昔むかし、あるところに旧家の令嬢姉妹がおりました。2人は大財閥の御曹司兄弟へ、それぞれ嫁ぐことになりました。姉は兄のもとへ。妹は弟のもとへ。ただ、気になるのは弟が次期社長で兄が次期社長補佐であること。どうして兄が次期社長ではないのでしょうか?
この昔話にたとえた姉は御名部皇女(みなべのひめみこ)、妹は阿閇皇女(あへのひめみこ)。飛鳥時代末期に生まれた母を同じくする皇女姉妹です。彼女たちの運命の鍵を握るのは、なんと妹の姑でした。
皇女姉妹、いとこの皇子兄弟へ嫁ぐ
古代天皇家に起きた出産ラッシュ
古代日本史を揺るがした乙巳の変(大化の改新)から十数年後。我が国で2人目の女帝・斉明天皇(皇極天皇が重祚)の孫にあたる皇子(みこ)・皇女(ひめみこ)の誕生が相次ぎました。斉明天皇は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の母親です。
後に天智天皇となる中大兄皇子には661年に四女の阿閇(あへ)皇女が誕生。また、天武天皇となる大海人皇子には661年に次女の大伯(おおく)皇女、662年に次男の草壁皇子、663年に三男の大津皇子が生まれました。草壁皇子の母親は中大兄皇子の次女・鸕野讚良(うののさらら)皇女で、大津皇子の母親は鸕野讚良皇女の姉にあたる大田皇女です。
当時の日本は朝鮮半島内で起きた戦乱に巻き込まれ、天皇一家総出で現在の福岡へ西征していた時期でした。両皇子はそれぞれ妻たちを伴って西征していたのです。
ちなみに、天智天皇の三女・御名部(みなべ)皇女の生まれ年ですが、実はよく分かりません。彼女の生まれ年は658年とも660年とも言われています。このように、650年代半ば頃から660年代前半にかけて、古代天皇家では皇子・皇女の誕生が続きました。
時は流れ天智天皇没後に、叔父―甥間で皇位を争う壬申の乱が起きました。それまでは同世代がいる場合には兄弟間で行われていた皇位継承を、天智天皇は弟の大海人皇子がいるにもかかわらず、自分亡き後は子どもの大友皇子へと考えたのが事の発端とされています。彼は最初は皇位を弟皇子に譲るつもりでしたが、我が子の成長を見るにつれ、次第に考えが変わったようです。
その結果、天智天皇没後に即位した弘文天皇(大友皇子)が敗北し、大海人皇子が即位して天武天皇となりました。
なお、斉明天皇から天武天皇までの即位の順番を整理すると、斉明天皇⇒天智天皇⇒弘文天皇⇒天武天皇になります。
皇女姉妹、父方のいとこ兄弟のもとへ
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
亡き天智天皇の皇女たちが、天武天皇の皇子たちへ嫁ぐことになりました。
天智天皇の皇女は全部で10人(『日本書紀』に名前のない阿雅皇女を入れて11人とも)。すでに長女と次女の2人は叔父にあたる天武天皇に嫁ぎ、それぞれ子をもうけています。
まず、天智天皇の三女・御名部皇女は天武天皇の長男・高市皇子のもとへ、679年ごろには四女の阿閇皇女が次男の草壁皇子へ。壬申の乱で天智天皇から天武天皇へと皇統が変わったことにより、天皇家の結束を固める目的から、いとこ同士での結婚となったのです。年齢からみても長男のもとへは姉皇女が、次男のもとへは妹皇女が嫁いでいるので、とりたてて不思議な点は見当たらないと言えましょう。
大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子の生まれ年ですが、これは654年とも661年とも言われています。どちらにしても、大海人皇子の長男です。
姉妹になくて、いとこ兄弟にあるものとは!?
ただ、皇女姉妹といとこ兄弟で違う点があるとするならば、それはいとこ兄弟の母親が異なること。皇女姉妹は姪娘(めいのいらつめ)から生まれた同母姉妹。しかし、結婚相手の兄弟はそうではなかったのです。
高市皇子の母親は地方豪族・胸形氏の娘である尼子娘(あまこのいらつめ)で、草壁皇子の母親は前出のとおり天智天皇の次女・鸕野讚良皇女なのです。
姉妹になくて、いとこ兄弟にあるもの。それは母親が同じか異なるか、という点でした。
長男なのに皇太子になれないなんて!
