今年こそ、京都ならではの花見を実現!
京都には美しいものがたくさんあります。
今から1200年も前の平安のころから連綿と受け継がれてきた歴史と伝統はいうまでもなく、その時その時を彩ってきた自然が往時のまま残っていて、身近に感じることができるところにも京都の美の一端を見ることができます。
そんな美が息づく古都に、日々刻々と移り変わる自然の情景に目を凝らし、最も魅力的な瞬間を逃すことなくシャッターを切り続けてきた写真家がいます。
その人の名は水野克比古さん。京都の名庭をテーマにした数々の写真集はもとより、『和樂』をはじめとした雑誌の京都特集などで、水野さんの写真は今や欠かすことのできないものになっています。
京都の美を知り尽くした水野さんが、自然をテーマにして、写真はもとよりエッセイやコラムまで手がけた本が『京都 桜めぐり、水辺歩き』です。
花盛りの桜散歩から名残の桜、花筏(はないかだ)、枝垂桜(しだれざくら)や山桜など、人の心を騒がせる様々な桜の美しさ――。
構図にこだわり抜いた写真家ならではの感性で切り取られた桜散歩のフォト・エッセイを読んでいると、ついつい心が京都へと誘われていってしまいます。
京都通がすすめる桜の名所 写真:水野克比古
哲学の道 開花情報
桜の散歩道として有名な哲学の道でもこの場所は、日本画家・橋本関雪(かんせつ)の邸宅「白沙村荘(はくさそんそう)」前。一帯の桜は、橋本関雪の奥さんが植えた桜が育って、現在のような名所になったのだとか。
嵐山 開花情報
秋の紅葉で有名な嵐山は、大堰川(おおいがわ)」の左岸に咲く山桜の間から渡月橋(とげつきょう)を眺めるのがベスト・アングル。早朝に訪れると人も車も少なくて、夢のような絶景を独り占めできる。
広沢池
開花情報は嵐山を参考に嵯峨野(さがの)にある広沢池は、谷崎潤一郎の名作『細雪(ささめゆき)』にも登場する山桜越しに眺めたい。花曇りの朝、水面に映った朝日とのコントラストの美しさは、まさに「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」の世界。
祇園白川 開花情報
花街にほど近い祇園白川のほとりは夜桜見物で大にぎわい。夕方から往来はひっきりなしだが、夜明け前に訪れると夕景のような趣の写真になるのだとか。
しかしなぜ日本人はこんなに桜に心惹かれるのか・・・
冬から春の節目にいっせいに花開き、入学や入社といった人生の門出を彩ってきた満開の桜。
その情景は、この国に暮らす多くの人の心に鮮やかな印象を残しているのではないでしょうか。
桜と日本人の縁(えにし)は古く、『古事記』や『日本書紀』に登場する木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、あでやかに咲きはかなく散る桜を象徴する神さまでした。
木花咲耶姫の「咲耶」が転じて桜という名称が生まれたという説があるのですが、民俗学においては、田の神を意味する「さ」と神の御座(みくら)の「くら」が結びついて「さくら」となったという説があり、農耕によって暮らしていたこの国の人々は、満開の桜には田の神が宿り、収穫まで見守ってくれるありがたい存在として崇めてきました。
奈良時代になると大陸からもたらされた文化の影響から、平城京の高貴の人々の間では、中国で愛好されていた香り高く色鮮やかな梅がもてはやされるようになります。
しかし、自然とともに生きていた庶民にとって、田の神が宿る桜こそありがたく、何物にも代えがたい存在であったことは変わらなかったようです。
京都に平安京が開かれると、中国直輸入の文化を日本風にアレンジすることが盛んになり、国風文化が豊かに実り始めます。
遷都を行った桓武(かんむ)天皇は当時、紫宸殿(ししんでん)に左近の梅を植えていたのですが、それが仁明(にんめい)天皇によって桜に植え替えられたこともあって、花といえば桜という考えが貴族たちにも広がっていきます。
それは、平安の歌人たちは桜に心を寄せた歌を数多く詠んでいることからも明らかです。
桜ブームの最初は平安時代
京都に平安京が開かれると、中国直輸入の文化を日本風にアレンジすることが盛んになり、国風文化が豊かに実り始めます。
