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2021.05.20

80年ぶりに見つかった幻の絵巻物から「承久の乱」を大解説!朝廷と武士による世紀の争いを目撃せよ

この記事を書いた人

歴史上の戦を知るアプローチはいくつかあります。1つは史料を読む。たとえばその当時生きていた人物によるリアルタイムの記録です。日本の貴族には日記を書く文化があったので、かなり参考になる史料があります。

2つ目は軍記物語。物語ではありますが、戦の流れや人物のエピソード、当時の思想などが垣間見える貴重な史料にもなります。

そして3つ目は絵巻物。物語に絵を加えた巻物です。もちろん軍記物語よりさらに後世の作品ではありますが、近い時代に作られたものや、キチンと考証されている絵巻物ならば、当時の装束や風景を考察できる重要な材料です。

私の「推し戦」である承久の乱でいえば、史料と呼べるものはほとんどありません。貴族の日記は、鎌倉幕府からの追求を逃れるためか、承久の乱があった承久3(1221)年前後の記録がごっそりと失われていて、『吾妻鏡』や『承久記』など、わずかしか残っていません。

『吾妻鏡』は乱から50年近く経ってから編纂されたものですし、『承久記』は軍記物語です。しかし、『承久記』の中でも最古形態であるとされる『慈光寺本(じこうじ ぼん)』は、乱の直後に書かれたものであろうと言われ、史料的な価値があると評価されています。

そして絵巻物に関しては、実はあまり知られていませんでした。古い書籍にはわずかに記述があるだけです。昭和14(1939)年に後鳥羽天皇の死後700年ということで、現在の京都国立博物館で展示されていたことがわかっています。しかしそれを最後に所在不明となっていました。

この世のどこかに推し戦を描いた巻物がどこかにある! 存在を知った時はジタバタするほどもどかしさを感じていました。それから数年。ついに承久の乱を描いた『承久記絵巻』が再発見されたのです!

え? この件について、この世界で私以外のどのライターが書けるっていうの? というわけで気合を入れて上洛し、職権乱用……じゃなかった、取材として舐め回すように拝見してきました!

『承久記絵巻』と『承久記』

幻だった『承久記絵巻』は、木箱に納められていて、とても良い保存状態で発見されました。木箱には「土佐光信(とさ みつのぶ)画」「月輪禅定(つきのわ ぜんじょう)筆」と書かれています。

土佐光信は室町時代中期から戦国時代前期にかけて活躍した画家で、日本画の一派「土佐派」の中でも特に優れた3人の1人と言われる人物です。

そして月輪禅定は九条兼実(くじょう かねざね)の出家後の名前です。しかし九条兼実は鎌倉時代の関白。文字を書いた人と、絵を描いた人の年代が合いません。

しかも巻物の装丁や着色から見ると、江戸初期に書かれた巻物だろうと推測されます。これらは一体どういうことなのか、今後の研究が待たれます。

絵巻物の内容

『承久記』にはいくつかのバージョンがあります。主なものは最古形態の『慈光寺本』の他、広く世間に知られた『流布本』。前田家に伝わる『前田本』です。

『承久記絵巻』にはその中の『流布本』の内容が書かれています。しかし『流布本』は漢字とカタカナで書かれているのに対して、絵巻物は漢字とひらがな。どちらかというとひらがなが多めです。

そして描かれている絵も「あの場面描かないで、その場面描くの?」といったちょっと不思議な絵もあります。

どんな絵かは……残念ながら写真をお見せすることはできないのですが、そのイメージとともに実際に承久の乱の流れを追いながら見ていきましょう!

承久の乱と承久記絵巻

後鳥羽上皇が権力をふるっていた時代、京の警備兵であった北面武士(ほくめんの ぶし)は弱体化していました。そこで後鳥羽上皇は、鎌倉の3代目将軍となったばかりの源実朝(みなもとの さねとも)の後ろ盾になる代わりに、鎌倉御家人を京の警備のために派遣して欲しいと要請します。

それが西面武士(さいめんの ぶし)です。

後鳥羽上皇、西面武士を設置

『承久記』の流布本には下記のように描かれています。

後鳥羽天皇は鎌倉幕府に、武芸が達者な10人の武士を西面武士として取り立てたいと命じましたが、実際に幕府が寄こしたのは6人でした。

その6人は津田筑後六郎・賤間若狭兵衛次郎・原弥五郎・突井兵衛太郎・高井兵衛太郎・荻野三郎と『承久記』にはあります。

おそらく原弥五郎は、鎌倉御家人でも勢力のあった千葉氏の庶流でしょう。原親朝の通称が弥五郎ですが、詳細はわかりません。

高井兵衛太郎は和田義盛(わだ よしもり)の甥の高井重茂(たかい しげもち)でしょうか。

荻野三郎は梶原景時(かじわら かげとき)の孫、荻野景継(おぎの かげつぐ)と思われます。あとの津田さん、賤間さん、突井さんのことは、私はわかりませんでした。

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絵の中の6人は上皇の前なので兜を脱いでいますね。でもちょっと武士たちの頭に注目してください。頭頂部を剃っています。

