日本文化の入り口マガジン和樂web
12月5日(日)
慶良間見しが、まつげ見らん(沖縄のことわざ)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
12月3日(金)

慶良間見しが、まつげ見らん(沖縄のことわざ)

読み物
Culture
2020.10.02

討ち取った相手の首を洗うと、まさかの命の恩人だった…斎藤実盛の悲劇の最期

この記事を書いた人

死してなお、各地で語り継がれる人物がいる。有名どころでいうと、源義経。平泉で没したのが通説であるが、北へ密かに逃れて、蝦夷地を渡り、大陸にたどり着いてチンギス・ハーンになったという説もある。歴史好きの間では心をくすぐられる話だ。実際に、北海道には義経ゆかりの地がいくつかある。

語り継がれる理由は何だろうか。1つ言えるのは、「圧倒的な魅力」があるから。華々しい武勇伝であり、悲劇でもある。今回ご紹介するのは、斎藤実盛(さいとうさねもり)という人物。時代は遡ること850年前、源平合戦の混乱渦巻く中に、ある1つの逸話が生まれた。それは現代でもなお、語り継がれている。

恩に報いるために。源氏と平氏に仕えた斎藤実盛

斎藤実盛は平安時代末期の武士。生年月日は不明だが、越前長畝(のうね)城付近で生まれたとされている。13歳の時に武蔵国長井庄へ移り、斎藤実直の養子となる。はじめは相模国を本拠地とする源義朝(みなもとのよしとも)に仕え、後にその弟であり上野国に進出してきた源義賢(みなもとのよしたか)に奉公した。しかし1115(久寿2)年、義朝の子・義平と義賢の両者が武蔵国をめぐって戦いを起こし、義賢は討たれてしまう(大蔵合戦)。再び、源義朝・義平の元に仕えるが、義賢へのご恩は忘れておらず。義賢の子・駒王丸を保護し、信濃国の中原兼遠の元へ届けて命を救った。この駒王丸こそ、のちの木曽義仲となる人物である。

義朝が1159(平治元)年の平治の乱で敗れて謀殺されると、実盛は武蔵国長井庄に帰る。その後、長井庄は平清盛の二男・宗盛の領地となる。これまでの功績が認められた実盛は、別当として再び長井庄の管理を任される。そして、農民の住み良い土地づくりに尽力し、開拓、治水、土地改良などを進めたため、農民からの信頼を得た。1180(治承4)年に義朝の子・頼朝が韮山で挙兵するがそれでも平家方に留まり、頼朝追討に出陣する。そこからは、源平の戦いにおいて死ぬまで平家方に忠誠を尽くすことになる。

源氏から平家へと主君を変え、最後まで戦いつづけた実盛。大蔵合戦ではご恩のある源義賢、韮山での挙兵の後はご恩のあった源義朝の子・頼朝と対峙し、この乱世の辛さを十分に感じたことだろう。この悲劇は、最後の戦いへも尾をひくこととなる。

「源平英雄鏡 齋藤別当実盛」 出典:国立国会図書館

源平合戦・篠原の戦いで討ち死に

1183年、平維盛は源氏の木曽義仲を追討すべく、北陸に向かう。義仲はかつて助けた源義賢の子・駒王丸だが、実盛は主君へ忠誠を尽くすため追討軍に参加。両軍は現在の石川県と富山県の境にある倶利伽羅(くりから)峠付近に布陣する。維盛は数の上で義仲を圧倒していたが、地の利がある義仲は奇襲に出る。退路を断たれた維盛率いる平家軍は倶利伽羅峠の断崖の下へ放り出され、壊滅状態。10万人もの兵の大半を失い、維盛は、命からがら京へと逃げ帰った。

実盛は維盛を逃がすために奮戦。今の石川県加賀市付近を退却中に行われた篠原の戦いで覚悟を決める。この時の様子は、『平家物語』の「実盛の最後」で登場し、後々に語り継がれることになる(以下、尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より、一部抜粋)。

斎藤別当実盛は、その日、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧を着け、鍬形打った兜の緒を締め、黄金作りの太刀に、切斑の矢、重藤の弓という装立ちで、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置き、人目をひく颯爽たる姿で立ち現れた。木曽の家来、手塚太郎光盛は、実盛に目をとめて呼びかけた。「天晴れな見事なる装い、味方の落ちゆく中を唯一人、残られたは、一体誰方か、名乗らせ給え」。

(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)

味方の軍勢が落ち延びていく中で、覚悟を決めた実盛は、源氏の武将・手塚太郎光盛と対峙する。光盛の郎等がまず襲いかかり、実盛はその首をとる。しかし、その瞬間に光盛は左へ回り込み、刀で実盛を二太刀刺し、弱ったところを組んで落とした。そして、郎等に実盛の首を落とさせたのである。

首を洗って恩人・実盛と判明、義仲は泣き崩れる

実盛の首実検の様子。出典:源平栄枯盛衰記(国立国会図書館所蔵)

