松竹新喜劇。昨年結成75周年を迎えた、大阪の老舗劇団です。その歴史はさかのぼると「喜劇」という言葉の誕生までたどり着きます。昭和を代表する喜劇役者・藤山寛美さん、2020年放送NHK連続テレビ小説『おちょやん』のモデルとなった浪花千栄子さんなどが活躍した松竹新喜劇は、近年、若手5人を中心とした新体制になりました。
ライターであるわたくし・宇野なおみは子役時代、ホームドラマに出演していました。そのせいか、今も人情喜劇が大好き。今回、藤山寛美さんのお孫さんでもある藤山扇治郎さんにお話を伺って参りました。
松竹新喜劇、その始まり
——まずは、「松竹新喜劇」そのものについてお伺いさせてください。
藤山扇治郎さん(以下、藤山):さかのぼると、明治37年に、元々歌舞伎俳優だった曽我廼家(そがのや)五郎さん、十郎さんという2人が、大阪の道頓堀で笑いをテーマにした舞台を立ち上げた。これが松竹新喜劇の大元の始まりです。このお二人は兄弟ではないんですけれども、歌舞伎の「曽我物」と呼ばれる兄弟が出てくる仇討ちものの演目がありまして。ここから名前を取って、同じ曽我廼家という苗字で芝居を始めました。そもそも、それまで日本には喜劇と言う言葉がなく、実は、「喜劇」の誕生もこの時なんです。
——旗揚げ公演が行われた瞬間に、日本に「喜劇」というジャンルが誕生したわけですか。
藤山:喜劇とは、まさに大阪から生まれた芝居でした。その後、またたく間に日本中に広がって、多くの劇団を生み出すことになります。今の松竹新喜劇の元の形が生まれたのは、戦後ですね。曽我廼家五郎さんの死をきっかけに、曽我廼家十吾さんの「松竹家庭劇」、終戦後地方に巡業に出ていた渋谷天外さんや浪花千栄子さん、祖父の藤山寛美などが所属していた〈劇団すいと・ほーむ〉、それから亡くなられた五郎さんの劇団の役者さんが合体・合流。昭和23年に松竹新喜劇が誕生しました。最初はいろんなバックグラウンドを持つ俳優の寄せ集めみたいな形だったので、さまざまな芝居の流派や考え方があったようです。
——団員の方は「曽我廼家」のお名前を持つ方が多いです。これは祖である曽我廼家五郎・十郎さんから続かれている?
藤山:たまたま僕が寛美の孫で、当代天外さんは先代の息子さんですけど、喜劇の祖である五郎さん、十郎さんからの上方喜劇を守っていこうと、劇団員は曽我廼家の名前を受け継いでいます。
——『曽我廼家喜劇 特作三十六快笑』(三十六歌仙のもじり)、『松竹新喜劇 裏表十八番』、『藤山寛美 二十快笑』と、多数の作品が上演され、「上方新喜劇」の形を作り上げてきました。現在は歌舞伎としても上演されている時代劇や、昭和の家庭や社会を描いた現代劇など、幅広いレパートリーがあります。松竹新喜劇の特色はなんでしょうか?
藤山:ただ笑うだけではない、感動、人の哀しみや迷いを描いた作品が多いんですね。初期は歌舞伎の流れを汲んでいたことから、歌舞伎のパロディーも多かったです。1番の特色は「俄」(にわか)やないでしょうか。これは江戸時代に生まれたアドリブ劇の一種ですね。
——「にわか狂言」と呼ばれる、元々は素人が思いつきで即興的に演じる滑稽な寸劇だったと言います。(参考:岐阜女子大学地域文化研究所)
藤山:初代渋谷天外さんたちが、台本にないアドリブを言うなど、お客様との一期一会の出会いを楽しんだ即興ですね。
——ジャズのセッションのような感じでしょうか。松竹新喜劇を語るうえで、藤山寛美さんの存在は大きいですよね。テレビドラマや映画にも積極的に出演してきた、大スター。その根幹には舞台があり、先ほど例に出した『藤山寛美 二十快笑』は、20年無休で公演を続けたことを記念して制定されています。
藤山:亡くなる平成2年まで、新喜劇の創設メンバーでもあった祖父の寛美が中心となり活動していました。その後、平成の時代は三代目となる渋谷天外さんが代表になり、上演を続けていましたが、昨年、世代交代として、僕を含めた若手5人(藤山扇治郎、渋谷天笑、曽我廼家一蝶、曽我廼家いろは、曽我廼家桃太郎)が中心とした体制になりました。
——2023年、世代交代を迎えたきっかけは何だったのでしょうか。
藤山:ひとつには高齢化という理由がありまして(笑)もともと松竹新喜劇は曽我廼家五郎さんの時代から代表が自分でホン(脚本)を書いて舞台を演出して、プロデューサー業も兼ねていた。全て代表が責任を負わなあかん面があります。長年やってきた先輩方が年齢を重ねて、しんどいいうか、負担がかかる状況だったんです。
