面白い人がいる、と紹介されたのはいつだっただろうか。数寄屋大工から建築家となり、今ではラグジュアリーブランドとのコラボレーションなども行うという。
そもそも数寄屋大工、数寄屋造りをすらすら説明できる人は少ないのではないだろうか。建築マニアならばともかく、普通ならせいぜい神社や仏閣を思い浮かべる程度だろう。なんだか伝統的なお堅いもの、という印象もおまけでつくかもしれない。
その数寄屋造りとは、そもそもどういうものなのだろうか。
そう問うと、佐野文彦は「とても大きな意味で、様々な材料を使っている建築のこと」だと答えてくれた。
数寄屋造りとは
草庵風の丸太や土壁などの意匠を取入れ洗練させた住居様式。柱に角材を用いず隅に皮つきの面皮 (めんかわ) 材を使い,長押 (なげし) を略し (ときには面皮の長押) 張付壁でなく土壁を用いて天井も棹縁天井とする。(中略)これらをもとに今日,料亭や一部別荘などに用いられる様式が成立した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
数寄屋造りのルーツというと、銀閣寺東求堂だ。社寺は建材としてヒノキが使われることがほとんどである。古代からヒノキは最高品質の建材として重宝されてきた。佐野によると、私たちの先祖は大きな神社をやたら建てることに熱中し、その建材としてヒノキを乱獲したらしい。その結果、鎌倉時代(!)には既に近畿周辺ではヒノキの大木が不足するようになったのだという。
ヒノキは成長が遅いうえに、250年程度たつと中が腐ったり穴が開いたりして建材としては使えなくなることが多い。そのため、足りなくなった材料分を埋めるべく成長の早いケヤキが採用された。さらに、前述した通り書院造りの発展や茶道の流行などを経て、竹とか草とか雑木とか、とにかくなんでも使うようになった。「粗野に見えるのに実は手間がかかっているということ」が洒脱であるということになったのだ。
これが佐野のいう「いろんな材料を使っている建築のこと」だ。
正直、こんなに自由なものだとは想像していなかったので驚いた。この感覚、多くの人に賛同してもらえるのではないだろうか。
大工から建築家、そして美術家として
佐野は数寄屋大工の出身だ。現在は建築家として、さらには建築設計だけでなくラグジュアリーブランドとのコラボレーションなども行う美術家でもある。大工になる前には競輪をしていたというユニークな経歴も持つ。
そもそも大工になったきっかけが、気になっていたコンクリート打ちっぱなしの中の薄暗い建物のドアを恐る恐る開けてみたところ、その店が北欧のアンティークのインテリアショップを営んでおり、ショールームに並ぶコレクションに圧倒されていたら、そのままバイトとしてスカウトされたことに端を発するというから、よくできた映画のプロットかと鼻白みたくなる。
1981年奈良県生まれ。京都、中村外二工務店にて数寄屋大工として弟子入り。年季明け後、設計事務所などを経て、2011年独立。現場を経験したことから得た、工法や素材、寸法感覚などを活かし、コンセプトから現代における日本の文化とは何かを掘り下げ作品を製作している。
2016年には文化庁文化交流使として世界16か国を歴訪し各地でプロジェクトを敢行。
様々な地域の持つ文化の新しい価値を作ることを目指し、建築、インテリア、プロダクト、インスタレーションなど、国内外で領域横断的な活動を積極的に続けている。(佐野文彦公式サイトより)
BizReach office
loftwork kyotooffice
そんな佐野は、平成28年度に文化庁文化交流使(長期派遣型)に選ばれ、世界各地に茶室を作る経験をする。フィリピン、オランダ、エチオピア…etc
miwa(フランス/パリ)
実に6個の茶室を世界中に建てて回ったのだ。一体、なぜ茶室だったのだろう。
茶室とはなにか
茶室というと、なんとなく薄暗くて狭い和室か、和の庭園の離れの小屋、といったイメージがある。そもそもは茶をたてて客をもてなすためのスペースを指していたはずだが、時代によっても違いがあるらしい。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、
茶事を行うための独立した部屋または建物。古くは茶の湯座敷,数寄屋,囲いともいい,江戸時代以降,茶室という。草庵茶室と書院茶室に大別され,約 3m四方の4畳半を基本とする(後略)
となっているから、とりあえずイメージ通りでいいようだ。
佐野は数寄屋大工だ。
だから直球的に茶室というのも頷けない話ではない。しかし、話を聞くとそこにはもっとシンプルで深遠な思惑があったらしい。
例えば、ヒノバーン(hinobaan)というセブ島の向かいの島、フィリピンでは二番目に大きい島に佐野が建てた茶室は、芝生の上建てた高床式の小屋だった。
hinobaan(フィリピン)
佐野が野原に茶室を建て、現地の人々にそこであなたたち流のおもてなしをしてくれと頼むと、彼らは合点とばかりに翌日豚を連れて来た。
そしてその場で絞めて炭をおこし、6時間かけて豚の丸焼きを作り、茶室に並んだ客人の前のテーブルにバナナの葉を引いて恭しく披露する。
