金沢が好きだ。
高校生のときに家族旅行で訪れて以来、なぜか虜になった。以後、毎年通い詰め、かれこれ20年以上が経つ。既にほとんどの観光名所を行き尽くしたというのに、今回、初めて「金沢」の地名の由来とされる場所があるコトを知った。
その名も「金城霊澤(きんじょうれいたく、金城霊択とも)」。
自然に湧き出る「泉」だという。
それも、かなりのパワースポットだとか。
詳細が分からずインターネットで情報を探ると、菅原道真公を祀る「金澤神社」、そして、かの有名な「兼六園」のサイトに、それぞれ件の場所が掲載されていた。
早速、取材のアポ取りを開始。まずは「金澤神社」に問い合わせをした。すると、取材は可能だが、管理は「兼六園管理事務所」が行っているから、そちらの許可が必要だという。そこで「兼六園管理事務所」に問い合わせると、取材の許可は出してくれるが、詳しいコトは説明できないという。
なんとも、不可解な対応だ。
両者が関わる「金城霊澤」とは、一体、どのような場所なのか。俄然、興味が沸く。
こうして、いつもの如く好奇心を抑えきれず、私はまっしぐら金沢に飛んだ。
現地の「金城霊澤」へ赴き、この目で確かめたいと思ったのだ。
そして…。
取材を通して、その歴史が明らかになったとき、ようやく「金澤神社」と「兼六園」の両者が関わり合う理由を知ることになる。そこには、インターネット上の情報とは全く別物の、真の意味での「金城霊澤」の姿があった。
それでは、早速、ご紹介していこう。
「金城霊澤」の歴史とその秘密の数々を。
実際に「金城霊澤」のパワーを感じてみたら…
JR金沢駅から市バスで「兼六園下」まで10分弱。
そこから、歩いて「金城霊澤」に向かう。
兼六園の入口をそのまま通り過ぎ、石川県立美術館の方向へと進んでいく。右手に美術館が見えてきたところで、左手にある兼六園の方へと繋がる道に入った。
やはり、パワースポットは朝に限る。そんな思いから、8時過ぎに現地へ到着した。朝陽を浴びてパワーを取り込もうなどと意気込んでいたが、思いのほか、寒い。寒すぎる。今更ながら、朝陽も届かないことに気付く。
「覆屋(おおいや)」の外観は、小さな屋根が付いて休憩所のような趣である。しかし、近付いてみると、その予想は大きく裏切られた。厳重に柵が施され、その中には水が張ってあり、中央部分が窪んでいた。かなり大きな穴である。
穴の中は暗くてよく見えない。
その周りには、誰かが投げたであろう5円玉、10円玉などの硬貨が散らばっていた。お賽銭のつもりなのか、それとも「トレビの泉」のような感覚で投げ込んだのか。透き通った水が、余計にお金を際立たせる。
目を閉じて、息を一杯に吸い込んでから、再度、穴を覗き込んだ。すると、一瞬、何か長いモノが見えたような気が…。ビクビクして凝視すると、穴の真上に掛けられた天井絵の「龍の爪の部分」が反射したものだと分かって、ホッと胸を撫でおろす。
それでも、今度は「音」が気になった。
耳をすますと、自分の鼻息とは別に、水の流れる音がした。周囲を探索すれば、溝に流れる水の音だと判明し、またもや一安心。全くもって、パワーをもらうどころではない。
朝の時間、それも周囲には誰もいないというコトもあって、その静寂さが、かえって自分の落ち着きのなさを実感させた。「冷え込む寒さ」と「パワー」は紙一重。ゾクゾクする背中は、果たしてどちらなのか。残念ながら、鈍感な私には分からなかったのである。
「金城霊澤」と同じ湧き水の効能は…?
