周りから見た自分の在り方を問う
今回の言葉:色即是空(しきそくぜくう)
(『摩訶般若波羅蜜多心経』より)
「色即是空」という言葉は般若心経に出てくる言葉で、お釈迦さまの十大弟子の一人である舎利子(シャーリプトラ)が「どのように般若波羅蜜(※)を修行すればよいのか?」と観自在菩薩へ質問した答えとして観自在菩薩が話している筋書きになっています。
私たちは舎利子のように修行する立場ではないですが、「空(くう)である」ということを日常で生かすなら、どのように生きることなのかと考えてみました。
思い浮かぶのは、先日、初めて高野山へ足を運び、高野山大学の副学長から密教の基本となる “利他の精神” について教えていただいたことです。
「自分という命を育んでくれている周りの全てに対して、生かされている命をどう使い、役に立つ生き方をしていくか」
このお話がとても印象的で、自分たちは、関係する周囲の存在全てによって成り立っていて、世のため人のため、周囲に自らの心を向けて存在していくということ。それは、いつも自分目線で物事を捉えているのとは真逆の発想で、目が覚めたような感覚になりました。
つまり、ここでは自分という個体や五感、イメージ、意識、認識は必要ない、重要視されていないように思うのです。自分ではなく、周りから見た自分の在り方を問うとき、きっと私たちは普段と違う「自己」と出会うのではないでしょうか。
高野山大学の先生は、
「目に見えない関係性の中で、すべての価値ある存在を救う」
とも教えて下さいました。
周りから見た自分の在り方というと、親から、上司から、夫や妻から、子供からなどと、まず自分の近くにいる人を思い浮かべそうになります。でも、前回のお話同様、そこからさらに範囲を広げて、私たちの存在は「空(くう)」であるとイメージしてみると、それは、振動や縁(えん)など、目に見えない、つかみどころのないもので構成されているわけで、そうした「目に見えない関係性」から見た私たち——たとえば宇宙や銀河、地球や世界から、国や社会から、植物や動物たちから見た私たち――と視点を変えてみるとどうでしょう?
普段気に留めていることとは全く違う次元
宇宙や銀河系から見る私たちなんて、大海原に揺れる波からの消えゆく泡のように、小さな一瞬の存在でしかありません。地球から見たら、好き勝手に生きて環境を乱している存在かもしれない。
私たちはどれだけ世界中の貧困や戦争で苦しんでいる人を知り、そのために何かができているでしょうか。国や社会から見たら、日本の歴史や今の現状をどれだけ把握できているでしょうか。
あるいは植物から見れば、人間にとってなくてはならない存在とわかりつつも、どれだけの資源を無駄使いをしているのかわかりません。
動物から見れば、あきらかに多くの問題を人間が彼らに与えていることに気づきます。
そんなことを思うと、私たち人間はもっと謙虚に生きるべきだし、今ある環境や一瞬の時間の大切さを噛み締め、何に対しても感謝の心を常に持ち続けていたいです。
ほかにも、何げなく食事をしていても、頂いている食材の野菜やお肉はどこで作られて、どれだけの人が関わって運ばれ、今ここにあるのか。このお皿は、グラスは、お箸は……。また食事だけでなく、洋服は……。と、自分の身の周りを見渡して、視点を変えて、関わっている人や物事を思い浮かべるとキリが無く(笑)、普段、気に留めていることとは全く違う世界が広がることに気が付きます。
そのときに広がる光景はおそらく人それぞれだと思いますが、そこには「実体」がありません。そして私たちの考えや答えはその時々によって変わっていくものですが、物事の本質は何があっても変わらないんですよね。
もっと深く掘り下げていくと、日本人として生まれて、この先何を学び、成長し、恩返しをしていけるのだろうか、という問いにも行き着くような気がします。
「色即是空」は、そんな普遍的な立ち位置や見えない関わり、感覚を知り、「すべての価値ある存在を救う」という人間本来のあるべき姿や役に立つ生き方のヒントをくれているのかもしれません。
監修:横山泰賢(日光山 禅昌寺住職・曹洞禅インターナショナル会長)