世界中の建築ファンを魅了する世界遺産「ベルリンのモダニズム集合住宅群」。その一部「ガルテンシュタット・ファルケンベルク(1913-16年)」などを設計したドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、都市計画の世界的権威と評されています。そんなタウトが、日本の工芸に深く関わっていることをご存知でしょうか?
群馬県の伝統工芸品である「西上州竹皮編」(にしじょうしゅうたけかわあみ)。竹の皮を編み作られるパン皿や盛かごなどの工芸品は、日本生まれでありながら、欧州の雰囲気が漂う美しいデザインが特徴です。
実は、この「西上州竹皮編」は、1934年に群馬県高崎市に滞在していたタウトの指導により生み出された工芸品。個人的にも、群馬県立歴史博物館で当時作られたバスケットを目にした時、モダンでお洒落な雰囲気に惹かれたのを覚えています。
どのようなきっかけでタウトは日本にやってきたのか? どうして高崎で工芸品を作ったのか? そんな疑問を解消すべく、本記事ではタウトがプロデュースした伝統工芸と、その裏に隠された「タウト高崎滞在の歴史」をご紹介します。
建築家、ブルーノ・タウト
ブルーノ・タウト(1880-1938年)は、ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)生まれの近代を代表する建築家です。
同地の土木建築学校を卒業後は、ドイツの建築家・テオドール・フィッシャーに師事。その後は、ドイツの都市計画に多く関わり、ライプツィヒ博覧会の「鉄のモニュメント(1913年)」ドイツ工作連盟展の「ガラスの家(1914年)」などを発表し、表現主義建築の代表として世界にその名を広めました。
冒頭に紹介した「ベルリンのモダニズム集合住宅群(1913-16年)」の一部は、ドイツがワイマール共和国だった時代の建物で、低所得労働者の生活環境改善を目的に建設された背景があります。労働者の立場に立ち、住民の生活に寄り添うタウトは、多くの住民から敬愛されたと伝えられています。
高崎で多くの工芸品をデザインしたタウト
建築家として素晴らしい功績をおさめたタウトですが、ヒトラー率いるナチス政権に身の危険を感じ、亡命を余儀なくされます。
そして、1933年、妻のエリカ夫人と共に日本にやってきました。約3年半の日本での滞在は、以下のように伝えられています。
タウトは、昭和11年10月までの3年半、日本に滞在していました。この3年半を滞在地別に分けると、日本の伝統を初めて見聞した京都滞在期、仙台の商工省工芸指導所嘱託を努めた仙台滞在期、高崎の少林山に住み群馬県工業試験場高崎分場嘱託(昭和11年群馬県工芸所に改組)と井上房一郎の経営する井上工房顧問を勤めた高崎滞在期の3つに分けられます。高崎での生活は、2年3カ月余りに及びました。
(以上、群馬県高崎市公式ホームページより)
桂離宮をはじめ、日本建築や文化に関心を示したものの、日本では本来の仕事である建築の仕事に恵まれなかったタウト。約3年半の日本での生活を「建築家の休日」と話していたそうです。
最も長い滞在時間を過ごした高崎では、実業家であり「群馬県の文化の父」と呼ばれる井上房一郎氏(以下、井上)の後ろ盾で、エリカ夫人と少林山達磨寺「洗心亭」に滞在しています。高崎を特に気に入ったタウトは、建築ではなく、工芸のデザイン指導や文筆活動をはじめました。
タウトが行った指導とは、近代化が進んでいた当時の日本の生活様式に即した製品デザインのこと。西上竹皮編や家具など、タウトが指導した工芸品は、群馬県の工業試験場で試作がおこなわれ、地場産業を支える職人たちの手によって商品として生産されました。
それらは、井上とタウトの共同製作を意味する「タウト・井上印」が押され、井上が軽井沢と銀座で経営する家具工芸店「ミラテス」で販売されました。1935年にオープンした銀座店には、女優や作家など著名人が来店し大賑わい。さらに、東京日本橋の丸善では「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」が開催されました。芸術性の高い工芸品が人々へ普及し始めた豊かな時代だったことがうかがえます。
タウトは、1936年に日本を離れ、トルコのイスタンブール芸術大学教授に赴任。トルコ政府の建築顧問として建築家の活動を再開しました。1938年に心臓疾患でこの世を去るまで、トルコでは建築の仕事で多忙を極めていたといわれています。
唯一の継承者が語る「西上州竹皮編」
わずかな時間の中で花開いた、ブルーノ・タウトの指導による日本の工芸。