こうして取材前に「金城霊澤」を下見したところで。
今度は、すぐ左手にある「金澤神社」を訪ねた。
今回、お話をうかがったのは、「金澤神社」の宮司、厚見正充(あつみまさみち)氏だ。
じつは、こちらの金澤神社の手水舎の水は、「金城霊澤」の湧き水と同じ水源のもの。6月に開催される県内最大規模の「加賀百万石祭り・百万石茶会」で使用され、戦没者慰霊式典にもお供えされるという水だとか。
「『金澤神社』の境内に井戸がありまして、その水をポンプでくみ上げて、手水で使っています」
230年前の神社の図面には、既に『井戸』という記載があり、どうやら金澤神社の創建当時からあるようだ。
「ここ周辺は地下(の水脈)が同じなので。もともと『小立野台(こだつのだい)』という台地になってまして、上の方からずっとお城の方に向かって地下水が流れてるんですね。兼六園の中にも井戸があるんですけども、その水も、多分同じ地下水源だと思います。ただ、あちらの『金城霊澤』は、(高低差の関係で)自然と、こう湧き出ているということです」
ちなみに、先ほど手水を汲みに来られた方がいた。話を訊けば、月1回の参拝の日だけ、お水を汲んで飲むという。実際、効能や味はどうなのだろうか。
「鉄分が多いので心臓にはいいと。オランダ人の『ホルトマン』という、江戸時代の終わりの頃の医師なんですけれども。その方が分析をした内容が看板に書かれています」
「『硫化シャンカリ』っていうのは、鉄分を検査するための試薬なんですね。あの看板だけ見てると、お参りの方がなんか変な化学物質が入ってて怖いって言うんですけれども…。そうではなくて、その試薬をたらしたところ、鉄がたくさん入っているという赤い反応を示しましたよと書いてあるだけです」
なるほど。心臓にいいと科学的に証明された水とは。是非とも試してみたいものである。
「実際、神社ではお水を使われていますか?」
「ええ。ここの水道の水も、手水の水もですね」
宮司の厚見氏曰く、一般の水とは全然違うという。
「どんな感じですか?」
「まず、温度が違う」
「あああ。まさか…。あの手水の水って、冬は寒いからわざと温かくされているのかなと思ってたんですけど。元々、あのままの温度なんですか?」
「はい、温度は(季節によって)ずっと変わらないので。夏は冷たく感じるし、冬は温かく感じる。(神社の社務所では)普通の水道と井戸の水とが両方並んでるんですけども、夏は素麺とか冷やすのに、井戸の水は冷たくていいんですよね。で、冬になると、井戸の水はぬるいので、今度は水道の水で冷やすんです」
地下水とはそういうものなのか。
お水の温度にも驚いたが、個人的には、寒い冬に冷やし素麵を食される宮司にも、これまた驚いた。まあ、「金城霊澤」とは全く関係のない話題なのだが…。
ホントに「金沢」の地名の由来?「芋掘藤五郎」との驚くべき関係
さて、話題は「金城霊澤」へと移る。
まずは、気になるあの伝説との関係を探ってみた。
「『金城霊澤』について、神社の中で、何か説明やいわれみたいなものは?」
「じつは…正確に言うと、『金城霊澤の傍らにあって、この金城霊澤という聖地を守るためにある』というのが、この神社なんですよね」
「…」
久しぶりの沈黙である。
この情報を処理するのに、私の脳が相当手間取っているようだ。ふむ。金澤神社は菅原道真公をお祀りする神社であって、「金城霊澤」とは何も関係がないと思っていたのだが…。そうではないのか?
