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2020.03.25

海のない街へ魚を届ける電車があった!日本最後の「鮮魚列車」約60年の歴史をたどる

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『おさかな天国』という歌を覚えていますか? 食卓になじみ深い魚の名前を盛り込んだ歌詞と明るいメロディで、子どもを中心にとても人気が出た歌です。

魚介類は、お祝いの席の鯛の尾頭付きやお寿司、おせち料理の棒たら、毎日の食事に出てくる焼き魚や煮付けなど、日本人の祝いや日常の食卓に欠かせない食材。

しかし、今のような流通網が完成する以前、海から離れた街では鮮度の良い魚介類はなかなか手に入らないものでした。そんな時代に大きな役割を果たしたもののひとつが、新鮮な魚を背負い鉄道に乗って海から離れた街まで魚を売り歩いた行商人です。

今やほとんど見かけなくなっててしまった行商人。しかし、令和になってからあとも、関西にはまだ少ないながらも鉄道を使って魚介類を運ぶ人たちと、その人たちを乗せる専用の列車が走っていました。

産地から消費者へ。行商人は鉄道を使って荷物を運んだ

行商人は、自分の店を持たずにリヤカーなどを使って商品を運び、路上などで商品を販売します。路上だけではなく、ときには一般家庭を直接訪れて商品を販売することもありました。今の言葉で言うところの、ルート営業のようなものですね。

自動車がまだそれほど普及しておらず、道路の整備もあまり進んでいなかった時代、多くの荷物を担いで手軽に遠くまで行ける鉄道は行商人にとって貴重な足のひとつでした。

鉄道を使った行商人は、かつては日本のあちこちで見られたようです。たとえば京成電鉄は昭和10年(1935年)から野菜の行商人専用の「なっぱ電車」という列車を走らせていました。なっぱ電車の利用者は、大正末期(1923年ごろ以降)から増えた千葉・茨城方面から東京に向かう野菜の行商人でした。

なっぱ電車は戦後も走り続けましたが、昭和57年(1982年)に専用列車としての運行を廃止。通常列車の最後尾に行商人専用車両をつないで走らせていましたが、平成25年(2013年)にはその車両も廃止されました。

また、このほか国鉄(当時)の常磐線や房総線(内房線・外房線)などでも行商専用列車は走っていたそうです。

日本最後の行商列車。伊勢から大阪まで行商人を運ぶ近鉄「鮮魚列車」

時代の流れと共に行商列車は姿を消していき、なっぱ電車も平成25年(2013年)にその姿を消しました。しかし、関西にたった1つだけ、令和2年(2020年)になっても走り続けた行商専用列車がありました。それが、近畿日本鉄道(近鉄)の「鮮魚列車」です。

近鉄は、日本で最も営業距離が長い私鉄。大阪・京都・奈良などの関西圏の都市と名古屋・津・伊勢などの中京圏の都市を結び、総営業キロ程は501.1km。この距離は、東京~大阪間の距離にほぼ匹敵します。

鮮魚列車が走るのは、月曜日から土曜日までの週6日、1日1往復。朝は三重県伊勢市にある宇治山田駅から大阪市にある大阪上本町駅に向かい、夕方に大阪上本町駅から三重県松阪市の松阪駅に帰ります。

伊勢の魚の行商人たちは、朝、漁港で買い付けた魚介類を鮮魚列車に持ち込み大阪を目指します。そして大阪でお得意さんのところに魚を持っていったり自分の店で売ったりして商いを行ない、夕方の鮮魚列車で伊勢に帰るのでした。

鮮魚列車の運行が始まったのは、昭和36年(1963年)。それ以前は、行商人は一般の乗客と一緒に一般の車両を利用していました。しかし、魚介類をたくさん持った行商人の荷物は大きく、臭いもすれば保温用の氷などから水分も出ます。これでは一般の乗客にも迷惑がかかるため、専用の列車を走らせることになったのです。

魚の臭いなどがつきやすいことから、鮮魚列車には専用の編成車両が使われました。令和2年(2020年)に運行していた鮮魚列車は3代目。3両編成で、長時間の移動に対応できるようエアコンやトイレもついています。

なお、鮮魚列車は一般の列車ではなく、行商人の組合である「伊勢志摩魚行商組合連合会」による貸切運行列車です。そのため、この列車に乗ることができるのは連合会の会員のみ。一般の乗客や鉄道ファンなどが乗ることはできません。

鮮魚列車に乗った行商人たちはどこに魚を売りに行ったのか

では、この鮮魚列車を利用する行商人の人たちはどこに魚を運び、売っていたのでしょうか。以下、『行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて』を参照して簡単に紹介します。

まず、伊勢志摩魚行商組合連合会の会員は、松阪市・津市・伊勢市・鳥羽市という伊勢湾に面した地域の人たちです。主な行き先は大阪市内ですが、平成14年(2000年)頃までは奈良や京都方面に向かい、得意先を一軒ずつ回って魚を売っていた人もいました。

電車から荷物を下ろし、店に向かう人たち

また、大阪市内に向かう人は、大阪上本町駅などの駅で荷物を自家用車に乗せ換え、自分の店まで運んで販売します。鮮魚列車を利用して魚介類を運んだ人の多くは「伊勢屋」という屋号で鮮魚店を営むケースが多かったそうです。大阪市内で「伊勢屋」という鮮魚店を見つけたら、もしかしたらそこは、鮮魚列車を使って伊勢から魚を運んでいる人が興した店かもしれません。

姿を消す近鉄「鮮魚列車」。行商の人たちはどうなるのか?

鮮魚列車の利用者は、最盛期には100人以上いました。列車は3両編成なので、1両あたり30人以上いたわけですね。車両そのものの1両あたりの定員は170名なので、人数だけ見るとゆったりしているように思えます。しかし、どの乗客も荷物を多く持ち込んでいるため、実際はかなりぎゅうぎゅう詰めで乗っていたようです。

近年ではその利用者数もわずか約10人にまで減少してしまいました。さらに使用している車両も老朽化したため、近鉄は令和2年(2020年)3月14日のダイヤ改正をもって、専用列車としての運行廃止を発表。日本最後の行商専用列車はその姿を消したのです。

鮮魚列車がなくなったあと、利用していた行商人の方たちはどうなったのでしょうか?

心配ご無用。行商専用「列車」は廃止後は行商人専用「車両」が一般の通勤電車に接続され走るようになりました。現在、行商人の方たちはこの車両を使って三重から大阪まで変わらず新鮮な魚を運び続けています。

なお、行商人専用車両にも専用の車両が使われています。使用されているのは、伊勢志摩の魚介類を描いたラッピング車両「伊勢志摩お魚図鑑」。従来の鮮魚列車同様一般の乗客は乗ることはできませんが、近鉄によると、この車両を使ったツアーなどのイベントを企画しているとのことで、鉄道ファンからも熱い注目が集まっています。

行商人の歴史はまだまだ続く

日本人の食卓を支えてきた魚介類。その流通を支えてきた行商人や行商列車は、日本人の食卓の縁の下の力持ちのような存在のひとつだったのでしょう。21世紀になっても、元号が令和になっても、行商専用列車は走り続け、そのあとを引き継いた行商専用車も活躍し続けていす。今夜のメニューは魚料理にして、行商人の歴史に思いをはせてみませんか?

参考文献:
『行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて』 山本志乃著 創元社 2015年12月

鮮魚列車の写真は筆者撮影