この髪型は月代(さかやき)というのですが、鎌倉時代にはまだありませんでした。鎌倉時代の男性は上流階級も庶民もみんなマゲを結っていてその上に烏帽子を被っています。

当時の男性にとって、マゲは一人前の大人の男である証です。そして烏帽子は被ってないと恥ずかしいもので、寝ている時も外しません。兜を被る時も、マゲと烏帽子を兜の頂点にある穴に通して固定します。

ですのでこの絵は室町時代以降の、烏帽子を常に被る習慣がなくなってからのものとわかります。

建保7(1219)1月27日源実朝、鶴岡八幡宮拝賀

鎌倉幕府3代目将軍、源実朝は、若くして出世して、右大臣となりました。つまり日本でナンバー3の権力者です。

実朝は右大臣となったことを鎌倉の守り神である鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)に報告しに訪れます。いわば、レセプションパーティーですね。

京からお呼ばれした公家たちやお供の武士たちとパレードをしながら鶴岡八幡宮に入り、儀式をしました。そして儀式が終わった後に、当時鶴岡八幡宮の別当(べっとう=責任者)となっていた、2代目将軍・頼家の息子、公暁(くぎょう/こうきょう)に実朝は命を奪われてしまいます。

おもしろいのは、先ほどの御簾の中の後鳥羽上皇と同様に、実朝も牛車の中にいて姿を描かれていないことです。これはこの先の絵も同じで、一貫して高貴な身分の人物は描かれません。

それからこのシーンを描くならば、今まさに公暁が実朝に襲いかかるシーンを描きそうなものですが……。でもそれだと、実朝の姿も描くことになってしまいますかね?

そしてこの絵で注目したいのは、行列に並んでいる人々の服装です。人数は少ないですが装束や色は『吾妻鏡』に準拠しているように見えます。もしこの絵を見る機会があれば、『吾妻鏡』の建保7(1219)1月27日の記事と見比べて見てください! あなたの推し人物が見つかるかも!?

京に帰る公家たち

本日の「なんでこのシーンを絵にしたんだろう」ナンバーワン。実朝の右大臣就任レセプションパーティーにお呼ばれして、惨劇を目にしてしまった公家のみなさんが、2月になってようやく解放されて「いやぁ、まいったまいった」と京へ帰っていくシーンです。

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背景に富士山。足元には川。ここは駿河国の浮島原(うきしまがはら=静岡県沼津市から富士市にかかる湿地帯)です。

ここで西園寺実氏(さいおんじ さねうじ)が、春霞みの空に飛んで行く雁をながめて和歌を詠みます。この絵ではおそらく手をかざして遠くを見ている人が西園寺実氏でしょうか。

春の雁の 人にわかれぬ ならひだに 帰る路には 鳴きてこそゆけ

春の雁よ。人と別れて北へ行くのは毎年のことなのに、どうして嗚きながら行くんだい?

この歌を聞くと、周りの公家たちも大泣きしてしまいました。

現代では2月は真冬ですが、旧暦を使っていた当時の2月は春。雁は春になるとシベリアなどの北方へ渡り、秋の終わりに日本に帰ってきます。

公家たちは北へ行く雁たちと京へと帰る自分たちを重ね、その寂しそうな鳴き声に、突然命を奪われてしまった実朝との別れを悲しむ心を呼び起こされたのでしょうか。

将軍候補の九条三寅、鎌倉へ下向

一方、突然将軍を失ってしまった鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の皇子を将軍候補として鎌倉へ迎えようとします。しかし、当の後鳥羽上皇に断られてしまったので、当時の摂政・九条道家(くじょう みちいえ)の幼い息子、数え2歳の三寅を将軍候補として迎えました。