実はこのことが「誰が天武天皇の跡を継ぐか」という皇位継承問題に大きく関わることになります。
斉明天皇には天智天皇と天武天皇の2人しか男児がいなかったので、これ以上、兄弟間での継承を続けることはできないのです(斉明天皇にはもう1人息子がいましたが、彼は夭逝したとみられるうえに、天智・天武の異父兄となるため皇位継承問題に直接関わりませんでした)。
そうすると、天武天皇の跡取りに誰が選ばれるのか? が問題となります。皇位を継ぐには、まずは次期皇位継承者に選ばれなければなりません。
生まれた順番を重要視すると、長男の高市皇子が皇太子になりそうですよね。しかし実際に皇太子となったのは、次男の草壁皇子でした。
高市皇子は健康体。対する草壁皇子は身体が弱く寝付くこともありました。それなのに、どうして草壁皇子が皇太子に選ばれたのでしょうか。
ウチのダンナは長男なのに……妹が嫁いだ草壁皇子は次男なのに……、どうしてどうして!? と、御名部皇女は思ったかもしれません。いえいえ、もしかすると草壁皇子が皇太子に決まる前から、とある理由をもとに諦めていた可能性もあります。
長男なのに皇太子になれない。
その主な理由は“母親の身分が低いから”でした。
出世の鍵は母方の実家の力次第
「卑母拝礼の禁止の詔(みことのり)」発令
それは草壁皇子が皇太子となる2年前のこと。679年の正月早々、天武天皇は諸王(皇族の男子)に対し、「卑母拝礼の禁止の詔」を発しました。
これは簡単に言うと、「自分の母親であっても、王の名を称していなければ拝礼してはいけない」というものです。
天智・天武、両天皇の皇子たちの中で、これに該当する皇子といえば、まず高市皇子の名が挙がります。彼の母親は前出のとおり、地方豪族・胸形氏の娘。王の名がつく皇族の女子でも、むろん皇女でもありません。胸形は宗像に通じ、九州の宗像三女神に関係している一族出身とも云われているため、自分たちが伊勢神宮で祀っている天照大御神(あまてらすおおみかみ)以外の神が崇め奉られるのを恐れた可能性もあります。
さらに追い打ちをかけるように、4カ月後には天智・天武、両天皇の皇子たち6人を集め、そこで「異母兄弟同士は互いに助けあい争わないこと。天皇に逆らわないこと」を誓わせるのです。
こうなると俄然、有利なのが、天武天皇の皇后となった鸕野讚良皇女を母親に持つ草壁皇子です。
天武天皇の三男・大津皇子の母親は鸕野讚良皇女の同母姉・大田皇女ですが、子どもたちが幼いうちに亡くなっていました。年齢も、特に後ろ盾がない大津皇子よりも、草壁皇子の方が1歳年上です。なによりも皇后の「自分の子どもを天皇にしたい」という気持ちが強く作用し、草壁皇子が皇太子に選ばれました。
あの光る君もそうだった
時代は異なりますが、平安時代に書かれた『源氏物語』の主人公・光源氏が臣籍に下ったのは、母親である桐壺更衣(きりつぼのこうい)の身分が低かったからとされています。桐壺更衣の父親は按察(あぜち)大納言でしたが、彼女が入内する前には亡くなっていたこともあり、実家の後ろ盾がありませんでした。
院政が始まる前の平安時代後期までは、母方の実家の力が出世に大きく関与していたのです。
天武天皇崩御の後に即位した人物は!?
さて、草壁皇子が皇太子に決まった後の皇女姉妹は、どうなったのでしょうか。
多少、時間軸が前後しますが、姉の御名部皇女は長男・長屋王を676年または684年に産んでいます。高市皇子と御名部皇女は、それぞれ天皇の子どもなのに、その子も含めて生年がはっきりと分かりません。
妹の阿閇皇女は680年に第一子の氷高(ひだか)皇女を、683年に第二子で長男の軽(かる)皇子を出産。さらに686年頃に第三子で次女の吉備内親王を生みました。
肝心の草壁皇子ですが、皇太子に決まったとはいえ、まだ20代前半。当時は統治能力の観点から、30歳以上にならないと即位できませんでした。
天武天皇は臣下に大臣を置かず、要職は皇族の諸王に任せる皇親政治を執っていたこともあり、彼は父のもとで政治的任務についての研修を重ねました。高市皇子は弟・草壁皇子をサポートしながら政務に励んでいたようです。
天武天皇崩御! いよいよ草壁皇子が即位!?
