鉄道を利用する旅の楽しみの一つに駅弁がある。サンドイッチではなく、ご飯とおかずがきっちりと詰め込まれた折箱である。列車の程よい揺れに身を委ね、窓外に流れる風景を眺めながらつつく味は格別だ。
駅弁といえばペットボトルのお茶がつきもの。だが、ペットボトル入りのお茶が登場する前の時代には「ポリ茶瓶」と呼ばれる、チープでトリッキーな簡易やかんのお茶で喉を潤すのが当たり前だった。
全盛期には、メーカー各社がさまざまな意匠で工夫を凝らし、自社製品をアピールしていた。しかし、駅弁用飲料の座をペットボトル入りのお茶に譲って以来、駅構内の弁当売り場やキヨスクなどでポリ茶瓶を見かけることはない。
駅弁情報を専門に扱うサイトによると、2021年3月現在、全国で6つの駅がポリ茶瓶を販売している。このほか、地域イベント会場や通販などでも細々と命脈を保っているといわれる。
高度経済成長を背景に、貧しくとも精一杯、旅を楽しもうとした昭和の人々の思いをそれらから汲み取ることができるのではないだろうか。
昭和の文化遺産でありながら絶滅種へ
ポリ茶瓶と聞いて、その姿形を思い浮かべられたり、名前を知らなくても写真を見て懐かしいと感じられたりするのは、おおむね50歳以上と思われる。
そこで、考えようによっては、昭和の文化遺産でありながら、絶滅種への道をゆっくりと歩もうとしているポリ茶瓶を造形的な観点で眺めてみた。本文中の画像はいずれも個人的なコレクションの一部である。
それらを披露する前にポリ茶瓶が絶滅種への道を歩まざるを得なかった経緯を推し量ってみたい。大づかみに捉えれば、衰退の最大の理由は丈夫で手軽で味の均一なペットボトル茶が登場したからに他ならぬだろう。
紹介する画像で分かるように、初期のポリ茶瓶は文字通り、本来焼き物の茶瓶をポリエチレン(テレフタレート樹脂)に置き換え、最小限の「形」をとどめていた。苦労して造形したであろう注ぎ口や、弦(つる)代わりの弱々しい針金に開発者の苦労がしのばれる。
ペットボトルに主役の座を譲ったワケ
実はポリ茶瓶が登場するまでは、陶器製の土瓶が使われていた。しかし、重い、割れやすい、扱いづらい――ことから、その役目がポリ茶瓶に取って代わられた歴史がある。
その経緯は皮肉にも、ポリ茶瓶がペットボトルに駆逐されたのと似ている。要するに使いづらい。使いづらければ、使いやすいものが好まれるのは当然だろう。
先に、ポリ茶瓶の衰退はペットボトルの「丈夫で手軽で味の均一な」優位性に及ばなかったからだと書いた。ポリ茶瓶の欠点はいわばペットボトルの利点の裏返しである。
まず、丈夫さ。例えば、誰もが思い浮かべることができるであろう500ミリリットルのペットボトルをつかんだ時のしっかりとした触感がポリ茶瓶にはない。ポリエチレン製品は柔らかいので、外部から加わった力で変形しやすい。熱湯に近い温度のお茶でふにゃふにゃの度合いも増す。
次に、手軽さ。ポリ茶瓶は基本的に、本体と蓋とで構成される。蓋はコップにもなる。しかし、初期型の蓋は被せるだけの構造であったため、中身がこぼれやすい。スクリューキャップで密閉できるペットボトルには敵わない。
そして、味。現行商品はティーバッグを使うものが主流のようだ。しかし、昭和時代にはたいてい別の大きなやかんから熱いお茶を注ぎ分けていた。このため、お茶本来の味よりも熱が引き出す樹脂特有のにおいを感じることが多かった。
昭和の列車旅に寄り添ったポリ茶瓶14種
今回披露するのは1970~77年の8年間に流通していた物件である。いずれも、さまざまなコレクションサイトから買い集めたものではなく、捨てずに取っておいただけのもの。もとより、四十数年後にまとめる記事のために保管していたわけではない。