——全国を巡る、オリジナルの芝居を上演する。そういった劇団は、かつて日本にたくさんあったと思います。例えば私がお世話になった京唄子師匠は「唄啓劇団」としてずっと活動されていました。今はなかなか存続が難しくなっているというか……。
藤山:なかなか、劇団を続けていくということは難しい現在ですが、松竹新喜劇は上方喜劇発祥の劇団であり、俄の精神も引き継いだ、古風であり、人情喜劇の祖でもある。歴史がある劇団ですし、良い作品がたくさんあるので、次の世代につなげていきたいと思っています。
——劇団の公演には、丁稚などの若い役から、老人の役までありますから、幅広い年代の方が必要になりますよね。
藤山:今劇団には、上は92歳をはじめとした大先輩がたくさんおられますし、最近も16歳の高校生が入ってくれて、僕たち若手が中心となり、ひっぱっていこうと話しています。若手言うのも恥ずかしいんですけどね、僕もう30半ばですもん(笑)
出会いはまさかの東京で。松竹新喜劇と“藤山扇治郎”が出会うまで
——扇治郎さんと松竹新喜劇の出会いもぜひお伺いしたいです。おじい様が藤山寛美さん、おば様が藤山直美さんならば、小さい頃から身近な存在だったのではないでしょうか。
藤山:いやあ、正直に申し上げてあんまり興味がなくて。よしもと新喜劇が好きだったんで、松竹新喜劇?よしもとと違てテレビでやってないやんって(笑)大阪の人間でも今は新喜劇って言ったら、まずよしもとさんを想像すると思います。祖父は僕が3歳の時に亡くなってますし。ただ、寅さんとか、宇野さんが出てはった橋田壽賀子ドラマみたいなホームドラマとか人情ものが好きな子どもで。
——ありがとうございます(笑)私も、ホームドラマが好きです。
藤山:それと、もともと歌舞伎が好きだったんで子役として出させてもらいまして、初舞台は東京の歌舞伎座でした。
——初舞台が歌舞伎座とは!それがどうして入団にまで至ったのでしょうか?
藤山:初舞台の時からご一緒していた、当時は勘九郎だった十八世中村勘三郎さんが祖父の事をよく話すんです。ビデオをたくさん持ってらしたそうで。「大好きなんだ、君のおじいさんのこと」って言われて。その時は「勘九郎さんはかっこええけど、おじいさんはなんか阿呆ぼんみたいな変な役しかやってへんし、面白いんかなあ」て思てたんですよ。そこから時は経っても、まあ相変わらずよしもと新喜劇と歌舞伎ばかり見ていて(笑)
——ぶれないままだったんですね(笑)
藤山:歌舞伎は子役として出演できるギリギリまで出させてもらいました。それから高校、大学と進んでやっぱりお芝居がしたいと思うようになって。そしたら、標準語を喋れないとダメやな、と。大阪が舞台のドラマや映画ってあんまりないじゃないですか。東京で新劇をやりたくて、青年座の研究所に入りました。
ホームシックがきっかけで祖父の芝居を見ることに
——確かに、今も扇治郎さんは生粋の大阪弁という感じでお話されています。青年座といえば、新劇の老舗劇団。その附属養成所に入られたんですね。
藤山:はじめての一人暮らしで、ホームシックになってしまった。引っ越しの際にたまたま、祖父のDVDを数本だけ持っていっていたんですね。ちょうど完全版というか全72作品が出たばかり。ひとりぼっちの部屋で初めてちゃんと見たんです。それが、『人生双六』。
——今度上演される演目ですね。
藤山:見たらものすごく感動して。ああ、藤山寛美さんってすごい人なんやなと、面白いだけじゃなく、人の心に寄り添える。共感、共鳴、思いやりに満ちていると感じました。ただ笑うて終わりじゃなくて、終わったあと、お客さんの心に残る。松竹新喜劇ってこんなに素晴らしいんや、自分も入りたいと思った。でも、窓口がなかったんですよ。
——どういうことですか?
藤山:当時は特に団員募集もしていなくて。たまたまワークショップがあって、子役の時知り合いだった松竹の方が、「青年座にいてると聞いたから受けてみないか」と声をかけてくださって、本名で参加したんです。その時、来年が65周年やから、入団したらどうかと勧められました。
——そこで入団を決められたんですね。それから昨年の75周年という、次の節目に立ち会われて。
藤山:最初、どうにも道がなかったのに、会社の方が引き寄せてくれたというか。そこからはとんとん拍子で。すごく不思議でした。青年座で芝居したくて東京に行ったのに、今まで見向きもしなかった松竹新喜劇に出会うことになった。大阪に住んでいたら、もしかしたら入ってないかもしれません。その時の縁ってあるんでしょうね。
——たまたま映像で藤山寛美さんの松竹新喜劇が見られる状態になっていたというのも、タイミングというかご縁ですね。そうなると、おば様である藤山直美さんは入団に関わってはおられなかった?
