あお~げば~と~お~とし~、和菓子の恩~♪ なんて、替え歌を歌ったことはありませんか?(ないか、そうか……)
和菓子、特に練り切りラブなわたくしは、旅先でも和菓子屋さんを見つけるとふらふら吸い込まれてしまいます。自粛期間が終わったら、あきみずホイホイ探しの旅に出てみたいですねー。
さて、皆さまは、和菓子、というと何を思い浮かべますか? お団子、おまんじゅう、大福、どら焼き、ようかん、吹き寄せ……まだまだ数え切れないほどたくさんありますね。
でも、昔は砂糖が貴重だった、という話も聞いたことが。じゃあきっと贅沢品だったはず。どんなものがあったのでしょう?
今では比較的手軽な値段で買えるようになった和菓子、その歴史をちょっと覗いてみましょう。
果物=菓子?
和食のコースなどで、デザートに「水菓子」と書いてあるのを見かけたことはありませんか? 水の菓子、だったら水ようかん? などと思っていると、季節の果物が出てきて、これはこれでおいしいけれども……と、釈然としない気分になった経験のあるかたも多いはず。間違ってるの? 仲居さん、呼ぼうかな……。
いえいえ、間違っていません。これこそが「水菓子」です。
それどころか、そもそも「菓子」という名称が果物や木の実を指すものだったのだとか。江戸幕府ができた慶長7(1603)年に書かれた日本語→ポルトガル語辞典『日葡(にっぽ)辞書』にも、「菓子とは果物のことである」といった内容が書かれているそう。
加工品としての菓子のはじまり・唐菓子
しかし、「菓子」は果物を指すと同時に、奈良時代には現代に通じる加工食品としての意味合いも持ちはじめます。
米粉や小麦粉などを主原料として甘味や塩味をつけ、油で揚げた「唐菓子(からがし)」です。その名の通り、唐、現在の中国からもたらされたものですが、形状も調理法も多様で、必ず油で揚げなければならない、ということでもなかったようです。
上流階級で人気を博し、次第に庶民へと広がっていったといわれます。
次第に「和菓子」へ
平安時代になると、「椿餅(つばきもち)」なる名前が見られるようになります。餅の粉に、甘葛(あまづら)というブドウ科のつる植物の樹液を煮詰めた汁をかけて椿の葉で包んだもので、『源氏物語』にも蹴鞠を終えた殿上人達に提供された、と書かれています。
お茶と和菓子の発展
鎌倉時代、海を渡った僧侶たちによって和菓子が飛躍的な発展を遂げます。留学先である宋から最新の知識や技術を多数持ち帰ってきたのです。
特権階級の間では茶会が開かれ、茶と菓子の組み合わせが文献上で確認される時代です。ただ、どんな菓子だったか、というところは不明で、結んだ昆布や果物が茶と一緒に提供されていたのでは、と考えられています。
また、この時代には「菓子」という認識ではなかったようですが、後に甘いまんじゅうやようかんへと繋がっていく「点心」も伝来しました。室町時代には「砂糖まんじゅう」という名前が見られ、これが現在見るようなまんじゅうへと発展していったと考えられています。
キーパーソンはポルトガル菓子
日本文化は、意外と諸外国の影響を強く受けています。和菓子もその1つ。
戦国時代、南蛮貿易によって鶏卵を使用した菓子、カステラがもたらされます。基本的に植物から作られていた和菓子の、一大転機です。
また、砂糖は大変な貴重品で、室町時代までは甘み付けとして主に蜂蜜・甘葛・穀物から作った水飴などを使用していました。この時期にポルトガル船によって盛んに輸入されはじめた砂糖は、やがて国内でも黒砂糖や和三盆として生産が開始され、次第に庶民の手に届く存在となっていきます。
江戸時代は和菓子文化も繚乱期
江戸時代は町民文化が一気に花開いた時期ですが、和菓子も例外ではありませんでした。
菓子に「銘」が付けられる
慶長・寛永年間(1596~1644年)ごろになると、菓子に銘が付けられはじめます。さらに、元禄時代(1688~1704年)になると古典文学や四季折々の風景にちなんだ名前、『竜田川』や『難波津』などが文献に見られるようになります。
他の工芸、たとえば刀剣の鐔小道具などにも、この図とこの図があればこのモチーフを表す、といった決まり事がありますが、当時の人々には一般常識だったのでしょうか。なんとも雅(みやび)な世界です。
駄菓子も生まれた
飴などの駄菓子も、この時代に売られるようになりました。中には菓子を売りながらパフォーマンスをする行商の芸人もいて、当時のブームになっていたようです。
工芸品のような練り切りも
江戸時代後期には、白あん・砂糖・山芋などを練り、様々な色を付けて季節を感じさせる形に仕上げた「練り切り」が誕生します。
木型に押し付けたり、へらや指先などを使ったりして繊細に形作られた練り切りは見た目にも美しく、今でも茶席やお祝い席はじめ、広く愛されています。