取り上げるポリ茶瓶は14種。個々の容器に関する製造元の詳細は分からない。記事化を前提に収集したものではないため、入手の詳しい経緯や飲みごこちの記録もない。しかし、かろうじて、いつ、どこで購入したかのメモは残っていた。性分である。8年間という期間の特定もそのメモによる。小見出しの駅名はすべて国鉄(現JR)の呼称である。
1:岐阜駅、1970年、茶瓶型
コレクションの中で最も古い。注ぎ口に向かって左側の側面に「お茶」の浮き文字。右側の側面にはメーカーのロゴがあしらわれている。アルファベットの「K」を☆で囲んだデザインだ。強度を保ち、変形を防ぐためか、約10ミリの幅に4本の縦筋が刻まれている。この当時の基本的な形状で、本体の上にかぶせられた蓋をコップ代わりにして飲む。申し訳程度のつまみが取っ手の役目を果たす。
2:金沢駅、1970年、茶瓶型(注ぎ口なし:以下口なし)
「岐阜駅」と同時期に北陸方面で流通していたと思われる。「岐阜駅」が本物志向で注ぎ口を設けているのに対し「金沢駅」は省略。「おままごとのように、ちまちまと注ぎ口からお茶を出すのは時間がかかる」と開発者が考えたせいだろうか。あるいは、製造コストを下げるために省かれたのかもしれない。左右の側面には、お約束の「お茶」の浮き文字。片面22本の縦筋が刻まれている。
3:京都駅、1970年、茶瓶型(口なし)
形状的には「金沢駅」と同じタイプ。縦筋も同様に片面21本ある。「金沢駅」との違いを強いて探すと、看板たる「お茶」の浮き文字の背面。「金沢駅」は不規則な凹凸処理が施されているのに対し「京都駅」の背景はフラットだ。写真では見えないが「お茶」の看板の裏側の面には「南洋軒」の浮き文字が。調べてみると1889(明治)22年に滋賀県草津駅で開業した老舗のお弁当屋さんであった。
4:富山駅、1970年、茶瓶型(口なし)
前3種がいずれも、陶器製の土瓶時代からの形状に寄せようとしているのに対し「富山駅」は機能を重視しているように思える。これまでの商品との見た目の違いは全体的に丸みを帯びていることだ。「お茶」の浮き文字は一面だけ。コップを兼ねている蓋の形状も、これまでのものと比べ、丸みがある。1970年には大阪万博が開かれている。柔らかなデザインはそんな時代背景を映しているのかも。
5:金沢駅、1973年、茶瓶型(口なし)
1970年の「金沢駅」から3年後。お茶であることは自明だからか、定番デザインの浮き文字が消えた。便宜上、茶瓶型としたが、形状はほぼシンメトリー。強度を保つ工夫は縦筋から、側面に大きく確保した凹凸に変わった。針金の付けられているほうの側面には「富山駅」同様の曲面処理。コップ代わりにもなる蓋の取っ手は1970年の「金沢駅」と天地が逆。特につかみやすいわけではない。
6:福井駅、1973年、茶瓶型(口なし)
どういうわけか、北陸本線沿線の物件が多い。1973年の「金沢駅」よりも、さらにシンメトリー化が進んだ。現在のペットボトルの底に近いほうを切り取った感じである。蓋は付いているものの、もはやそれをコップとして使うのではなく、本体上部の縁から一気に飲むことを想定しているように思える。実際、4つの側面にほどこされた横書きの浮き文字が適度な滑り止めになっている。
7:名古屋駅、1975年、茶瓶型
形状、材質、細部デザインのいずれも「岐阜駅」と同じ。要するに、同一の金型から生まれた製品と思われる。ということは当然、製造会社も同じ。この記事における初出は1970年だから、少なくとも6年間は流通していたことになる。いわば、ロングセラーだ。「岐阜駅」との相違点は、弦の色だが、これは製造工程全体の中で「後加工」と呼ばれる作業なのでさして大きな違いとは言えない。
