って」生前に残した思い
上皇はかねてより「自分が死んだら四国霊場81番札所の白峯寺に葬ってほしい」と望んでいたものの、死後20日を経てやっと京から「白峯寺に葬るように」との指示があったそうです。
白峯山頂に位置する「白峯寺」は弘法大師が、白峯山中に如意宝珠を埋め、閼伽井(あかい)を掘り、堂を建立したことが始まりと伝えられています。境内には崇徳上皇の霊廟である頓証寺殿があり、左右にそれぞれ橘、桜が植えられ御所風の造りとなっています。中央に御尊影、左に白峯大権現相模坊、右に後念持仏十一面観音が祀られた非常に珍しいものです。白峯寺北に隣接する上皇が眠る「白峯御陵」は四国で唯一の御陵です。
崇徳上皇にまつわるちょっぴり怖い伝説
上皇が亡くなってから荼毘にふされるまでにはいくつかの伝説が伝わっています。
ひぃ…! 棺から血が…
八十場を出発し、白峯寺に向かう途中に激しい雷雨に見舞われ、一行は一旦お棺を大きな台座に置いて小休止しました。雨が止んで再びお棺を担ぎ上げるとその台座の上には血が流れ出ており、人々は大変驚いたといいます。後日、御霊を鎮めるために村人たちが建てた「高屋神社」は別名「血の宮」とも呼ばれ、境内にはお棺を置いたとされる六角形の台石が今も残されています。死因は謎のままですが血が流れたという伝説が真実ならばもしかして……誰かの手によって殺められた説も否定できませんね。
謎の光に照らされた丘
遺体を八十場の水に浸していた間、毎夜すぐ東の丘が謎の光で明るく照らされていたといいます。上皇の亡き後、二条天皇の勅名でこの地に非常に珍しい三輪鳥居のある「白峯神社」を建立しました。このお宮はは別名「明の宮」と呼ばれるようになりました。この神社の鳥居をくぐると不思議や不思議、風が巻き起こるのを感じる……という人も多くおり、パワースポットとして注目されています。今でも明りが見えることはあるのでしょうか? ちょっと見に行ってみたい気もしますが……。
3日経っても消えない火葬の炎
ご遺体は白峯寺に西隣の稚児ヶ嶽にて荼毘し御陵が営まれました。火葬の火は3日3晩消えず、その煙は京の都を慕ってか上空に登らず当方の山麓に靡いたそうです。村人は後日ここに上皇と生母待賢門院の御霊をお祀りし建てた神社が別名「煙の宮」と呼ばれる「青海神社」です。
亡くなった上皇が現れて和歌を…
仁安元年に歌聖西行は四国修行の際に御廟に参詣し、一夜法施読経すると、御廟が震動して崇徳院が現れ、「松山や 浪に流れてこし 船のやがて空しくなりにけるかな」という和歌を詠んだそうです。これに西行は涙を流して御返歌として「よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ」と詠じると、度々鳴動したと伝わっています。
霊水から生まれた地元で愛されるグルメ
現在でも崇徳上皇のゆかりの地を巡る人々は後を絶たず、多くの人が坂出市を訪れています。「白峯神社」近くには八十場の清水を使って作る「ところてん」が名物の創業200年の老舗「清水屋」があります。きれいな水と瀬戸内海の新鮮な天草で作った「ところてん」は地元の人たちに愛されたソウルフード。関西ではきなこと黒蜜が一般的ですが、香川では関東と同じく酢醤油と辛子で頂くのがポピュラー。もちろん黒蜜をはじめ様々なメニューもあるのでお好みの味でどうぞ。素朴な茶屋で湧き出る清水を眺めつつ頂くところてんは、お遍路さんたちが一息つくスポットとしても人気となっています。
怨霊など一般的には怖いイメージが伝わる上皇ですが、讃岐では穏やかな日々を送っており、多くの人たちから愛されていたと伝わっています。悲運の帝に思いを馳せながら古のロマンの地を巡ってみませんか。