藤山:相談なんかはしていましたけどね、むしろ、僕が入るなんて意外だったみたいで。今はもう冗談になってますけど、会うたときに「入らへんよな?まさか、入らへんな?」なんて言われました。それなのに入っちゃった(笑)甥が入ったことにいろいろな思いはあったんじゃないかなと思いますけど、僕にとってはありがたい、頼れる存在です。
今、松竹新喜劇を上演する意味
——導かれるように入られた扇治郎さんですけれども、今、松竹新喜劇をやる意味とは何だと思いますか?
藤山:僕個人としては、やっぱり世の中は移り変わるもので、価値観も変わっていきますけれども、普遍的なものはあると思っています。それは人に対しての思いやりだったり優しさだったり。昭和と比べると、今は人との付き合いが減っている気がします。もはや、人に会わんでも生活できますよね。逆に便利になりすぎて、幸せを壊すこともあると思うんですよ。SNSなんかも、使い方を間違えると犯罪に繋がったり人を傷つけたりすることもある、便利すぎるのも怖いなと。だからこそ人と人の触れ合いが重要だと思うんです。
——便利さから予想もしなかった犯罪が生まれることも、一生に大きな影を落とすこともありますよね。
藤山:だからこそ、松竹新喜劇が描く、人情とか、心の温かさを持っていれば、悪い世の中にはならないんじゃないか。忘れ去られていくものをもう一回取り戻さなあかんという部分があると思うんです。世の中はどんどん変わっていくし、人とのつながりは希薄になっていくでしょう。でもそれは結局、人間が困る時代だと思うんですよ。はたから幸せにみえたって、実はそうじゃないこともありますでしょ。松竹新喜劇には、昭和の人間関係が全部詰まっています。
——私も以前舞台を拝見したとき、昭和~平成の再放送で見たホームドラマを思い出しました。
藤山:「あ、醤油がない」言うてたらお隣さんが「持っていくわ~」みたいな(笑)喜劇はただ面白いだけではなく、お客さんの心に訴えかけるものがあると思います。外国のコメディーとも少し違う。上方の喜劇っていうのは、面白さの中に悩みや苦しみ、悲哀があって、誰もが共感を覚えます。だって、人生普通に生きてて、面白いことばっかりちゃいますでしょう?
——はい(笑)
藤山:誰しも、ずっと人生が面白い人なんていてへんから。松竹新喜劇はそういったところを、うまく作品に落とし込んでいると思います。むつかしいことを提示しているわけじゃない。でも、古くなっちゃいけない。今の時代にも精通してなければならないと思いますね。
伝統を守りながら、今の時代にも精通していくこと
——今の時代に精通するという姿勢が、世代交代にもつながったのかもしれませんね。11月の大阪松竹座では、2本立てで1本はわかぎゑふさんの演出で、もう1本は投票で演目が決まったということでしたが。
藤山:今回大阪の演劇に精通しているわかぎさんに『砂糖壺』の演出をお願いしました。以前も松竹新喜劇の演出をやってくださっているんですよ。小劇場から大きな演劇まで演出されていますし、エネルギッシュ。楽しみです。また、投票で演目を決めるのは松竹新喜劇では初めての試みでした。
——扇治郎さんの人生を変えた『人生双六』が上演されますね。
藤山:でも正直、投票候補の演目が並んだ時、これになるかなぁとは思てました。何もかもがうまくいっていない人の物語だから、お客さんが共感する部分も多いんやないでしょうか。
——まさに、普遍的な物語ということですね。
藤山:うちの作品には、人と人とのつながりを訴えかける、見ている人が幸せになれる作品がたくさんあります。観終わって明日も頑張ろうと前向きになる芝居を今こそ残していきたいです。それが、今の時代を暮らしやすくなることにつながるんじゃないでしょうか。松竹新喜劇は人の心を、世の中を明るくできる劇団だと思うています。ぜひ、皆さんにご覧いただければ。
今までを大切に、これからを描いていく
大阪弁で、優しく、真摯に答えてくださった扇治郎さん。私の出演していた『渡る世間は鬼ばかり』は毎週見ていたとお話いただきまして、嬉し恥ずかしといったところでした。私自身も、ホームドラマの佇まい溢れる松竹新喜劇の温かさに惹かれ、今回記事執筆の運びとなっています。
さまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まり誕生した松竹新喜劇。現代まで続く理由のひとつは、「人を楽しませたい、笑顔にしたい、幸せになってほしい」という、喜劇が持つ願いとパワーなのではないでしょうか。
昭和の佇まいと大阪の人情を心に宿した、団員の皆さんが作っていくこれからの松竹新喜劇がますます楽しみです。
歴史の伝統を背負いながら、今の時代に必要な“人の心の暖かさ”をこれからも伝えていってくれることでしょう。