『承久記』には、三寅を迎えに行った12人の鎌倉御家人の名前が書かれていますが、絵の中に馬に乗った鎧武者は5人しか描かれていません。

三浦朝村(みうら ともむら)・三浦胤義(たねよし)・大河津次郎・佐原盛連(さはら もりつら)・佐原家連(いえつら)・天野政景(あまの まさかげ)・その子息大塚太郎・筑後左衛門尉・結城朝光(ゆうき ともみつ)・長沼宗政(ながぬま むねまさ)・千葉秀胤(ちば ひでたね)・千葉胤綱(たねつな)のうち、誰でしょうね。

しかしこの後、すんなりと次期将軍が決まったわけではありません。2代目将軍・頼家にはもう一人男児が残っていました。名前は禅暁(ぜんぎょう)。

鎌倉幕府内でどういったやりとりがあったのかは残っていません。しかし禅暁は1年後の承久2(1220)年4月14日、北条の手によって暗殺されてしまいました。

禅暁の母は嘆き悲しみ、彼女の再婚相手である三浦胤義は、仇を取るために一家揃って京へ移住しました。

藤原秀康と三浦胤義の密談

それからまた1年経った承久3(1221)年4月のある雨の夜。三浦胤義は後鳥羽上皇の側近である藤原秀康(ふじわら ひでやす)の屋敷に呼ばれて酒を飲んでいました。

胤義は、鎌倉幕府内でNo2となっていた三浦一族の長・三浦義村(みうら よしむら)の弟です。秀康は彼を引き込むために京に来た事情を聞き出していました。

そこで胤義も禅暁の仇を討つため、北条へ復讐するため、北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の命令文)が欲しいのだと語ります。秀康は胤義の兄義村をこちら側へつけるように約束し、後鳥羽上皇ヘ報告しました。

ちなみにこのシーン『承久記』だと、胤義がいかに自分の妻が可愛くて愛しくて、それゆえにどうしても北条が許せないと語るシーンでもあります。あまり歴史学では注目されてないですが、このシーンの胤義にキュンとなる女性は多いと思います!(あえての断言)

大江親広、後鳥羽上皇の元へ

秀康の報告を聞いた後鳥羽上皇は早速軍議を開いて、鎌倉を攻めることにしました。その前哨戦として、北条義時の妻の兄弟である伊賀光季(いが みつすえ)を討ち取ることにしました。

後鳥羽上皇は京にいる武芸者に「流鏑馬をするので集まれ」とお触れを出します。光季は普段からこういった催しには、鎌倉に義理立てして参加しません。

そこで今回も来なければ、後鳥羽上皇の命令に背いたとして討ちとり、来たら取り囲んで討ち取ろうという作戦です。

御触れを見て集まって来た中には、多くの在京御家人がいました。その中の1人が鎌倉幕府の重鎮・大江広元(おおえの ひろもと)の息子、親広(ちかひろ)でした。

そして物語は2巻に続きます。

伊賀光季邸での緊急会議

絵巻の2巻は、伊賀光季邸の攻防戦を描きます。

後鳥羽上皇の動きを察知した光季は家来たちを集め、命が借しければ逃げてもいいと話します。何人かは逃げて行ってしまいましたが、昔からの恩がある27人の家来たちはその場に残って戦う覚悟を示しました。

描かれているのは後鳥羽上皇の軍勢が攻めてくると伝えられた瞬間でしょうか。家来たちの表情が今にも「え~マジっすかぁ!?」と言いそうな面白い絵です。

寿王光綱の覚悟

伊賀光季には元服したばかりの息子がいました。14歳の光綱(みつつな)。幼名は寿王(じゅおう)といいます。

光季はせめて寿王を逃がそうとしますが、寿王は父と運命を共にする覚悟で戦仕度をしました。

絵の場面では寿王が家来に着付けてもらってる様子です。ぷっくりほっぺに色白の肌。寿王くん、美少年に描いてもらってますよ!

戦闘開始!

ついに伊賀光季邸に後鳥羽上皇の軍勢が攻めて来ました。光季たちも矢を放って応戦します。

この絵の場面の後鳥羽勢、『承久記』のとおりなら、おそらく馬に乗って刀を振り上げているオレンジの武士が三浦胤義ですので、注目して見てください!

寿王VS佐々木高重

後鳥羽勢の中には、佐々木高重(ささき たかしげ)という武士がいました。高重は戦が始まる前まで寿王と親子のように慕い合っていました。

絵の場面は、寿王が高重に向けて矢を放っている所です。

この時、寿王が放った矢は高重の鎧の袖の板に刺さりました。高重は退却すると、鎧の袖に刺さったままの矢を周りに示し「まだ幼さが残る少年が、こんなに強い矢を放ったぞ」と言って見せびらかします。しかし、この後の寿王の運命を想うとみな目に涙を浮かべました。

ついに光季邸に火が!

