葛飾北斎や東洲斎写楽などと並び、世界的に有名な江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)。謎の多い生涯や代表作をご紹介します。
喜多川歌麿のプロフィール
歌麿がいつどこで生まれたのか、実はその正確な記録が残っていないため、ここでは宝暦3(1753)年出生という説をもとに絵師として大活躍した半生をご紹介します。
出生地も江戸や川越、京都と定かではないのですが、18歳ごろに、狩野派に師事した町絵師・鳥山石燕の門人となった記録があり、その存在がようやく確認されます。そこで絵を学び、北川豊章の画号で浮世絵師としてデビュー。北川は本名とされますが、浮世絵の名門であった北尾派と勝川派を組み合わせたという説も……。やがて「歌麿」を名乗るのですが、その表記は「哥麿」「うた麿」「歌麻呂」など様々ありました。
喜多川歌麿「青楼仁和嘉女芸者部 大万度 荻江 おいよ 竹次」大判錦絵 天明3(1783)年 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵
20代の歌麿は多彩な画風や媒体を手がけて〝自分さがし〟に明け暮れ、31歳で喜多川姓を用いるようになったころに、第一の転機を迎えます。そのきっかけとなったのは、公募で選ばれた狂歌に歌麿が絵を添えた『画本虫撰』など7作続けて発表した狂歌絵本です。
その精密にして写実的な絵に感心したのが、名プロデューサーとして浮世絵隆盛の一翼を担った版元・蔦屋重三郎。通称・蔦重に狂歌作家などを紹介されて交友を広げた歌麿は、画力に磨きをかけ、春画でも知られる存在となります。
喜多川歌麿「画本虫撰」はさみむし・けら(上)彩色摺絵入狂歌絵本2冊 天明8(1788)年 各27.0×18.5㎝ 国立国会図書館蔵
30代をとおして独自の画法や構図を胸に温めてきた歌麿の努力は、40代を迎えて一気に開花。狂歌絵本や春画で得た人気と、蔦重の引き立てもあって、かつては先達の真似でしかないと酷評された美人画において数々の実験的な作品を発表します。そんな中から生まれたのが、役者絵の大首絵の構図を美人画に用いた美人大首絵。この斬新なアイディアによって発表された「ポペンを吹く女」をはじめとした「婦人相学十躰」と「婦女人相十品」、「歌撰恋之部」などのシリーズが大ヒット。歌麿は浮世絵師として押しも押されもせぬ人気と地位を得るのです。
喜多川歌麿「青楼七小町 扇屋内瀧川 男なみ 女なみ」(右)大判錦絵 寛政6(1794)年ごろ 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵
しかし、幕府は浮世絵が風紀を乱すものと考え、老中・松平定信による寛政の改革によって、美人画に遊女以外の名を記すことが禁じられます。それに対して、歌麿は句を添えたり、絵の中に名前を暗示したものを描いたりして対抗するも、これも禁止に。さらに、寛政12(1800)年に美人大首絵の制作が禁じられると半身像や3人組を描き、取り締まりの裏をかいた工夫を次々に発表。歌麿はこのようにして、幕府の規制の盲点を突き、新しい分野を開拓し、意欲作を発表し続けるのです。
そんな反骨の絵師を幕府が黙って見逃すはずもなく、52歳になったころに、美人画ではなく「絵本太閤記」に取材した作品による思わぬ筆禍事件で、手鎖50日という重い刑を受けてしまいます。
喜多川歌麿「山姥と金太郎 耳そうじ」(部分) 大判錦絵 享和元~3(1801~1803)年ごろ 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵
その後復活するものの、画力は衰え意欲も失した歌麿は54歳で、かつて大人気を博した絵師とは思えない寂しい最期を迎えたのです。
喜多川歌麿『夏姿美人図』
美人画を描かせたらこの人の右に出るものはいないと言われた当代一の浮世絵師・喜多川歌麿の肉筆美人画はその真骨頂。「歌麿の白」とも呼ばれる肌色の艶(なま)めかしさは言うに及ばず、本作のように絽(ろ)の黒い絣(かすり)文様の優美な繊細さと、緑の帯に施された蔓草(つるくさ)の流麗さは、版画には見られない気高さが滲み出ています。
喜多川歌麿『夏姿美人図』一幅 絹本着色 101.5×31.9㎝ 寛成年間(1789〜1801)中期 遠山記念館蔵 重要美術品
懐中鏡を手に化粧直しをする女性を描いた肉筆美人画の名品中の名品。絽の着物とともに、足元に置かれた朝顔の団扇と虫かごが夏の風情を色濃く演出。気品のある顔立ちが歌麿美人の特徴です。
夏着の黒い生地の透けた感じや絣文様の繊細な線描が見所のひとつとなっているのも肉筆画の特徴であり、魅力。1点ものの肉筆画は当時から高価だったのは当然で、ましてや人気絵師だった歌麿の作品だから、かなりの富裕層からの注文品だったのでしょう。
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