香ばしく焼けた皮(豚の一番おいしい箇所)を小さく四角く切って客にサーブすれば、それが彼ら流のおもてなしなのだ(もちろん残った身の部分は、客人が退出した後、準備側の人間やその家族がどこからともなく集まって胃に収めるので無駄にはならない)。
hinobaan(フィリピン)
まるで戦前の日本の集落のハレの日のような彼らのおもてなし。これも佐野の考える茶室の役割なのである。
おもてなしのための箱、茶室
佐野は、茶室を作った理由を「ローカルの人がどのようにもてなしを行うのか、その人たちの思う、その土地流のもてなしを見てみたいと思った」と説明する。
茶室とは、茶を楽しむためのスペースでもあり、結界でもある。佐野も結界性をどのように確保すべきかを考えたと言っている。
紐一つ、ござ一枚でも、そこに境界が作られ釜がかけられればそこは茶室になりうる。野点の心持ちだ。壁があればもっと上等なだけだ。
ある意味もてなす場所が定義されればいいわけで、つまりおもてなしに使うのであれば、本来の用途を果たすと言ってもいい。
hinobaan(フィリピン)
lloydhotel(オランダ)
もちろん、今回の取り組みでは正式の茶の湯も行なっている。オランダではロイドホテル(lloydhotel)という古い建物を世界中のデザイナーがリノベーションしたホテルの一室に茶室をしつらえ、裏千家の師範を呼んで正当な茶会をしたそうである。これも佐野の中では、同じ「現地流のおもてなし」として成立する。
おもてなしとは?各地の感覚の違い
考えてみれば、東京オリンピック誘致の際のキーワードとして「おもてなし」という言葉はメジャーになった。佐野にとって「おもてなし」とはどういうものなのか聞いてみた。こう佐野は言う。
「実際には『気が利いている』ということで、なにかをしたりしてもらうことを意味するのではないかと感じます。最近は、あれもこれもつけます、とか多いですが、なにかのサービスパックみたいに感じることはありますね。なんでもかんでもできなきゃいけないではなく、万人に受けることを考えるのでもなく、あなただけのことを考えて用意しました、が、おもてなしの本質なのではないでしょうか」
まさに茶の湯の本質である。
「客をもてなすということで言うなら、やっぱり飲んだり食べたりとか、それが一番最初に相手のためにできることですよね。他の人を呼ばなくても、自分だけでもできる」
確かに茶を出すというのは、ミニマムなもてなしの方法でもある。古今東西、客が来ればまず水や茶を出し、その後は酒や食べ物、そこから踊りだったり歌だったり目を楽しませる、という流れは万国共通だ。訪問直後からタイやヒラメの舞い踊りでもてなされるというケースはほぼないだろう。
さらに佐野は、地域によって”おもてなし感”が違うと感じると言う。
「オランダでは、あなたはどうしたいをすごくよく聞かれるんですよ。受け入れられていると言うか壁がないと言うか」
実は筆者もオランダに住んでいたことがあるのでよくわかるのだが、やたら距離感が近い。オープンに迎え入れることがおもてなしと思っているのではないかと感じるくらいだ。お客さん扱いしない感覚が強い、と言えばいいだろうか。
佐野に言わせると、同じ欧州でも、フランスなどは違うらしい。相手と自分の間に見えない壁があるように感じることが多いのだそうだ(逆にそれを乗り越えると距離感が非常に縮まる)。
さらにアジアでは逆に客扱いすることがもてなしになるのではと言う。食べきれないほどのご馳走するとか、手土産攻めにするなどだ(もちろん相手による)。
茶の湯は相手のことを考えもてなすことを”型”として捉えた文化だ。
世界に目を向ければ、アフタヌーンティーや中国茶のように似たようなもてなしの文化は多くある。ただ、場所を専用に区切っているものは、考えてみれば少ないかもしれない。
そう考えれば、日本独自の「茶室」という結界の精神を、現地それぞれのもてなしに投入したのが佐野のやったことだと言えるのではないだろうか。場を作ることで、おもてなしという行為は結界の中でさらにくっきりとした形を作る。そして普段なら日常に埋没しがちな行為も、より鮮明に記録されることになるのだ。
伝統の技術と心を武器にして
最後になぜ大工のままでおらず建築家になったのか、と少し意地悪な質問をしたところ、佐野は「大工になる以前から、自分が好きで、引退することなく、一生続けられるクリエイティブな仕事がしたかった。アーティストってどうやってなったらいいかわからないじゃないですか。そもそも職業なのか。自分にとって具体的にそれがイメージできた職業が建築家だった」と答えた。
クリエイティブに何かを実現したいということだけなら、ただ勝手にものを作っていればよい。
しかし、佐野のように数寄屋建築の技術や茶の湯などの文化への深い理解をベースにするなら、そこには個と個ではなく、文化としての掛け合わせの妙が生まれる。
Design Miami Basel Tea Pavilion(スイス バーゼル)
今では美術家の肩書きも持ち、建築だけに留まらずに国内外を飛び回る佐野の活動は、まさにこれを体現しているのではないだろうか。
文化と文化を掛け合わせた先に、おもてなしだけでなく何が生まれていくのか。
今後も彼の活動から目が離せない。
なお、フィリピンの茶室だが、佐野がその後再び訪れたときには、開放感あふれる板敷きの間でおじさんが気持ちよさそうに昼寝していたそうである。