奮戦した伊賀光季たちですが、家来たちが逃げ出したり、命を落としたりして、伊賀光季と寿王と2人の家来だけになってしまいました。もうここまでだと、屋敷に火を放ちます。

絵の場面は、屋敷に火をかけた瞬間でしょうか……。

炎に包まれる中で4人は自害して、この戦は後鳥羽勢の勝利に終わりました。絵は、自害する前の館に火をつける場面です。やはり直接残酷なシーンは描かないようですね。

しかし伊賀光李は密かに使いを北条義時に出していました。そして夜には後鳥羽上皇による義時追討の院宣の使いと、三浦胤義が兄の義村を後鳥羽勢に引き込むための手紙を持った使いが鎌倉に向けて出発しました。

使いたちが鎌倉に到着

3人の使いはほぼ同時に鎌倉に到着しました。突然、後鳥羽上皇から北条義時を討てと言われて慌てふためく鎌倉御家人たちですが、三浦義村は弟・胤義からの手紙を集まった皆に見せて、鎌倉のために力を尽くす事を誓うのでした。

絵は、三浦義村が義時たちに手紙を見せるシーンです。実は北条義時には肖像画がなく、歴史的な絵として残っているのはこの絵巻物が唯一のものと思われます。

下を向いている義村の表情、まわりの御家人たちの戸惑いの表情などが細かく描かれていて、ザワザワとささやき合う声や緊張感まで伝わってきした。

そして巻物も3巻に移りますが……。承久の乱といえばコレ! というシーンがすっぽり抜けています。北条政子の大演説により、御家人たちが一致団結するシーンや、そうそうたる出撃のシーン。そして大激戦の大豆戸(まめど)の戦いです。

1巻分丸々無くなってしまったのでしょうか。しかし巻物は通常6巻セットで、『承久記絵巻』は6巻あります。意図的に抜かしたとしたらその理由はなんでしょう……?

筵田の戦い

鎌倉幕府軍は後鳥羽上皇に対して反撃を開始します。そして最初に激突したのが木曽川でした。現在の岐阜県各務原(かかみがはら)市にあった大豆戸の渡には双方の総大将が対峙していました。

しかし川を渡って来た幕府軍に後鳥羽軍は敗走します。しかし筵田(むしろだ=現・岐阜県本巣市)で後鳥羽軍は三十騎ほど留まって合戦しました。

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絵の場面は、いよいよ軍記絵巻の華、合戦シーンです。おそらく左が後鳥羽軍、右が幕府軍でしょう。幕府軍の中で黒い大きな馬に乗ってビシっとポーズを決めているのが、幕府軍の総大将・北条泰時(ほうじょう やすとき)だと思います。

左の後鳥羽軍も勇敢に幕府軍に立ち向かい、一番左にいる人物を逃がそうとしているように見えました。おそらくは後鳥羽軍の総大将・藤原秀康じゃないでしょうか。

杭瀬川の負傷者

後鳥羽軍の武士の1人、山田重忠(しげただ)も杭瀬(くいせ)川に留まって奮戦しました。山田重忠は自軍に被害を受けることなく、幕府軍を撃退し、十分時間を稼いでから颯爽と去って行きました。

しかし幕府軍の中で、ただ1人渡川に成功した武士がいました。武蔵国の高枝次郎という者です。けれどすぐに後鳥羽軍に取り囲まれてしまいました。

幕府軍が追い付いて助けに入りましたが、既に虫の息でした。「手が動かないので自害もできない」と嘆く高枝に、北条泰時は従者と手紙を添えて鎌倉に帰す事にします。

「この高枝は勇敢に戦いましたので、どうか褒美をやってください」

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鎌倉に運ばれて帰って行く高枝を描いたこのシーンですが……。正直、このシーンでいいんですかね? せめて川を渡った直後ぐらいのカッコイイ高枝さん描いてくれませんかね?

