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Culture
2023.03.07

大阪松竹座100年の歴史。「道頓堀の凱旋門」と人々の想いとは

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街を歩けば、長蛇の列ができる大阪名物タコ焼きにお好み焼き、老舗のうどんや串揚げといった大阪のソウルフードが楽しめる、くいだおれの街・道頓堀。週末ともなれば地元の人たちだけでなく、遠方や海外からも観光客が訪れ、街は熱気に包まれます。初めての人でもなんだか馴染みの場所を歩いているような気分にさせてくれる温もりのある街、それが道頓堀です。

そんな街中にひときわ異彩を放っている西洋建築があります。大正モダニズムが花開いた時代、日本で最初の鉄筋コンクリート造りの活動写真館として建てられた『大阪松竹座』です。道頓堀の凱旋門と謳われた正面を飾るアーチは、現在もその美しいモダンな姿で当時の雰囲気を伝えてくれています。

大正12(1923)年5月にオープンし、今年で開場100周年を迎える大阪松竹座。ここから多くのスターが誕生し、日本のエンターテインメントの礎が築かれていきました。その長きにわたる歴史や劇場を支えた人々の想いに迫ります。

大阪といえば道頓堀が思い浮かぶ人は多いと思います!洒落た大阪松竹座の建物は、目立ちますね!

大正時代に活動写真館として洋画上映をスタートさせた大阪松竹座

現代では、誰でも気軽に海外の映画やミュージカルを楽しむことができます。しかし、大正時代といえば、芝居小屋での歌舞伎や喜劇が中心で、映画も活動写真館と呼ばれる小さな映画館で上映され始めたばかり。そんな時代に大阪松竹座は、洋画を上映する活動写真館をスタートします。さらに現在のOSK日本歌劇団の前身である松竹楽劇部のレビューなども上演しました。これは松竹の創業者である白井松次郎の発案で、いろいろな演目を上演するスタイルは、現代の劇場の原型でもあり、まさに先見の明といえます。そして、道頓堀が芸能の盛んな地域だったことから、二世市川猿之助や六世市川壽美蔵らの歌舞伎や、さらには交響楽団の演奏なども行われるようになりました。この新しい形の「民衆芸術の第一殿堂たる純欧風劇場」としての打ち出しが成功し、大阪松竹座は全国からも注目を集めるようになります。

大阪松竹座で上演された松竹楽劇部『アルルの女』の初日舞台

江戸時代から続く芸能文化を育んだ道頓堀

大阪松竹座の杮(こけら)落しの際に上映された『ファラオの恋』は、大正11(1922)年にドイツで製作されたエルンスト・ルビッチ監督の無声映画でした。世界でもまだ無声映画の時代に、日本では「活弁」と呼ばれる映画の解説をしながら上映する「語り」というスタイルが確立されていきます。これは人形浄瑠璃や歌舞伎、講談や落語などの伝統芸能の下地に積み重なった映画文化だったといえます。

大阪松竹座がここまで長く人々に愛される劇場となったのは、やはり道頓堀という地域の特性も大きかったのでしょう。そもそも道頓堀の歴史は古く、始まりは江戸時代にまで遡ります。元和1(1615)年に大坂(現在は大阪)が江戸幕府の直轄地となり、都市計画によって大坂中の芝居小屋がこの地に集められました。街には人があふれ、芝居茶屋が建ち並び、全国的にも芝居の町として知られていきます。ちなみにこの『道頓堀』という名は、この地に流れていた川を私財を投げうって整備し、運河を作った安井道頓(やすいどうとん)に由来したものです。道頓は、その後の街の賑わいを見ることなく、大坂夏の陣に巻き込まれ、亡くなってしまいます。

承応1(1652)年には、後に道頓堀五座(浪花座、中座、角座、弁天座、朝日座)と呼ばれるもととなった芝居小屋が軒を並べ、上方演劇の中心地として賑わいを見せていきます。京都・新京極で創業した松竹は、明治末期には長い歴史を持つ芝居街・道頓堀へ進出。この地に白井松次郎は、映画と実演を兼ね備えた西洋風の大阪松竹座をオープンさせます。