「昔からこの辺りには、湧き水とか色々あったんですね。そこの湧き水から、こうキラキラと輝くものが、水の中にあるという話があります。まあ、『雲母(うんも)』らしいんですけど。それが…金が浮かんでいるように見えたので、それで『カナアライサワ』、『金の澤』と書いて『金沢』という地名が起こったということなんですね」
「雲母」については初耳だが、調べると「マイカ」や「きらら(きら)」とも言われる層状のケイ酸塩鉱物だという。「きらら」の名の通り、光を反射してキラキラ輝くため、それが「金」のように見え、金を洗う泉から「カナアライサワ」、そして「金沢」となったということだろう。そこまでは、なんとなくだが理解できる。
「それと『芋掘藤五郎(いもほりとうごろう)』の伝説、多分調べられたと思うんですけども、その話が合わさって…」
「芋掘藤五郎」伝説とは、いわゆる長者伝説の1つで、石川県に伝わる代表的な伝説だ。
芋掘藤五郎の墓がある金沢市の「伏見寺」での説明は以下の通り。加賀国(石川県)石川郡山科の里に住む芋掘藤五郎は、山芋を掘って暮らしていたとか。その後、長谷観音のお告げに導かれて嫁にきた長者の娘「和子」と結婚。芋を掘る際に出る砂金の価値を和子より教えられ、長者となったという話である(伝説の内容は諸説あり)。
「合わさって…ということは。じゃあ、『金城霊澤』は、元々はその『芋掘藤五郎』の伝説とは関係ないと?」
「そもそも『芋掘藤五郎』の伝説というのは、(金沢だけでなく)全国にありますから。多分、全部で40、50ヵ所ぐらいだったと思いますが。まあここは、キラキラと雲母が輝いていた、それが『芋掘藤五郎』の(砂金を洗う)伝説と合わさったと。実際に墓もありますし、そういう人物と重なったような形になったのではと思います」
「金城霊澤」は「金澤神社」の一部だった⁈
続けて、先ほどの疑問をぶつけてみた。
「『芋掘藤五郎』の伝説は横に置くとして。先ほどの『金城霊澤』を守るために…とは、どういうことなんでしょうか?」
「元々、この金澤神社というのは、菅原道真公を祀った神社なんですけども、創建にあたっては…違う計画がありました」
厚見氏の説明によると、加賀藩の学問所である「明倫堂」を作った際に、当初は兼六園の中の梅林付近に「孔子廟」を作る話が出たという。ただ、途中で計画は変更。「孔子廟」ではなく、勉強の神様であり、前田家の神様でもある「菅原道真公」をお祀りする神社にしようと変わったというのである。
さらに、この計画も、再び変更となる。
「そこに『金城霊澤』ってあるよねって話になる訳ですよ。兼六園の梅林の場所に作るよりも、この神社は学問の神様を祀るという意味もあるし、『金城霊澤』を守る神様でもなければいけないという考えに変わったわけですよ。だから、あえて『金城霊澤』の脇に、この神社を創建しました」
「(のちに昭和50(1975)年に発見された)神社の棟札を見ると、『金城霊澤の傍らに鎮護するためにこの神社を建てました』という一文が残ってます。棟札が発見されるまでは、まあ学問の神様があって、『金城霊澤』がありますという単純な考え方だったんだけれども。その棟札が出てきたことによって…」
「その存在意義が変わったっていうことですね?」
「そうそうそうそう。元々、学問の神様であり、ここに『竹澤御殿』という前田家のお屋敷があったので、前田家の御先祖様でもあり、菅原道真公を祀った神社があるんだよねって。じつはその意味もあるけれど、もっと大きな『金城霊澤』を守るという意味があったと、棟札の発見により世間に知らしめられたわけなんです」
ほほう。
だから、これほどまでに「金城霊澤」と「金澤神社」が近いワケだ。金澤神社がこうして「金城霊澤」について説明する理由も、これで納得した。
しかし、厚見氏は、さらに重大な情報を告げた。
「昔は『金澤神社』の境内の中に『金城霊澤』があったんですね」
「へ?」
「ここは全て境内だったんです。そもそも『金澤神社』というのは、前田家のプライベート神社でして」
不可解な顔をしている私に、ゆっくりと詳細な説明が続く。