おそらく一番右にいる鎧兜の武士が、北条泰時でしょう。とても心配そうな顔をしています。そして板の上に寝かされて運ばれている高枝はぐったりしているものの、怪我も無ければ血も流れていませんね。やっぱり残酷な描写はしないようです。

ちなみにこの高枝さん、その後どうなったかはわかりません。そもそも杭瀬川の戦い自体が『吾妻鏡』に書かれていません。高枝さん、せっかく頑張ったのに……。

北陸道の火牛の計

一方、北条朝時(ほうじょう ともとき)を大将にして、北陸道から京へ向かった幕府軍は越中・越後の堺である蒲原(かんばら=現新潟市のあたり)で後鳥羽軍と対立します。

後鳥羽軍は細くて危険な通り道に罠をいっぱい仕掛けていました。そこで朝時は放牧されていた牛を集め、夜になって角に松明を括り付けました。松明の火に興奮した牛たちは、罠を破壊しながら暴れまわります。後鳥羽軍はそれを見て大勢の敵が攻めて来たと思い逃げて行きました。

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これはその時の様子……なのですが、なんか後鳥羽軍が余裕そうなのはなぜでしょうか。牛さん罠にかかってるし、オネムの牛さんもいるし……。

後鳥羽上皇の日吉参り

一方、当の後鳥羽上皇は、木曽川沿いの戦いで自軍が敗けたと知らせを受けると、息子たちをつれて比叡山東麓にある日吉大社にお参りに行きました。

描かれているのはその道中です。後鳥羽上皇は牛車の中なので姿は描かれていませんが。中央にいるお坊さんは後鳥羽上皇の側近で、僧侶の尊長(そんちょう)でしょうか。

噂が噂を呼ぶ大混乱の中、どうやって京を守るかを議論し、御所に帰りました。比叡山の僧侶たちの助けを借りて、武士たちを勢多と宇治に配分すると、御所の門を固く閉ざしました。

勢多の合戦

承久3(1221)年、6月12日。琵琶湖の南端にかかる勢多(せた)に山田重忠と比叡山の僧侶たちが陣取り、橋の板を剥がしました。そこに北条時房(ときふさ)を大将とした幕府軍が対峙します。

戦上手の山田重忠と、武芸達者な比叡山の僧兵。幕府軍は残った橋桁を渡ろうとしますが、なかなか近づけません。

ここに何日も留まっていては幕府軍はいずれ矢が尽きて敗けてしまいます。さて、どうなってしまうのか……4巻へ続く!

三浦泰村の決意

三浦一族が構えた陣内では、なにやら話し合いがされています。三浦義村の嫡男、泰村(やすむら)が、父とここで別れて烏帽子親である北条泰時と共に戦うという決意を伝えたからです。

烏帽子親子は義理の親子のようなものです。烏帽子親は、武士の元服の儀式で頭の上に烏帽子を乗せる役目を負う人です。それから多くの場合、元服後の名前に一字分け与えます。

義村は親子で一緒にいるべきだと諭しますが、泰村は「この先何があるかわかりませんので、家の為に分かれて戦うべきです。私に万が一の事があっても、弟がこちらに残っていれば大丈夫です」と、決意は固いようです。

この時泰村は18歳。絵では色白でぷっくりほっぺの美少年に描かれています。義村は息子の成長に満足そうな顔をしていますが、周りの家来たちは心配そう。

義村は泰村に「お前は若いから、功を立てようと焦って失敗せぬように」と心構えを説いて、郎党50人(!)をつけて送り出しました。厳しいのか過保護なのかわかりませんね。

泰村の早戦

三浦泰村は、北条泰時・足利義氏(あしかが よしうじ)と共に宇治川で戦います。父に焦るなと言われていた泰村でしたが、敵の挑発に乗ってしまい、総大将の北条泰時の合図を待たずに戦を始めてしまいました。

泰村は結局家来に無理やり後ろに下げられ、戦経験のある義氏が戦いますが決着はつきませんでした。

宇治川の戦い

この知らせに北条泰時はびっくりし、急いで戦場に駆け付け、改めて開戦をしました。しかしここでも勢多のように橋の板が落とされています。

そして描かれているのは後鳥羽軍からは奈良の僧侶・覚心と円心。二人が橋桁を渡って来て、曲芸師のような身のこなしで長刀を振り回すシーンです。

しかし、円心は幕府軍の矢に左足の親指を貫かれ、橋桁に縫い付けられてしまいました。そこで覚心は円心の指を切り落とすと、円心を抱えて引き返して行きました。

宇治川の先陣争い

北条泰時はついに宇治川に入って渡る作戦に出ます。しかし宇治川は大雨によって濁流となっていました。そこで名乗り出たのが佐々木信綱(のぶつな)。後鳥羽軍にいる佐々木高重の親戚です。それに敗けじと続いたのが、奥州の芝田兼能(しばた かねよし)でした。

ここまで読んで古典文学に詳しい人なら、いくつか見た事のあるシーンがあったでしょう。

北陸道で北条朝時がおこなった、牛の角に松明をつける「火牛の計(かぎゅうのけい)」は、『平家物語』では越中・加賀の境である倶利伽羅(くりから)峠で木曾義仲(きそ よしなか)が平家に対しておこないました。