この頃、道頓堀ではNHKの朝の連続テレビ小説『おちょやん』のドラマにも登場する上方喜劇も賑わいを見せ、『おちょやん』のモデルとなった浪花千栄子や二代目渋谷天外などのスターが誕生していきます。

道頓堀から少し離れた公園内に、安井道頓の功績を記した巨大石碑があります。


大正12(1923)年5月、開場初 日の松竹座客席の様子

シネマの発展とともに新たな時代の幕開け

昭和に入ると、まさにシネマの黄金期が訪れます。洋画を中心に上映する映画館として、大阪松竹座の興行は成功を収め、昭和7(1932)年には、チャップリンも来阪。『モダンタイムス』が上映され、多くの日本人の心を掴みました。しかし、この頃から戦争の激化が進み、アメリカ映画の上映が禁止となります。ドイツやフランスの映画も徐々に禁止され、「国威掲揚」を主題とした映画が上映されるようになりました。昭和20(1945)年3月13日の大阪空襲により、道頓堀一体は大きな被害を受けます。しかし、この大阪松竹座だけは戦禍を逃れ、終戦を迎えるという奇跡が起こりました。そのため、終戦後の間もない8月末には劇場を再開し、映画上映を行います。これには敗戦という暗いムードの中、人々に大きな希望を与えました。

翌年、1946(昭和21)年には、『チャップリンの黄金狂時代』や『カサブランカ』などの洋画も上映され、戦後の復興を後押ししていきます。昭和27(1952)年7月には、再び洋画封切専門館となり、この時上映した『風と共に去りぬ』が大ヒット。2カ月のロングラン上映を記録します。また音楽では、ルイ・アームストロングらの海外アーティストの来日公演など、モダニズムの象徴として脚光を浴びました。戦後の復興に街が活気づく中、大阪松竹座は幅広い芸術文化を発信しながら、勢いを増していったのです。

映画はフィルムからデジタル、そして単館映画館からシネコンへ

大正から昭和にかけて激動の時代を生き抜いた大阪松竹座ですが、昭和から平成へと時代が変わる中、また一つ、大きな転換期を迎えます。今では当たり前となったシネコンですが、それ以前は映画といえば単館上映が基本でした。しかし、フィルムからデジタルへと移行される中、劇場運営が合理化され、複数のシアターを抱えた複合施設へと切り替わっていきます。松竹も全国にマルチプレックスシアターズといった複合施設型の映画館を運営するようになります。そういった時代の変化を受け、さらには建物の老朽化による再建築の必要性や道頓堀の再開発などが相まり、大阪松竹座は演劇専門劇場として生まれ変わることになりました。

美しいですね! 写真に撮りたくなる建物!


新生大阪松竹座

平成という新たな時代の劇場としての使命

平成9(1997)年、大正時代に建てられた外観のアーチを残した形で新しい大阪松竹座が再出発しました。これは、長年親しんできたファンにはもちろん、新たな世代にとっても、レトロモダンと和の融合した趣のある劇場は魅力あるものでした。一歩中に入れば懐かしい雰囲気を残すロビー。数寄屋建築風の和の雰囲気のある客席空間。3階席の廊下には、往年の役者たちの顔写真が飾られるなど、建物自体からも歴史と風格を感じさせます。上演される演目も和と洋を取り入れ、多彩に富んでおり、幅広い観客を動員することにも繋がりました。

「演劇専門劇場となり、まず第一にこの地域の文化的財産でもある上方歌舞伎を推していこうという方針がありました。そこに加え、スーパー歌舞伎などの大がかりな公演や松竹新喜劇、今までも上演してきたOSK日本歌劇団や海外のミュージカル、新作歌舞伎、新派に新劇、落語会と多様な演目を上演するなど、芝居においてもハイブリッドな劇場を目指しました」と藤田支配人は語ります。また平成11(1999)年には、関西ジャニーズJr.のコンサートが行われ、以降、関西ジャニーズJr.の公演が恒例になっていきました。