「普通の神社は、氏子さんがいて、地域の方々が守ってるんだけれども、『金澤神社』というのは、前田のお殿様の屋敷神、つまり、神棚と同じなんです。お殿様1人だけの神様なんですよ」
「そ、そうだったんですか?」
「江戸時代には一般の方は入れなくて。ただ明治になってから、全国のお殿様は東京に行ってしまうので。そしたらパトロンがいなくなってしまう。それで一般開放して、誰でもお参りできるようになったという神社なんですね」
「複雑な歴史ですね…こう、二転三転というか…」
「そうそうそうそう。で、お殿様がいなくなると、神社が維持できない。それで神社を維持してもらおうと思って、境内の中に線を引きまして、国と県に無償で譲ったんです。『金城霊澤』のところも、そこの広いところも。その代わりに、この神社を末永く維持してもらえませんかということで」
だから、「金城霊澤」の管理は、「兼六園管理事務所」なのだ。ようやく、ここで、点と点が繋がってきた。
「本来は全部1つのものだったものの、まあ、線が引いてありませんけれども、ここからここは『金澤神社』、ここからここは『金城霊澤』と、別物みたいに扱われるようになったワケです」
「ああ、なるほど」
「本来は、全部含めて『金澤神社』という歴史なんです」
今も龍神様が住まわれる「聖地」
次第に「金城霊澤」の姿が明らかになってきたところで、話題を変える。
「パワースポットのせいか、色々お金が入っていますよね?」
「年に1回、管理事務所の方がお金を拾うんですが…年間3万円くらい入っているそうです。でも、じつはあまり好ましくないんです」
厚見氏から、予想外の答えが返ってきた。
一方、私は涼しい顔をしながら、心の中で「ホントに、おカネ投げ込まんで良かった…」と、自分を褒めていた。
「あの湧き水は龍神様が住んでらっしゃる聖地です。龍神様が住んでる清い水のところに、お金って汚いものですよね。それを投げ込むことは非常にいいことではないし、金属を投げ込むと龍神様が暴れて出てくるという、そういう伝説もあります」
なんと、まあ。
恐らく、龍神様がいらっしゃると知れば、誰もお金を投げ入れるような行為はしないだろう。
じつは、これまでに様々な手が打たれたが、結果的に効果は出ず。例えば、一時期、投げ込み禁止の看板もあったそうだが、写真に写り込むため外されたりだとか、熱心な参拝客が、お金を投げ込むのがあまりにも失礼だと、独自の賽銭箱を備え付けたが、それも却下されたという。
「極力、お金は入れてほしくないんだけども…やっぱり水があると、日本人ってどうしてもお金を入れたくなるんですよね。『砂金を洗った』という芋掘藤五郎の伝説があるので、なんかお金を洗うのと一緒になってしまって、お金を入れればいいんだって、そういう感覚ですよね」
この中に、龍神様が…。
再度、身を乗り出して覗き見た。それにしても、ホントに透き通った水である。
「(穴の中は)深さが2mくらいあるんですけれども。水を全部抜くと大体半日ぐらいで水が一杯になります。それくらいの水量が出てるんですよ」
「ああ、これって湧いているんですか…。全然、水が動いてないというか、湧いてるようには見えないんですけど」
「底は石積みになっていて、石の間から、こう水がぽこぽこと湧いています。この穴が、竜宮城に繋がっているという伝説もあります」
私の心は単純だ。
「龍神様」や「竜宮城」と聞いただけで、なんだかパワーが漲ってくるような気が…。
「ここは、元々野原にあった湧き水なんですよね。加賀藩前田家12代『斉広(なりなが)』公が、『龍神様が住んでらっしゃるのに野ざらしではあまりにも勿体ないことだ』ということで、石畳にして屋根をつけたんですね。だから、元々は原っぱの真ん中に、こう水が湧いてたんですね」
「ってことは…それよりも前に、元々龍神様がいらっしゃって、水が湧いていると、地元の中では認知されてたと?」
「そう。で、ここが整備されたのは、恐らく2度目に整備した時と一緒のタイミングだと思います。囲いとか、その石畳とかは『斉広』公で、この周りを整備したのが加賀藩前田家13代『斉泰(なりやす)公』です」
ちなみに、この12代『斉広(なりなが)』公は、龍神様が大好きなお殿様なのだとか。
