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波乱万丈! 魯山人の人生(後編)
大正12(1923)年の関東大震災によって「大雅堂」を失った2年後、魯山人と友人の竹四郎は赤坂山王台の日枝神社境内にあった「星岡(ほしがおか)茶寮」を入手。
それを改装し、竹四郎が社長、魯山人が顧問兼料理長となって会員制の超高級料亭「星岡茶寮」をスタート。
会員には華族、政治家、実業家のほか、小説家・志賀直哉などの名士たちが名を連ねていました。
この「星岡茶寮」で、常時100人分を超える食器をそろえる必要に迫られた魯山人は、北鎌倉に登り窯「星岡窯(せいこうよう)」を創設。
須田菁華窯や京都の宮永東山窯といった有名な窯から職人をスカウトし、理想の器の創作に没頭します。
やがて色絵や染付へと広がり、昭和に入ったころには、宮永東山窯の工場長だった荒川豊蔵を招聘。
それによって、美濃系の土ものが加わるようになり、変化に富んだ魯山人の作風のなかでも、特に織部が人気を集めるようになります。
なんと籠まで陶器で!
そうした器への取り組みと料理の評判はとどまるところを知らず、昭和初期には会員数が700人を超え、大阪店を設けようとしていた矢先、魯山人は思いもよらない仕打ちを受けます。
高価な美術品などに湯水のようにお金を使う魯山人の強引なやり方に対して、竹四郎をはじめとする経営陣が反発し、昭和11(1936)年、茶寮を追放されてしまったのです。
この星岡騒動によって魯山人は作陶のみで生計を立てざるを得なくなるのですが、この時期には織部のほかに志野や伊賀、信楽、瀬戸など、さらにバリエーションが広がり、かえって活況を呈していきました。
食の空間を彩る美しさが身上
そして、戦争が激化していく時期には漆器や絵画も手がけ、戦後は銀座に魯山人作品の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開き、気品高く雅趣に富んだ「雅美生活」を標榜。
彫刻家イサムノグチと共作を行ったり、欧米を訪れたりして世界的な評判をとり、老境に差しかかってなお旺盛な創作意欲を示していたものの、昭和34(1959)年12月21日、肝硬変のため76歳でその波乱万丈の生涯を終えました。
美を厳しく追求するあまり、自分の意見を押し通した魯山人。
その人物像については毀誉褒貶(きよほうへん)が激しいものの、晩年に文部省から重要無形文化財保持者(人間国宝)認定の要請があった際に、「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」という信念を貫いたことは好意的に受け止められ、その芸術性の高さも近年あらためて評価されるようになってきています。
構成/山本毅、吉川純(本誌)※本記事は雑誌『和樂(2020年4・5月号)』の転載です。
シリーズ「魯山人の魅力」
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