宇治川での僧兵による曲芸のような戦いぶりや、先陣争いも『平家物語』にある有名なシーンです。

『承久記』が『平家物語』のシーンを真似したのかな? と思われがちですが、成立年代を見るとむしろ『平家物語』が『承久記』を参考にしたのではないか、という研究もあります。

次々と川を渡る幕府軍

川を渡る佐々木信綱と芝田兼能を見て幕府軍は次々に川に入りました。しかし宇治川の濁流は、荒ぶる坂東武者にも容赦なく襲い掛かります。老兵である関政綱(せき まさつな)を始めとして、およそ900人が川に流され溺死してしまいます。

描かれているのは川を渡ろうとする幕府軍。頑張ってわたろうとしている人、流されていく人、さまざまです。だから……なぜ、このシーンを絵にしようとしたんでしょうね……?

渡川を止められる北条泰時

次々と川に入っては流されていく武士たちを見て、北条泰時は自責の念に駆られたのでしょうか。「みんな死んでしまっては、何もできない……私も共に行こう」と川に入ろうとしますが、部下たちに止められました。描かれているのは家人に諫められている泰時のシーンです。

しかしその時、無事渡る事ができた武士たちが次々に後鳥羽軍を蹴散らしていきます。果たして勝敗の行方は!? 5巻に続く!

宇治川の大激戦

ここで負ければ京での市街戦となってしまう後鳥羽軍も、木曽川のように早々に撤退するわけにも行きません。「川を渡って馬も鎧も武器もずぶ濡れで疲れているならば、勝機はある」と腕に覚えがある武士が立ち上がりました。

藤原朝俊(ふじわらの ともとし)や、佐々木氏綱(ささき うじつな)・荻野景員(おぎの かげかず)などです。しかし奮戦するも次々に討ち取られてしまいました。

ここに来て、ようやく幕府軍が優勢に見える絵が……! これはもしかしたら、最初の方は後鳥羽方を優勢に描くことで「最後までどうなるかわからない」という演出なのでしょうか!?(*個人の感想です)

東寺の戦い

いよいよ後がなくなった後鳥羽軍。総大将の藤原秀康と、三浦胤義・山田重忠たちは後鳥羽上皇のいる御所に向かい、そこで最後の戦をしようとしました。しかし後鳥羽上皇が武士たちにかけた言葉は「ここにいたら幕府軍が攻めて来る。お前たちはどっかに行け!」というものでした。

藤原秀康は後鳥羽上皇の言葉通りにどこかへ逃げて行ってしまいましたが、胤義・重忠たちは京の入り口である東寺に籠って最後まで戦う決意をしました。

この絵は三浦胤義と義村の手勢の戦いの様子です。兜を掴んで間に刀を差しいれる武士。敵を「どこかなぁ~?」と探しているような武士と、躍動感たっぷりに描いています。

結局、三浦胤義とその息子は敗走しました。

幕府軍の追い打ち

東寺の後鳥羽軍を打ち破った幕府軍は、京の市街地へと入り、後鳥羽軍の武士を探しては捕らえていきます。

両軍入り乱れて、どっちがどっちの軍なのか、誰がどこにいるのか分からないほど乱戦ぶりと迫力は圧巻の一言。

三浦胤義の最期

さて、敗走した三浦胤義は、最期に妻子の姿を一目見たいと思い、太秦(うずまさ)の家に向かっていました。しかしそこには既に多くの敵がいたので、胤義父子は家の近くにある木嶋(このしま)神社の社の中に、隠れていました。

そこに現れたのは、胤義に古くから仕える郎党の藤四郎頼信(とうしろう よりのぶ)です。胤義父子は、藤四郎に自分たちの首を家まで届けてくれといって自害しました。

頼信は主人の言葉の通り胤義父子の首を、太秦にいる胤義の妻に届けます。

今までショッキングなシーンを描かなかった絵巻物が、ここに来て衝撃の生首シーン!! とはいっても胤義は静かに目を閉じていて、まるで安らかに寝ているようです。

頼信や周りの侍女たちの悲しい表情に、こちらも胸がつまりますね。生首を持って顔を伏せているのは胤義の妻でしょう。

実は胤義の妻は、鎌倉一の美女といわれていました。そのためかちょっと平安美人風に描かれているのが、個人的にはポイント高いです。

六波羅に連行される公家たち

さて、戦が終わると戦後処理のターンです。幕府軍はまず六波羅(ろくはら)を拠点として、捕らえた敵兵たちの処罰を決定しました。これが後に六波羅探題(ろくはら たんだい)となります。