光盛はその首を持って、義仲の元に赴いた。

おかしな男を討ち取ってございます。唯の侍かと思うと錦の直垂(※)などを着け、大将軍かと思えば後に続く侍もなく、名乗れといっても名乗りたがらず、それに声は坂東声でござったようです。

(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)

※大将級の人が兜や鎧の下に身につける直垂のこと。

このように伝えたところ、すぐに義仲は実盛のことかもしれないと思う。関東に住んでいた武将で、今は平家に使える武将。それは、まさに自分が幼い頃にお世話になった実盛だろうと推測したわけだ。しかし、昔上野国で見たときは白髪が混じっていた。なぜ、今黒髪なのだろうかという疑問が湧いてくる。そこで、実盛と長年懇意のあった樋口次郎兼光を呼び、事実を確認させた。

樋口次郎は、実盛を一目見るなり即座に、「これは確かに斎藤別当でござります」と、いいながら、はらはらと涙を流した。

(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)

なぜ、兼光は一目見てわかったのだろうか。兼光は実盛から、ある話を聞いたことを思い出した。

実盛は常から、六十歳を過ぎて戦場に出る時は、 鬢、鬚を黒く染めて、年より若く見せようと思うといっておりました。若者たちにまぎれて先駆けをするのも大人気はなし、さりとて老武者と侮どられるのも口惜しいからじゃと申しておりましたが、やっぱりその通りにしたものと見えます。

(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)

※鬢(びん)とは、耳のそばの髪のこと。

つまり、武士としての誇りをもち続けるために、髪を黒く染めていたのだ。義仲がすぐに首を池で洗わせてみると、その通り白髪があらわになった。それを知った義仲は人目をはばからず、泣き崩れたと言う。


石川県加賀市には、この首を洗ったとされる「首洗池」がある。命の恩人を討ち取ってしまったという悲劇と、実盛の勇姿は後世へと語り継がれた。

石川から東京へ伝わった実盛の逸話

この実盛の逸話は石川県加賀市から、500km離れた東京都文京区に伝承。『江戸志』によれば、ここはかつて実盛が住んでいた場所「武蔵国長井庄」だという。しかし、埼玉県大里郡妻沼町のことだという説もあり、真偽は定かではない。何れにせよ、この地に伝わったことは確かなようだ。


江戸時代には、御中間(おちゅうげん)、御小人(おこびと)、御駕籠者(おかごのもの)と呼ばれる人々(※)によって実盛にまつわる場所が作られた。首洗いの井戸や実盛塚、実盛坂などが今に伝わる。首洗いの井戸と実盛塚に関しては、現在位置が明らかにされていない。

※御家人が就任した職で、江戸城内の雑事などを行った。

僕たちも実は歴史の語り手かもしれない

ところで、この話は最近たまたま知った。きっかけは、東京都文京区から石川県加賀市までの500kmを歩いている時のことだった(この旅については以前、和樂webの記事「東京-石川2週間550㎞の徒歩旅で2つの大聖寺を発見!日本移動史の裏側を知る」でも書いたが、歴史を掘り起こす充実した旅になった)。

スタート地点付近で、文京区在住の30代の女性に出会った。地域の歴史について詳しく、僕が石川県加賀市まで歩くことを伝えると、知っておくべき歴史があるということで、この実盛の話を教えてもらった。歩く旅のスタート地点とゴール地点が、「実盛」をキーワードに繋がっていたとは非常に驚いた。

さらに、女性は石川県加賀市出身で、現在は東京都文京区に住んでいるらしい。なんということだ!僕が文京区から加賀市まで歩くのに対して、その女性は逆に加賀市から文京区に引っ越してきた。

平安時代に加賀市で起きた事件が、江戸時代に文京区で語り継がれる。見方によれば、偶然にもそれを追体験できたわけだ。そして今、僕は語り手としてこの文章を書いている。こうやって、地域に息づく物語は偶然にも後世に伝承されていく。僕たちは皆、壮大な歴史の語り手であり、後世に伝える一翼を担っている。そう考えると、歴史に対するロマンは増していくばかりだ。

参考文献
『現代語訳 平家物語(下)』 尾崎士郎著 岩波現代文庫 2015年4月
『参考源平盛衰記 : 今古実録 巻之6』 編輯人不詳 栄泉堂 1883年11月(国立国会図書館所蔵)(※画像利用のみ)

▼あわせて読みたい、ロマンを感じる武士の記事
「海の古強者は死せず」肉体が滅んでも語り継がれる、89歳の武士・三浦義明のアッパレな最期

書いた人

千葉県在住。国内外問わず旅に出て、その土地の伝統文化にまつわる記事などを書いている。得意分野は「獅子舞」と「古民家」。獅子舞の鼻を撮影しまくって記事を書いたり、写真集を作ったりしている。古民家鑑定士の資格を取得し全国の古民家を100軒取材、論文を書いた経験がある。長距離徒歩を好み、エネルギーを注入するために1食3合の玄米を食べていた事もあった。