ここからはそんな工芸品のひとつ「西上州竹皮編」の唯一の継承者、前島美江(まえじまよしえ)先生(以下、前島先生)の工房「でんえもんときわ」で、制作を見学しながらお話を伺いました。
旧中山道の赤坂通りを下ると前島先生の工房「でんえもんときわ」(高崎市常盤町)が見えてきました。築80年の長屋をリフォームしたスペースは、長く息づく歴史やものづくりの精神を感じる空間です。
今回、素敵な着物姿で出迎えてくれたのが、群馬県ふるさと伝統工芸士として活躍される前島先生。現在、制作活動以外に工房で竹皮編みの作品展示や後継者育成等の普及活動を行い、福岡県八女市では竹皮編みの材料となるカシロダケの保全活動を行っています。緊張もほぐれたところで、どのようにして「西上州竹皮編」が生まれたのか尋ねました。
「竹皮編みは、その名の通り、竹の皮を編んで作られる伝統工芸品のこと。戦前、群馬には、高崎を中心に南部表(なんぶおもて)と言う高級で質の高い雪駄(せった)を作る職人が多くいたんです。職人の技術を高く評価していたタウトによって、職人の技術力とタウトのデザイン、そして南部表の原材料をかけ合わせて竹皮編みが生まれました」と前島先生。
建築家でありながら、家具や工芸といった生活に関わるものづくりを積極的に行ったタウト。その土地ならではの素材の特性や職人の技術を活かした工芸品からは、都市計画の権威と言われるタウトの精神を感じることができます。
竹という日本人に馴染み深い植物がタウトの感性に響き、「西上州竹皮編」は伝統工芸と呼ばれるまでの産業に発展したのですね。
時代と共に途絶えた「西上州竹皮編」
全盛期には400人もの職人が生産を支えていたそうですが、第二次世界大戦中、そして1970年代頃の2度に渡り「西上州竹皮編」は途絶えてしまいます。
職人の手仕事で作る竹皮編みは量産することが難しく、高度経済成長時代には、手仕事の手間と価格が釣り合わなくなり、職人も製品も消えていきました。
2度も途絶えた「西上州竹皮編」を前島先生はどのようなきっかけで継承したのでしょうか?
「この道に入って今年で約32年になります。生まれは前橋、進学で上京しました。女子美術大学の産業デザイン科でプロダクトデザインを学び、在学中は工業デザイナーの秋岡芳夫(あきおかよしお)さんのモノ・モノ運動にも参加していたんですよ。それから卒業後、建築事務所で働き、設計や造園など仕事をしていました。
当時、民族文化映像研究所の仕事を手伝う機会に恵まれ、そこで里山のフィールドワークを経験しました。そこから、山に暮らす人々の手仕事に興味を持つようになったんです。
そして、タウトの弟子といわれる水原徳言(みはらよしゆき)さん(以下、水原氏)の寄稿記事に出会い、竹皮編を継承する道に進みました」 と前島先生。
仕事を辞めて、未経験の手仕事につくことに不安がなかったのか? と尋ねると、「むしろワクワクしていましたよ」と途絶えた伝統の継承に携わりたいと情熱と希望を持っていたと当時を振り返ります。
前島先生が竹皮編みをはじめた頃は、職人もおらず、技術も途絶えかけていたといいます。そこで竹皮編みの仕事に最後まで携わっていた職人さんや群馬県工業試験場の技師だった方々を訪ね、貴重な資料を見せてもらい、少しずつ技術を習得したそうです。
前島先生が師匠と話す水原氏は、井上房一郎が経営する井上工芸研究所の研究員であり、タウトが工芸品を制作するのに協力した工芸運動の中心的な人物です。タウトと親交が深く、水原氏の協力なしにタウトの工芸は実現しなかったと伝えられています。
取材に伺った際、工房には、昔の職人さんや協力者から譲り受けた希少な試作品が展示されていました。
前島先生は、残された作品や設計図などの資料を紐解きながら、タウトの復元品やオリジナル作品を作っています。それらは、パン皿、盛かご、弁当かごなどの日用品から、ねこちぐらまで、現在の生活にも役立つお洒落な道具ばかり。前島先生いわく「竹皮編みの製品は、使えば使い込むほど味わいがでるのが魅力です。手入れしながら、長く可愛がって楽しむというのも文化です」とのこと。
製作工程を見ながら、出来上がった道具を手に取ると、手仕事ならではの温かさや豊かさをより感じることができました。
「でんえもんときわ」では、前島先生の作品の展示販売の他、毎木曜日にワークショップ、古老の話を聞くときわ講座も開催されています。タウトの精神が生きる群馬県の伝統工芸品「西上州竹皮編」とその素晴らしい技術を体験しにぜひ、工房を訪れてみてください。
でんえもんときわの概要
でんえもんときわ:http://denemon.web.fc2.com
住所:群馬県高崎市常盤町3
TEL:027-371-7471