後鳥羽上皇の味方となった公家たちも六波羅へと連行されました。

狩衣(かりぎぬ)姿の6人公家の後ろに、睨みつけるに歩く武者たち。描かれている公家は坊門忠信(ぼうもん ただのぶ)、中御門宗行(なかみかど むねゆき)、源有雅(みなもとの ありまさ)、葉室光親(はむろ みつちか)、高倉範茂(たかくら のりもち)、一条信能(いちじょう のぶよし)です。

坊門忠信は、源実朝の妻の兄でした。その為、後に助命されています。しかし他の5人はみんな処刑されてしまいました。

葉室光親の出家

葉室光親は、後鳥羽上皇の院宣の書面を書いた人です。鎌倉御家人の武田信光(たけだ のぶみつ)に連れられて鎌倉に向かう途中、富士の裾野で処刑を命じられました。

そこで光親は「出家させてくれ」と願い、武田信光はそれを許しました。簡易的な作法で出家すると、光親は読経し、みんなそれに聞き惚れます。描かれているのは、そのシーンです。

実は葉室光親は、最後まで開戦を反対していました。それを証明する文書を北条泰時が発見しましたが、既に亡くなった後でした。

加えて光親はとても心優しい人で、幕府軍に囚われていたけれど許された人がいると、自分のことように喜んでいました。

だからでしょうか、坂東武者たちの表情がどこか悲しそうに見えます。武田信光(らしき人)に至っては顔をそむけています。きっと道中で光親の人の良さに触れていたのでしょう。

高倉範茂の処刑

高倉範茂は北条朝時が預かり、東国へ向かいます。足柄(あしがら)山を越えて早川に着いた頃に処刑の命令が下りました。

範茂は「斬首されてしまうと極楽浄土へは行けなくなる。だからこの川に沈めてくれ」と願い出ました。朝時は範茂を大きな籠の中に入れ川に沈め、家来に命じて上から押さえつけました。

描かれているのはまさに、範茂を武士たちが押さえつけているシーン! 範茂の姿は水に沈んでいて見えないとはいえ、絵になると壮絶な現場ですね。朝時(らしき人)も思わず顔を背けています。事情を知らなければ完全に坂東武者コワイってなっちゃいますね。

余談ですが、範茂が処刑された早川は西から東へと流れて相模湾に注ぎます。さらに相模湾の海流は黒潮で、東へ東へと向かいます。西方にあるという極楽浄土に、範茂さんの魂は辿り着いたのでしょうか……。

さていよいよ前代未聞の、武士による上皇への処罰ですが……ここで6巻へ続きます!

後鳥羽上皇、御所を出る

後鳥羽上皇は承久3(1221)年7月6日、今まで住んでいた御所から鳥羽の屋敷へと移されました。

後鳥羽上皇は車の中にいて、相変わらず姿が見えません。しかしその車に注目してください! 車の御簾をめくって中を覗いちゃっている武士が……。彼は北条泰時の長男・時氏(ときうじ)です。

後鳥羽上皇、隠岐へ

そして後鳥羽上皇は隠岐へと流されていきました。描かれているのはその道中の様子でしょうか。

左上にうっすら描かれる船が、遠い果てに向かう様に感じて物悲しい雰囲気がありました。右にいる若いお坊さんは、後鳥羽上皇の寵童だった藤原能茂(ふじわらの よしもち)でしょうか。

勢多加丸との別れ

京都の仁和寺には道助(どうじょ)というお坊さんがいました。後鳥羽上皇の息子です。彼が可愛がっていたお稚児さんに勢多加丸(せいたかまる)という美少年がいました。

勢多加丸は後鳥羽軍にいた佐々木広綱(ひろつな)の息子です。そのため連座で処刑するために幕府軍に差し出せと言われました。道助は勢多加丸の母を呼び出し、最後の別れの場を設けました。そして泣きじゃくる母に「仕方ないのだ」と諭します。

勢多加丸は寺のみんなから好かれていたようで、お稚児仲間も僧侶たちもみんな別れを惜しみました。

勢多加丸の処刑

六波羅に連れて行かれた勢多加丸は、一旦北条泰時の判断で許されます。しかし幕府軍で宇治川の先陣を果たした佐々木信綱はそれに大反対しました。

実は信綱は広綱の弟で、幼い頃に兄にさんざんいじめられて恨んでいたのです。

「勢多加丸を生かすのならば、私はマゲを切って遁世します」

信綱には泰時の妹が嫁いでいました。それに宇治川で武功を上げている信綱を無下にはできません。泰時は結局、勢多加丸を斬首するしかありません。敵に容赦のない坂東武者も、さすがに「信綱の言い分は酷い」と思ったようでした。