襲名披露公演という伝統的一大イベントの敢行

「大阪松竹座の一大イベントといえば、歌舞伎の大襲名ですが、開場の翌年に、片岡仁左衛門の襲名披露公演がありました。江戸時代から続く大名跡です。その後も、十世坂東三津五郎、十八世中村勘三郎に市川海老蔵(現:市川團十郎白猿)、四世坂田藤十郎や中村鴈治郎といった襲名披露が続きました。襲名披露は、次の時代に繋げる大変重要な興行で、他の世界にはない特別なものです。劇場のスタッフの取り組みも並々ならぬ緊張感で迎えます。ですので、お客様から『襲名を見るなら、松竹座』とおっしゃっていただいたり、『今でもあの襲名を覚えている』と伺うと嬉しい気持ちになります」と藤田支配人。
また、上方喜劇の代名詞ともいえる松竹新喜劇の大スター、二代目渋谷天外や藤山寛美などが作り上げた人情芝居も受け継がれていきました。現在も藤山直美や三代目渋谷天外といった上方芸能を代表する役者たちが活躍しています。花道に出てきた時の客とのやり取りや掛け声、大阪ならではのアットホームな雰囲気が役者たちを育て、お客さんを楽しませる庶民を代表するスターを生んでいるのです。

「大阪のミナミ、道頓堀の歴史の中から生まれた文化がある。この劇場もそうやって、演者の皆さんと観客の皆さんが愛してくださって、記憶や想いを積み重ねてくれた100年が、今に繋がっています。みんなで一生懸命努力して、いいものを楽しんでもらおうと必死に頑張ってきた日々の100年をこれからも繋げていきたい」と藤田支配人。

歌舞伎俳優が船に乗り込み、船上から見物人に挨拶をする「船乗り込み」は、大阪夏の風物詩として知られています。

次世代に向けて大阪松竹座が目指すもの

道頓堀を歩き、お店の人や客同士のやり取りに触れていると、いつのまにか地元の賑わいの中に溶け込んでいます。その空気をまとったまま楽しめるのが、大阪松竹座の良さでもあると思いました。「街には文化が必要で、その役目を劇場が担ってきました。街が装置であり、街に貢献できる劇場になっていきたいです」と藤田支配人は語ってくれます。令和7(2025)年には大阪・関西万博が開催。100周年を経た大阪松竹座は、日本の伝統文化を世界へと新たに発信していく契機となることでしょう。

令和5(2023)年1月、100周年を迎えた松竹座の初春を飾ったのは、歌舞伎界を代表する立女方、坂東玉三郎さんでした。常に新たな挑戦を続ける玉三郎さんが太鼓芸能集団『鼓童』と組んで上演した初春特別公演『幽玄』。3本の演目、『羽衣』『石橋(しゃっきょう)』『道成寺』を題材に躍動感ある太鼓と華やかな演舞で優雅な世界を表現しました。この100周年の特別公演に臨んだ玉三郎さんは、公演プログラムの挨拶でこんな風に語っています。

「(前略)劇場がいつまでも華やかにいられるということは、人間の豊かさと同じ流れのような気がいたします。松竹の創業者でおられる、白井松次郎さん、大谷竹次郎さんの大業によって私たち歌舞伎役者はこれまで生かされてきたわけでございます(後略)」。(『幽玄』公演プログラムより一部抜粋)

コロナ禍の3年間は、公演中止や様々な制限があり、劇場にとっても演者、関係者にとっても大変辛い時期が続きました。それでも、やはりエンターテインメントには、人々を元気づけ、笑顔にさせるパワーがあります。100年の長きにわたり、映画、演劇に関わるさまざまな出演者、スタッフ、関係する人々のたゆまない努力により、常に歴史と伝統を積み重ねて来た大阪松竹座は、一期一会のような舞台との出会いを通して、夢や希望を伝え続ける劇場として次の100年に向けて走り出しました。

書いた人

旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。