「亡くなったのちに、法名を『金龍院』として『龍』の字をつけた。奥さんは『真龍院』という法名をもらったくらい、龍神様が大好きなお殿様です。じつは金澤神社にも、ご分霊として龍神様をお祀りしてあるんです。龍神様を信仰される方は、まずここにお参りに来られてから、金澤神社に来られます」
もう1つ気になったのが、「金城霊澤」のすぐ後ろの場所だ。
洞窟のような入口には柵がしてあり、長い文章が刻まれた石碑がある。
「あの碑文は?」
「金城霊澤の歴史と前田家の関りが書いてあります。非常に難しい文章なんですけど、13代『斉泰』公は、後世に残さなきゃいけないということで、はるばる関東から石を取り寄せて、ここに持ってきたんですね」
「洞窟ですか?」
「いえ、この山は『鳳凰山(ほうおうざん)』といって、変わった奇石を集めて、ここに鳳凰の形をした人工の山を作り上げたんです」
「ええっ? これって『山』ではなくて『石』なんですか?」
「石を積んだり、乗っけたりして、凄い不思議な形をしています。考え方としては、まず『金城霊澤』ありきであって。そこに『金城霊澤』を守るための神社ができて、それから色んな変わった石を集めたりとか、そこに人工の池を作ったりとか、道を作ることによって、風水にかなった『聖域』を作り上げたのが、この場所になります」
つまりは、「金城霊澤」を中心とした「聖地」ということになるのだ。
言い伝えの多くは、当時の学生が作ったなんて…
「こうなると、『芋掘藤五郎』とは、ますます関係がないような気が…」
「まあ、伝説ですからね。今度は明治時代になりまして、一般の方がどんどん入るようになると、違う言い伝えが…」
「どんな内容ですか?」
「この『金城霊澤』の周りを、息を止めて3回回ると願いが叶いますよとか」
「それは、一般の参拝をされる方から出てきたんですか? 神社側からではなく?」
「そうです。多分、言い出したのは。金沢に第四(だいし)高等学校というのがあって。その学生が言い出したと…言われていますね。学生が言い出したことが、伝説として、こう受け継いで来られた」
まさか…。
学生のいう「学校の怪談」的な類なのか。そうだとすれば、本気で願い事をしながら3回回った人には、この事実は衝撃過ぎるだろう。
「学生は色んな事を言いますから。その頃の学生は、ここを息止めて3回回ると、願いが叶うんだよとか、試験に受かるんだよって言ってたりとか」
厚見氏曰く、他にも突拍子もないような内容もあるのだとか。
「兼六園の中に大きな日本武尊(ヤマトタケル)の銅像があるんですけれども。その銅像の前に、石畳の橋があるんですね。その橋の右から何番目の石の下から上を覗き込むと、ヤマトタケルの鼻の穴から空が見えると。それが見えたら願いが叶うんだよって、そういうことを言ったりとか。それが今でも伝わっているみたいで…」
鼻の穴って…。
確かに、学生が好んで言い出しそうなコトではある。
信じているモノを辿っていくと、こうして意外な事実が現れることも。
今回の「金城霊澤」の取材がいい例だろう。事前に情報を検索したが、やはり詳しい内容は現地の方に聞いてみるものだ。こうして、宮司の厚見氏にお付き合いいただき、無事に1時間ほどの取材を終えた。
最後に。
厚見氏から、とっておきの情報を教えて頂いた。
「あと面白いのが、冬至の日ってありますよね。12月21日頃の。このとき、太陽が『金城霊澤』の真後ろに下がるんです。太陽が後ろから差し込むので、金城霊澤が黄金色に輝きます」
どうやら、日没直前の15~16時の間だとか。
黄金色の「金城霊澤」。
あまりにも、パワーがあり過ぎるのではと、逆に心配になる。
「昔の人は、こういうことも考えていたんだなと。配置にしても、風水に叶った配置だし。太陽の方向とか月の方向を見ながら、色んなものを作っていったというのが分かります」
先人たちの知恵。
限られた時間帯だが、是非とも自分の目で確かめてみてはどうだろうか。
基本情報
名称:金城霊澤
住所:石川県金沢市兼六町1-3
公式webサイト:https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10091.html