「修行とはお釈迦様のようになること」
今回の禅語:人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず。
先日、曹洞宗の永平寺別院である長谷寺(東京都港区)にて開催された禅イベント「禅・美・食 ~五感を研ぎ澄まして食をいただく」に参加させていただきました。
ヨガストレッチや呼吸法、坐禅、写経、食事を参加された方々と共に体験し、曹洞宗の修行スタイルを学ぶ機会を得たのですが、とても印象的だったのは、講師の先生が「修行とはお釈迦様のようになること」であり、日常のどんな行いにおいても「お釈迦様のような佇まい」を目指しているとお話になっていたことでした。坐禅はもちろん、お食事をいただくときも、お掃除をしていても、入浴中でも、どんな時も!
けれども講師の方からは「修行僧の方々は”お釈迦様”を目指しますが、皆さんは”自分の思う素敵な人”を目指してください」と話しておられました。みなさんの思う”素敵な人”はどんな人ですか?
私は、姿勢や所作が美しく、呼吸や感情が穏やかで聡明であり、いつも平和で慈愛や喜びに溢れている人に憧れます。それは理想論だけでなく、日常で実践してこそ、自分の身に付いていくものなので、日々、理想とする人物像の行いを積み重ねていくしか方法はないのですよね。
驚いたことに、曹洞宗ではなんと食事中に応量器(お椀)を落としてしまったら、破門になってしまうのだとか! さらにお箸を落としてしまっただけでも、お寺中の仏像に拝をして回らないといけないという、とっても厳しい掟があるそう。そうして「行い」だけでなく、心身が伴った「佇まい」を修熟させていくのだそうです。
そんなことがにわかにできるわけはないのですが、禅イベントを体験してみて、何を行うにも意識というものが働いていて「その意識をどこに向けて行うのか」が大きなポイントのような気がしました。
禅宗では、姿勢を調え、呼吸を調え、心を調えていくこと、つまり「調身・調息・調心」が基本にあるそうです。どんな行いも、最初はやり方やルールを覚えていくのが大変ですが、やり方を覚えられたら、「調身・調息・調心」を意識して行うことが身に付いてくると、より良い佇まいに近づける気がしました。
毎日少しずつ、コツコツ続けていく
「精進する」という言葉がありますが、「精進」とは仏教用語で、厳密には「ひたすら仏道修行に励む」という意味で使われているそうで、「一つのことに集中して一生懸命に励む」という意味合いがあるそうです。たまにやる、のではなく、毎日少しずつ、コツコツ続けていくことが、「精進する」ということ。そのことを真摯に受け止める機会となりました。
イベントの最後には茶話会があり、参加者の方々全員の感想を聞く時間があったのですが、まさに十人十色でさまざまな気づきにあふれていました。「そんな視点もあったのですね!」 「あ、そうそう、私も取り入れよう!」などと、禅体験を振り返りながら、自分を見直す時間でもありました。
実際に禅の一端を体験したからこそ得られた気づきばかりで、そうやって日常に丁寧に向き合い、気づきを得ながら、実践を積み重ねることで、理想の佇まいが身に付き、周りの人たちから見ても素敵な人になれるのかもしれません。
冒頭に取り上げた禅語には、「一滴の水に映る月と天に浮かぶ月」とふたつの「月」が存在していました。ある物事も視点によっては、複数の見方、さまざまな見え方が浮かび上がってきます。二つの存在が交差して、どう理解したら良いのか混乱してしまいそうになりますが、そんな混乱の中で私がつかんだ感覚は「ただ、佇んでいるに過ぎない」ということ。そして真の月の存在を理解して「佇む」ことです。
邪魔をすることも、されることもない、自由な選択を与えられた私たちは何を選び、どう佇んで生きるのか。もし誰かに邪魔をされたとしても、動じることも乱されることもなく、静寂かつ、真の在り方を理解して在ることを「さとり」と呼ぶのかもしれません。
積み重ねていく日常と美しい生き方
思えば、私たちという人間は、そもそも父と母の受精卵として、2の23乗にもおよぶ二人の染色体の組み合わせ——つまり70兆分の1という確率で生を受けています。そしてこの命を構成している細胞は、体重60Kgの人では約60兆も存在しているそうです。
遺伝子にコントロールされている細胞は、人間の脳をはじめさまざまな臓器を働かせ、そうして私たちは今現在、健康に生かされています。誰もが個体として唯一無二でありながら、体内では遺伝子や細胞が働き、大宇宙の摂理の中で存在しています。
さらに遺伝子は子供に受け継がれ、親は子に自分たちが経験して学んだことを伝えていきます。そのことが何世代にもわたって繰り返されてきて今の私たちがあります。私たちは、個と全体、無常と永遠が折り重なったところで絶妙に生かされていて、道元禅師は、そんな私たちの儚い命を一滴の水に、広大無辺の月の光を永遠の「さとり」として喩えられているのではないでしょうか。
同じ私であっても、今、感じている意識は一滴の水に映る月に過ぎず、体中に存在する遺伝子や細胞、脳や臓器の無意識の働きは、まるで天に浮かぶ月の光のようです。
同じ一つの物事も視点を変えてみるだけで、見えてくる景色、そこに伴う行動や選択は変わります。私は、それに対して普遍的な”月の光”の佇まいを持って臨みたい。気づきを経て積み重ねていく日常というものが、「美しい生き方」へつながっていくと信じて。
撮影:今井裕治
監修:横山泰賢(日光山 禅昌寺住職・曹洞禅インターナショナル会長)