描かれているのはその斬首される直前のシーン。勢多加丸の斬首は信綱自身がおこないましたが、周りの武士たちは納得してないような表情をしています。

三浦胤義の子たちの処刑

三浦胤義には、5人の子どもがいました。それぞれ11歳・9歳・7歳・5歳・3歳です。胤義の母が三浦の矢部(現・神奈川県横須賀市衣笠町)で養っていましたが、やはり連座で処刑されることになりました。

そこで胤義の母は11歳の孫を手元に置いて、9歳・7歳・5歳・3歳の4人を差し出します。使いの者は11歳の子も差し出せといいますが、「ならばその代わりにこの私の首を斬りなさい」と言いました。大罪人の胤義の母ではありますが、幕府の大功労者である義村の母でもあります。

仕方なく4人だけを手越川(たごしがわ=現・逗子市の田越川)のほとりで斬首しました。

この絵は、胤義の母と子どもたちの乳母が嘆いている様子です。幼子たちの姿は描かれていないことが、より喪失感をかきたてます。

ちなみにですが、実際は胤義の子どもたちは斬られていません。承久の乱以降にも『吾妻鏡』に登場するからです。しかしそれだと今度は「なぜ斬られなかったのか」という疑問が残りますね。ちょっとした謎です。

土御門院の配流

承久の乱の首謀者として流罪となった後鳥羽上皇ですが、その長男である土御門上皇は戦に消極的でした。だから鎌倉幕府は京に留まってもらおうとしていました。

しかし土御門上皇は「父が追放されているのに、自分がとどまったままでは親不孝者だ」と考えて、あえて遠くに流罪にしてくれと頼みます。

その決意は固く、仕方なく鎌倉幕府は土佐へと配流することにしました。承久3(1221)年10月10日に出発し、1か月後に土佐に着きました。

その後、鎌倉幕府は土御門院の配流先を、より京に近い阿波国へ移します。描かれているのはそのシーンで、土佐から阿波の境に差し掛かった頃に大雪が降った場面です。

雪を見て、土御門院は歌を詠みます。

浮世には かかれとせこそ 生れけめ 埋りしらぬ 我涙かな

私はきっと、このような境遇であれと定められて、この辛い世に生まれてきたのだろう。だからこれを納得すべきなのに、涙が落ちてくるよ。

自分で望んで流罪となったけれど、やはり涙はこみ上げてきてしまうものだったのでしょうね。

絵巻物製作者の意図を考える

『流布本承久記』は以下のように締められています。

日本の帝は天照や八幡菩薩の加護があるという。しかしいくら賢王でも逆臣がいれば平和な世は保たれず、賢臣が悪王に仕えても治世はままならない。機嫌が悪ければ罪なき者を罰したり、機嫌が良ければ忠なき者に褒美をやったりしていては、神も味方にはなってくれないだろう。

後鳥羽上皇は全国に自分の味方になるように院宣を発したが、味方するものはいなかった。そのような有様なのだから、鎌倉幕府軍を支持しない者などいようはずもなかったのだ。

天皇・上皇という当時の日本の統治者でありながら、戦を起こし敗けてしまった後鳥羽上皇側にとても批判的です。けれど絵巻物の絵は、上皇の姿を直接描いてなかったり、終盤になるまではいかにも上皇方が優勢であるように描いたりしています。これはかなり後鳥羽上皇側を尊重してるのではないでしょうか?

私は崩し文字が読めないので、絵巻物の文字がどういう風に書かれているのかわかりませんが、読んでみたら何かわかるかもしれません。

また絵巻物の絵は、「寿王」「泰村」「勢多加丸」などの子どもが中心のシーンや、「藤原秀康と三浦胤義の酒宴」「胤義の生首」「胤義の幼子の処刑」など、女性の共感を得られそうなシーンの絵が多くあり、戦闘シーンには血しぶきや死体そのものは出てきていません。そして最初に紹介した通り文字にはひらがなが多いです。

もしかしたら文字を習いたての幼い子どもや、それを一緒に見るであろう母に向けて作られているのかもしれません。上皇側に寄ってつくられているということは……公家か、はたまた皇族の子どもに向けた歴史の教材的なものだったり!?(*個人の妄想です)

いやぁ、新しい発見があるって楽しいですね!

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。