天武天皇が亡くなったのは、草壁皇子が皇太子になってから5年後のことでした。草壁皇子は20代半ばになっていましたが、すぐに即位することはなく、天武天皇の皇后・鸕野讚良皇女が称制(しょうせい)を執りました。称制とは正式に即位せずに執政することで、斉明天皇の没後など古代天皇家では過去にも行われていたのです。
彼は次期後継者として父・天武天皇の山陵造営工事の指揮を執っていましたが、病に倒れ、689年に28歳の若さで亡くなってしまいます。
空いた皇太子位は誰のものに
天武天皇が世を去り次いで皇太子だった草壁皇子も亡くなり、次の天皇に誰がなったのかといえば、それは天武天皇の皇后・鸕野讚良皇女でした。後に持統天皇と呼ばれる女帝の誕生です。天智天皇の皇女で天武天皇の皇后でもあり、称制をしていた彼女が皇位に就くことに特に不都合はないでしょう。
なお、三男・大津皇子は天武天皇が亡くなって間もなく、謀反を企てたことにより処刑されて既にこの世を去っていました。
そう、高市皇子は草壁皇子と大津皇子が亡くなったにもかかわらず、皇太子にはなれなかったのです。それどころか、皇位を継いだのは妻・御名部皇女の妹の姑でした。
その後の姉妹は……
姉・御名部皇女
その後の皇女姉妹ですが、御名部皇女の夫君・高市皇子は持統天皇のもとで太政大臣をつとめ政務を執り行っていました。太政大臣とは、かつて大友皇子(のちの弘文天皇)が就任したポストで、次期皇位継承者に近い官職です。
しかし、高市皇子は母親の身分が低いため天皇になることはついにできず、696年に亡くなりました。この時、御名部皇女は30代後半近く。彼女の嘆きはどれほどだったでしょうか。
2人の間に生まれた長屋王は阿閇皇女の次女・吉備内親王を妻に迎え、男児3人に恵まれ左大臣を経て右大臣にまで上り詰めました。長屋王が謀反の罪を被せられ自殺したのは、御名部皇女がこの世を去ってからのできごとです。息子の出世を見届け、謀反の罪を被せられる前に亡くなったのは幸いといえましょう。
妹・阿閇皇女
夫君を亡くした阿閇皇女のその後ですが、なんと天皇になりました。推古天皇・斉明天皇(皇極天皇が重祚)・持統天皇に次ぐ我が国で4人目の女帝です。持統天皇の後を継いだのは阿閇皇女の息子・軽皇子ですが、彼は即位後、わずか10年ほどで亡くなってしまいます。そこで彼女は息子の次に即位。後に元明天皇と呼ばれるようになったのです。
「え? また女帝!?」と驚く方もいると思いますが、実は飛鳥時代から奈良時代後期までの間は、女帝が何人か誕生した時期なんです。女帝というと、中継ぎとして登板したように思われがちですが、実際には中継ぎをしつつ後世に残る仕事ぶりを発揮していました。
たとえば、持統天皇は皇后として称制をしていた頃に、飛鳥浄御原令を完成・頒布。律令とは体系的な法典のことで、これは後に制定される大宝律令へとつながります。また、全国を対象とした戸籍・庚寅年籍(こういんのねんじゃく)を作成したため、これにより納税システムのもととなった班田収授の法が全国的に広がりました。
即位して元明天皇となった阿閇皇女は、国内で最初の流通貨幣と云われる和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)を鋳造させたり、古事記の編纂を太安万侶(おおのやすまろ)に命じて完成させたりしました。さらに710年には、都を藤原京から平城京へ遷したのです。日本史の教科書に出てくる事柄がたくさん並んでいますね。
同じ両親から生まれ、結婚相手もいとこ兄弟に嫁いだ皇女姉妹は、最終的には夫君の母親の身分から異なる境遇となりました。しかし、仲が悪かったようではなく、妹が即位後に詠んだ和歌
「ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」へ、「吾が大君 ものな思ほし 皇神(すめかみ)の 継ぎて賜へる 我なけなくに」と、励ます内容の和歌を奉っています。
参考文献
『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男著 角川書店 2005年1月
『平城京の時代』坂上康俊著 岩波新書 2011年5月
『女帝の古代日本史』吉村武彦著 岩波書店 2012年11月
『女系図でみる驚きの日本史』大塚ひかり著 新潮社 2017年9月