遷都を行った桓武(かんむ)天皇は当時、紫宸殿(ししんでん)に左近の梅を植えていたのですが、それが仁明(にんめい)天皇によって桜に植え替えられたこともあって、花といえば桜という考えが貴族たちにも広がっていきます。
それは、平安の歌人たちは桜に心を寄せた歌を数多く詠んでいることからも明らかです。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
『伊勢物語』の主人公・在原業平(ありわらのなりひら)はこのように、桜さえなければ春はどんなに心穏やかにいられるものかと詠嘆。桜に心が乱されてしかたがなかったのです。
「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらきのもちつきのころ」
桜を愛し、桜の名所である奈良の吉野へ通いつめた西行法師(さいぎょうほうし)は、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望しました。
さらに『源氏物語』では紫の上が桜に例えられ、『古今和歌集』では桜を詠んだ春の歌が多数採られ、貴族たちは花見の原型である観桜会を開催。桜に対する日本人の感性や文化が築かれていったのです。
やがて武士の世になっても、人々の桜への思いは変わらず、豊臣秀吉が700本もの桜を醍醐寺(だいごじ)に移植させて最大に開催された「醍醐の花見」は今なお語り継がれるほどです。
江戸時代、桜は日本人の心の象徴となる
江戸時代に入ると3代将軍徳川家光が創建した寛永寺に吉野の山桜が大量に移植され、江戸で初めての桜並木が出現。8代将軍吉宗は庶民の行楽のための桜の名所を江戸の各地につくります。
そこで催された花見の宴では身分を問わず無礼講が許され、江戸庶民は花見を心待ちにして、桜に対する思い入れを深くしていきました。
「敷島の大和心を人問わば朝日ににほふ山桜花」
江戸時代中期の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が、朝日に映える桜こそ日本人の心の象徴だと歌ったように、桜は単に美しいだけでなく、精神性やカリスマ性さえも備えるようになっていたのです。
今の桜は昔の人が見た桜とは違う!?
実は、古い時代の人々が愛でていた桜はほとんどが〝山桜〟でした。山桜の花弁の色は白っぽく、開花と同時に葉もつける種類。奈良の吉野の千本桜は大半が山桜が大半を占めます。
江戸末期から明治にかけて桜の品種改良が盛んになり、今ではおなじみのソメイヨシノが誕生しました。
ソメイヨシノの特徴はピンクがかった花弁のはんなりとした色合いだけでなく、冬を過ぎて枯れ枝だけになっていた桜の木をたちまちのうちに満開へと変える魔法のような開花の様子と、いっせいに散っていく潔さにあります。
それが粋を愛する江戸の人々の心をとらえ、やがて全国に移植されるようになります。そして、ソメイヨシノの広がりとともに、日本各地に桜並木や公園といった桜の名所がつくられていったのです。
桜の盛りは春のほんの一瞬だけなのに、古くから人々の暮らしに密着し、人の心に寄り添ってきた記憶が受け継がれ、桜は日本人にとって特別な存在の花となりました。
そんな桜の歴史を彩ってきた様々な桜が、今も京都には残されています。
さて、今年はどこへ、どの桜を見に行きましょうか・・・。
『京都 桜めぐり、水辺歩き』写真・文 水野克比古 定価:本体1500円+税(小学館) 表紙の写真は立本寺の桜吹雪。
水野さんの『京都 桜めぐり、水辺歩き』は桜だけで終わるのではなく、山吹、石楠花(しゃくなげ)、牡丹(ぼたん)、藤、躑躅(つつじ)と季節を順に追い、杜若(かきつばた)や花菖蒲(はなしょうぶ)、紫陽花(あじさい)が咲く初夏へと続き、青紅葉(あおもみじ)などの新緑から苔にまで目が配られています。
そして、咲き競う花々や草木の美しい瞬間を、長く受け継がれてきた祭事や行事とともに味わうという京都の人ならではの楽しみ方までそっと教えてくれています。
この春から夏にかけて、これまでとは違った京都旅を考えている人にとって最上のガイドとなってくれることでしょう。