8:福島駅、1976年、茶瓶型(口なし)
「8月19日午前11時30分」という克明な購入記録が残っている。東京・上野駅発の鈍行列車で一路、北海道・えりも町を目指す長旅の途上で買い求めたものだ。見た目は1970年の「金沢駅」及び「京都駅」と同じタイプだが、弦を通す穴の開いた部分(向かって右側)の形状が異なる。強度保持のための縦筋は22本。浮き文字の書体は「京都駅」により近い。
9:長野駅、1977年、茶瓶型
「2月3日、しなの14号。50円」というメモが入っていた。ここから2つのことが読み取れる。第一に、このお茶は駅弁と共に、中央本線を走る「しなの」の発車前に車内販売で買い求めたらしいということ。14号は偶数だから、下り列車。つまり、長野発名古屋行きである。第二に、当時の販売価格が50円であったことである。蓋が今日のペットボトルに連なるねじ込み式となったのは特筆点だ。
10:塩尻駅、1977年、茶瓶型
長野県下の駅が続く。一見して分かるように「長野駅」とほぼ同じタイプである。「長野駅」の紹介時に詳しく触れられなかったので、改めて形状に言及すると、1976年以前のコレクションとの最大の違いはスクリューキャップ方式を採用したことだろう。これにより、ペットボトルに比べて劣っていた「こぼれやすい」弱点は解消された。蓋を除く本体の印象は「富山駅」に似ている。
11:熱海駅、購入年不明、茶瓶型
残念ながら、購入年が分からない。他の商品と比べて、しっかりと作り込まれている印象が強い。風格さえ感じる。注ぎ口が省かれていないという点で、1970年の「岐阜駅」もしくは、1977年の「名古屋駅」に匹敵する時期に流通していたのではないか。注ぎ口専用の蓋が設けられている点は特筆に値する。発売元は1888(明治21)年創業の東華軒。本体裏面には扱っている駅名が浮き文字でずらり。
12:駅名、購入年不明、ボトル型
1973年の「福井駅」の進化系と考えられる。茶瓶形状にこだわるがゆえに必須デザインとして付けられていた弦と決別し、ボトルとして独自の道を歩み始めようという覚悟さえうかがわせる。手なじみの良い緩やかな八角形のデザイン。半分の4面に木目調の滑り止めが施されている。スクリューキャップが採用されていることから「長野駅」「塩尻駅」と同時期に流通していたのだろうか。
13:駅名、購入年不明、ボトル型
前出のボトル型よりも一段と円筒形に近い。こちらもスクリューキャップを採用しているので、ほぼ同じ時期に開発、市場投入されていたと察せられる。側面に施された×印の連続模様は滑りにくくするための工夫だろう。「茶」の浮き文字の裏面には(株)いすゞ商事という浮き文字が読み取れる。本体形状の相次ぐボトル化は、来たるべきペットボトル時代の「夜明け前」といえるだろう。
14:函館駅、1977年、カップ型
コレクションの最後を飾るに相応しい珍品。むしろ、番外編である。便宜的に名付けた茶瓶型でなければ、ボトル型でもないからだ。そもそもこれをポリ茶瓶というくくりで扱ってもよいのかどうか。本体の材質は初期のカップヌードルに用いられたのと同じ、薄手の発泡スチロール。蓋は今日、コンビニで挽きたてコーヒーを買うと付いてくるものとほぼ同等品。裏面のイラストから察するに、どうやら青函トンネルが開通する前に就航していた青函連絡船の出航を待つ時間に買い求めたものらしい。イラスト下の「鉄道弘済会」はキヨスクの前身である。「函館丸山園」扱いで、30円であったことが分かる。